カリュクスのこと
青々と茂った木々の隙間から差す木洩れ日が、まるで教会のグリーンのステンドグラスを通して床面を照らす光のように、淡い翠の光をハジメたちに降り注いでいた。
ハジメとカリュクスは、家を出発してから大方5時間ほど歩き続けていた。
太陽の高度が高くなるにつれて、初夏を迎えた古代ギリシャの気温も上昇していく。
「暑い……」
ハジメが額の汗を拭いながらぼやくと、
「ハジメがいた世界と、どっちが暑い?」
とカリュクスが興味津々で尋ねてきた。
歩き始めてからこのかた、カリュクスはハジメに
「ニホン」
という見知らぬ国について、これでもかといわんばかりに質問を投げ掛けていた。
「そうだなぁ、たしかに夏はこのぐらい暑かったね。でももっとこう、湿度が高くてじめじめした感じの暑さだった。」
ギリシャは地中海性の温暖な気候のため、夏場はカラッと乾燥しているのだ。
「そうなんだ。ハジメはどっちの夏が好き?」
正直ハジメは日本にいたころ、夏があまり好きではなかった。
湿度は高くてムッとしているし、汗はかくし……
だがこの国夏は日本ほど過ごしづらくはなかった。
「ここの夏のが好きかな」
ハジメがそう答えると、カリュクスは嬉しそうに、
「そっか!」
と答えた。
別に自国が好きだと言われたから嬉しいわけではないだろう。
この細身の女の子は、ハジメが何をどう答えようと嬉しそうな表情をみせるのだ。
カリュクスのにこやかな横顔を眺めながら、ハジメはある疑問を頭の中で繰り返していた。
それをカリュクスに質問してみたかったのだが、
なんとなくそれを訊いてしまうと、ハジメのカリュクスを見る目が変わってしまうような気がして出来ないままだったのだ。
散々悩んだあげく、結局ハジメは彼女にその疑問をぶつけることにした。
「あ、あのさ。」
ハジメの躊躇いがちな口調にカリュクスは不思議そうに振り返る。
「ん?」
「さっきフィリコスさんに、『魔法がつかえる』って言ってたけど、それって……?」
魔法。魔の法業。人ならざるものが操る不思議な力。
今も昔も、日本もギリシャも、きっと一般人が魔法なんてものが使えないということは変わらないはずだ。
と、いうことは……?
「うん、使えるよ!言ってなかったっけ?
私、ニンフなんだぁ!」
ハジメの目が点になる。
そして頭が真っ白になる。
にんふ。ニンフ。
たしか、ギリシャ神話に登場する妖精のことだ。
カリュクスは、妖精?
たしかにハジメがあの浜辺でカリュクスに初めて会ったとき、その不思議な瞳のことをまるで人間じゃないみたいだ、と思ったのだが、まさか。
「ニンフって、妖精だよね?」
今の今まで、ハジメは妖精と喋っていたということだろうか。
「うん!びっくりしたでしょ!」
カリュクスはムフフッと笑いながら答えた。
「フィリコスさんもニンフなの?」
素朴な疑問。ハジメは勝手にこの二人は祖父と孫だと思っていた。
しかし老夫のニンフなどきいたことがない。
「ううん、フィリコスさんは人間だよ!」
そう言ってから、カリュクスは自身の過去のことを話し始めた。
「ニンフっていうのは、元々自由でいたずら好きな種族なの。だから私の友達はみんな魔法を使って人間にいたずらを仕掛けてたの。
私は魔法が下手くそだったから、あんまりいたずらしたことはなかったんだけどね。
でもね、私人間のことがすごく気になったの。
それでね、ほんとは禁じられてたんだけど、人間の町、アテネに少しだけ、降りてみたの。
そこで色んな人間の文化を初めて目にして、舞い上がっちゃってたんだ。
気付いたら薄暗い路地にいて、帰ろうとおもって振り向いたら、大きな怖い男の人が立ってたの。
手には短刀を握ってたわ。
私たちニンフの羽や瞳は、高く売れるんですって。
私怖くて、怖すぎて、動けなかった。
そしたら突然もう一人の男の人が現れて、短刀を持った大きな男を倒しちゃったの。
それがフィリコスさん!
それから私はフィリコスさんが大好きになって、一緒に暮らすようになった。
そこで魔法の修行も頑張ったんだぁ」
話し終えると、カリュクスは懐かしそうな目をして、空を、正確には光を透かしている木の葉を見上げた。
ハジメはフィリコスさんがそんなに強かったということに驚いていた。
「じゃあフィリコスさんはカリュクスの恩人で、お父さんみたいな人なんだね」
ハジメがそう言うと、カリュクスは照れくさそうに頷いた。
話を聞き終えると、また一つ新たな疑問が出てきた。
ハジメもカリュクスに負けず劣らず好奇心旺盛なのかもしれない。
「さっき羽って言ってたけど、羽、生えてる?」
カリュクスの背中は華奢な普通の女の子の背中だ。
「あ、実は出し入れ可能なのです」
カリュクスはいたずらっぽく笑うと、
「ん……」
と少し顔をしかめた。
すると、彼女の背中からスゥッと薄くて透明な羽が2枚浮かんできた。
「おお!翔べたりするの?」
「翔べるよ!でもすぐ疲れちゃうんだ」
カリュクスはそう言うと、すぐに羽をしまってしまった。
「さっきもいったけど、私たちの羽は人間にとっては高価な薬やアクセサリーになるの。
だから本当に信頼してる人にしか羽は見せないんだよ!」
ハジメは心が飛び跳ねるのを感じた。
つまり、ハジメは本当に信頼されているということなのだ。
しかし、出会った1日2日の人間を、普通そこまで信頼できるだろうか。
やはり人間とは違って、なにかを感じとれる力があるのかもしれない。
そして信頼するに足る何かを、ハジメから感じとったのかもしれない。
「あ、見えてきたよ!」
二人はもうすぐ森を抜けるというところまで来ていた。
その視線の先には、小さな家の寄り集まった集落が写っている。
「そこでしばらく休憩しようか」
ハジメはカリュクスにそう告げ、少しだけ歩を速めた。
カラッとした夏は、思いの外喉が渇く。
早く冷たい水で喉を潤したい。