旅立ち
「デルフォイならばここから北西へ2日も歩けば着くだろう」
まだほのかにシチューの香りが残った夕飯後の食卓で、ハジメはフィリコスに夢のことを打ち明けていた。
カオスから与えられた運命のこと、そしてその運命を完遂しなくては元の世界に帰れないこと。
その旅の第一歩がデルフォイに行くことであるということ。
ハジメは普段見た夢をはっきりと覚えていることが少ないほうなのだが、何故かあの夢は最初から最後まではっきりと覚えていた。
「たぶん、俺が背負っている運命がなんなのか、それがデルフォイに行けばわかると思うんです」
正直今のままではなにがなんだか。
運命をやり遂げるためにも、まずはその運命が何なのか知ることが必要だった。
それに、何故ハジメがその運命の遂行者に選ばれたのかもしりたかった。
「2日分の食料と旅にかかるお金はわしがだそう。君はどうやら一文無しらしいからの」
「そんな、さすがにそこまでしてもらうわけにはいきません!」
「いいんじゃ、気にするな。これも何かの縁だ。
きっとデルフォイに着いたらもうここには戻らんだろうから、わしにできる最後のもてなしだ」
そう言ってフィリコスはハジメが借りている部屋と反対の方の部屋に入っていってしまった。
ハジメは、外観がこじんまりとした小屋という感じだっただけに、意外と部屋数が多いこの家の造りに少し驚いていた。
それにしてもフィリコスはいい人にも程がある。
もし自分が彼の立場だったら?
見ず知らずの異国の人間にここまでのことができただろうか。
きっとできなかっただろう。
ハジメはただただフィリコスの懐の広さに感動していた。
その時、ハジメが夢のことを話し始めてから今まで一言も発していなかったカリュクスが、突然口を開いた。
「ねえハジメ!私もデルフォイに連れていって!」
予想外の発言に、ハジメは目を丸くした。
「ど、どうして?」
あまりにもシンプルな疑問が口をついて出た。
「私、ここからあまり遠くに行ったことがないの。フィリコスさんもアテネ以外には用事がないし、一人でどこか行こうにも危ないからダメってフィリコスさんに止められるし……それでも私、色んな世界を見て回りたいの!ね、いいでしょ?」
ハジメは俊巡した。
カリュクスには命を救ってもらった恩義がある。
無下に断るわけにはいかない。
しかしハジメ自身、旅の全貌が全くわかっていないのだ。もしかしたら様々な危険なことが待ち受けているかもしれない。
そんな状況にカリュクスを巻き込みたくはない。
「カリュクス、ハジメくんは旅行に行くわけじゃないんだ。遊び半分で邪魔をしちゃあいけない」
フィリコスが部屋から中身がパンパンに詰まった革の袋のようなものを担ぎながら出てきた。
「ほら、これだけあれば足りるだろう」
フィリコスはハジメの足下に大きな荷物を置いた。
「遊び半分じゃないもの!私は本気よ!
それにハジメの邪魔なんかしないわ!
こうみえて魔法だって使えるんだから!必ずハジメの役に立って見せる!」
その目があまりにも必死だったので、ハジメはつい、
「俺は構いませんよ。一人で旅に出るのも寂しいと思っていたところでしたし」
と答えてしまっていた。
「やったぁ!ありがとう、ハジメ!」
カリュクスは飛び上がって喜んだ。
こうしてみると、なにか小動物のような、そういう可愛さが目につく。
ハジメは思わず口元を綻ばせていた。
「ハジメくんがそういうなら……それでは、この子をよろしくお願いします」
フィリコスは深々と頭を下げた。
どこまでも礼儀正しく、優しい老人だった。
「明日の朝早く出発するからね。早く寝た方がいい」
ハジメはカリュクスにそう告げ、自身も部屋に引き上げた。
夜が明ければついに出発だ。
デルフォイでは神託によってなにを教わるのだろう。
大変な運命じゃないといいけど。
そんなことを考えているうちに、ハジメの意識は深く深く落ちていった。
今度は夢を見ることはなかった。
翌日、朝日が昇る頃にハジメとカリュクスは家の扉を開いた。
空気の澄んだ、爽やかな朝だった。
自動車から吐き出される排気ガスや、大工場から吹き出る黒煙に汚されることのない、美しい空気。
ハジメは胸いっぱいにそれを吸い込んで、うん、と伸びをした。
「それじゃあ気をつけるんだぞ。
デルフォイまでは整備された道がほとんどだし、人通りも多い。魔物や盗賊に会うことは多分ないだろうが、なにがあるかわからんからな」
フィリコスはそう言ってハジメにギチギチと音がしそうなくらいなにかが詰まった巾着を差し出した。
「デルフォイまでにかかるかもしれぬ分のお金だ、少ししか入ってないからよく考えて使いなさい」
まるで正月にお年玉をくれる親戚のおじいちゃんみたいだ。
その瞳には心配そうな色が浮かんでいた。
「何から何までありがとうございました。
カリュクスと二人、必ず無事にデルフォイまでたどり着きます」
ハジメは深くお辞儀をし、カリュクスとともに
「いってきます!」
と大きな声でフィリコスに告げた。
「いってらっしゃい。ゼウスの加護のあらんことを」
フィリコスに背をむけ、二人は丘を森の方に下り始めた。
ついに、ハジメとカリュクスは長い旅の第一歩を踏み出したのだ。