行ってきます
「ただいま」
一は自宅の黒い金属製の玄関扉をあけながらそう言った。
「お帰り~」
奥の部屋からそう返答があった。母の声だ。
一の母は専業主婦だった。一が生まれる前はどうやら父と同じ職場で働いていたそうだが、一の出産を機に退職したらしい。
その父の職場とは、「文芸一歩」という小説連載雑誌の編集部だった。父はその編集部の中ではそこそこの力をもった立場だったらしく、割と有名な作家が父の自宅、つまりは一の家を訪れることも珍しいことではなかった。
一が読書マニアになったのも、そんな環境のせいだといえるだろう。
とはいえ、一と父の関わりはそこまで深いものではなかった。
一の父は仕事柄、家に帰らず編集部に一週間ほど泊まりこみ、なんてこともよくあった。そのため一は、幼少期の父との思い出というものが、ほとんどなかった。
たまに帰ってきたと思ったら疲れからすぐにベッドに横たわってしまう。幼い時の一にとって父は、「たまに家に来て、寝て、食事もせずにまたどこかへいく、ただの男の人」だった。
靴を脱ぎながら、一はそんな父のことを考えていた。
「・・・!」
靴がある。いつもより1つ多く。
母の白いスニーカーと自分の通学靴以外に、もう一足、黒い革靴がきれいに揃えておいてあった。
「あ・・・」
目の前にいたのは、先程から一の脳内を占領していたその人、
一の父だった。
「お帰り、一」
父は少しだけ微笑みながら、そう言った。
「なんで、父さんが?」
一は困惑していた。
「・・一、実はな父さん、お前に大事な話があるんだ。」
父は改まった顔でいった。
「え・・?な、なに?」
もしかして・・クビ!?それか・・倒産!?それとも・・?
「父さんな、今日から・・」
ドクン・・ドクン・・一の心臓が高鳴る。
「・・・・一週間ほど、休みをとったんだ!だから一、旅行に行こう!」
「・・・・・は?」
一は硬直した。なんだ?旅行?リストラでも倒産でもなく?
今までのドキドキを返してほしかった。
とはいえ、一も父と旅行など一度も行ったことがなかったから、
正直嬉しかった。
「どうだ?今計画してるのは関西だ。京都のお寺とか、好きだろ?」
一は小さく頷いた。
父親と、京都のお寺巡り。今まで考えたこともなかった。
「まあ詳しいことは夕飯の時にでも話すよ。今日もまた、裕太君と約束してるんだろう?」
そうだった。すっかり忘れていた。
玄関の置き時計に目をやった。もうそろそろ裕太が呼びにくるだろう。
「うん・・わかった、またあとでね」
一は父にそう言い、二階にある自室へ急いで引き上げた。
そして大急ぎで出かける準備をした。
ピンポーン!
「はーい、あら裕太君!ちょっとまっててね!今呼んでくるから」
「あ、おばさん、おじさん、こんにちは!お願いします!」
階下から2人の話す声がする。
「一、裕太君きたわよ」
「わかってる」
一階へ下りると、裕太が待ち構えていた。
「おせーぞはじめ!ほらいくぞ!」
そういって裕太は一の服の袖を引っ張った。
「わかったって!引っ張んなよ」
一は転倒しそうになりながらも、なんとかもちこたえて靴をはいた。
「行ってきます」
一は両親に向けてそう告げた。
「いってらっしゃい」
2人とも優しく微笑みながら一を見送った。
あと何時間かすれば、自分はまた「ただいま」と家に帰る。
一はそう思っていた。いや、思ってさえいなかった。
今までもそうだったし、これからもそうだろう。そう信じて疑わなかった。
まさか、「ただいま」を告げる日が、ずっとあと、遥かな冒険の先にあるなど、思うはずもなかった。
この時は、まだ。