美しい天使(Ⅱ)
また僕は空を見上げてあの子を待っている。
「ぼっちゃん、空に何かお有りなんで?」
乳母が言った。
「…うん、…ケホッ…!」
うっかり咳をしてしまった。
僕にとってこれはかなり深刻な事態だった。
なぜならば、心配の嵐の前触れだからだ。
「ぼっちゃん、今お咳が…」
「ううん。出てない。」
「ぼっちゃん!隠し事は無しです!」
「出てないよ。」
「ぼっちゃん!!」
「……はい、しました。」
いい加減腹が立つ。
乳母にではない。
弱い自分の身体に対してだった。
「…あ、窓が開いて…」
「さっきヒメが開けたの。今日は天気が良いから外の空気に触れないなんてもったいないって。」
「あら、きっとそれのせいね。身体に障りますからもう閉めますよ。」
「うん。……くっ、コンコンッ、…くしゅっ」
「ああほら言わんこっちゃない!今薬を持って来ますからね。」
窓を閉めた乳母はそう言って退室した。
静かになった部屋で、また僕は空を見上げた。
翼が欲しかった。
あの子のような大きくて強い翼が。
そうしたらきっと、広い世界に出て行って今よりずっとたくさんのことが出来るに違いなかった。
「会いたいなぁ……ぁっ!」
『大丈夫よ。いまに貴方は元気になって、皆と同じに走ったり遊んだり出来るようになるわ。』
いつかにヒメが言っていた言葉が脳裏をかすめた。
「……本当に?僕にできるかしら。」
手にベッタリ付いた血を見下ろして、少年は苦笑した。
「……っ…おぇっ…」
布団に大きな血染みが広がって、目尻から雫が零れたとき。
あの子が颯爽と現れた。
【ーーーどうした。】
いつもの無表情の中に焦りが見えた気がして僕は思わず笑みを浮かべた。
「来ぇっ…ゲホッ…くれたんだ。うぇしぃ…ゲホッゲホゲホ…な…」
笑顔が引きつりそうな程胸がじんじんと、痺れる様な熱を持った痛みが襲ってきていた。
息をする度、喉がくるるぅー…くるるぅー…と変な音をさせた。
生ぬるい何かがせり上がってくる感じがして、咄嗟に覆った手の指の隙間から血が流れ出た。
「……っけほっ…けほっけほっ、……」
血だらけの指がべたついて指どうしがくっつく。
それを剥がしながら咳き込んで、また新しく血が飛び散る。
【おい、……平気か?】
口が歪んだ。
この状態を見てそう言ってくる人はほとんどいない。
やっぱりこの子は死神かもしれない。
「…ぼ…くの、命を、取りに来たの?」
【ーーなんだと。】
その子の顔が暗い影を落とし、ひどく傷ついた顔をした様に見えた。
「…あ、ご、ごめんね。ごめ…っ、ゲホッ…ゲホッ…」
悲しかった。
ほとほと自分が嫌になった。
好きな子を傷つけてしまった。
情けなさに涙が零れたーーー
不意に微かな風が起こって、温い手が涙を拭った。
【ーーーお返しだ。】
そう言って、その子は僕の胸に手をかざした。
【悪い血は、全て吐いてしまうに限るでな。】
かざした手をくいっと捻った。
「…っあ、…ァ、……」
ドックン、と今まで感じたことが無い程大きく脈打って、言いようのない苦痛と気持ちの悪さが全身を駆け巡った。
同時に口から血が噴き出した。
【これで少しは楽になるだろう。】
静かで威厳に満ちた声は、少しも揺らがなかった。
【ーーもうすぐ帰ってくるな。我はおいとまするとしよう。】
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
【ーーまた会おうーー】
一瞬木々がざざぁっと枝をならし、空気がヒュンと斬り裂かれる音がした。
【ーー疲れたろう、少し休むと良いーー】
耳に残ったその言葉を聴くうち、瞼が重くなり、頭がボーッとしてきて、コクっと頭を倒すとベッドに倒れこんだ。
目の端で、カップが飛び散る大きな音がした。
その日僕は、今までの不眠を返上するかのように眠り続けた。
おまけ
今更だが、自分はこの子に随分と酷なことを言ったのかもしれない。
いつか元気になるなんて。
なんて無責任で、いい加減な言葉だろう。
「だって、そんなに悪いなんて、知らなかったのだもの。」
青白い従兄弟の顔を睨みつけ、ふっと力を抜き、少女は寂しそうだった。
「もっと、頼って欲しいのよ。」
だって、私の方がお姉さんだもの。
「そういえば、あなた。何も言わなかったわね。」
ただ笑っていた気がする。
元気にならないと知っていたのか。
「なによ、大人ぶっちゃって。」
ヒメルダはそっと、従兄弟の額に口づけをした。