第二章 アイドルⅠ
「……………」
『…違う!あれは私じゃない‼』
「……………」
『信じてよ、ねえ!誰か信じてよ‼』
「…………はあ…」
嫌な夢だ。
いつからか見始めた、途方もなく辛い夢。
だがそれはただの夢ではない。
現実に過去に起こった出来事だった。
だからこそ辛い…。
思い出さなくてもいいことまで思い出してしまい、夜中に目覚めてしまうこともしばしばだ。
枕元の目覚まし時計を見る。
ほら、いつも通り。時計は未だ午前三時を指していた。
(…辛いなぁ………)
体は妙に疲れている。
呼吸は荒く、動悸がする。
苦しい。涙が溢れてくる。
でも今日は新しい学校に初めて行く日だ。
きちんと寝ておかないといけない…。でもまたあの夢を見てしまうかもしれない…。
結局、そんなことを考えている間に時間は過ぎていった。
「おはようございまず、先生!」
「おう、おはよう!」
安藤功の朝は今日も早い。
部活の朝練や自主勉強のために朝早くに学校にやって来る生徒を、ジャージ姿で待ち受ける。
腕組みをして仁王立ちする姿は、まさに待ち受けるといった風である。
「おう、お前ら今日は早いな!」
「げっ…イサオン…。何でいるんだ…?」
珍しく朝早くやって来ていた三年生の男子集団が、『イサオン』という(おそらく非公認の)あだ名で呼んでいる。
「ふっ…イサオンは毎朝この時間はここに立っているぞ!お前らが朝早く学校に来たことがないから知らなかったんだ!」
…どうやら自称の類だったようだ。
「というか、お前らこんな時間から何の用事だ?勉強に目覚めたのなら、それは実に素晴らしいことだが…」
「そ、そうなんですよー。皆で集まって朝の復習をしようって…。では急いでいるので!」
「おう!引き止めて悪かったな!頑張れよ!」
「はい、分かりましたー!」
気のない返事が徐々に遠ざかっていく。
明らかに怪しい挙動だが、イサオンこと安藤功は気に留めることはない。
ただ、無関心というものとはまた少し違う。
あえていうなら、関心があるが故に不干渉を貫くといった風か。
彼は教師生活約二十年間、このスタイルでやってきた。
生徒たちが自分で考え、そして行動するのが一番であるという考えからだ。
ただ最近は、それに反する行動が増えてきている。
誰のせい…というのは、言うまでもないだろう。
無茶して大けがを負ったり、監視の目をかいくぐって病院から逃げ出したり…。
流石のイサオンも、ここまで事件性があると積極的に関わらないわけにもいかない。
(…とりあえず昼前に警察の方から連絡が入るから、時間を見つけて捜索に加わって…)
「おはようございまーす‼」
「…おお、おはよう!」
考え事をしながらでも、生徒達の挨拶にはきちんと返事をする。
流石である。
(むっ…?)
その時ふと、視界の端に見たことのない女の子が映った。
偶然か狙ってのことか、その女の子は元気いっぱいの女子集団の陰に隠れるように校門をくぐっていった。
(そういえば今日は転校生が来るんだったな…)
すでに歩き去ってしまった方向を見ながら考える安藤功であった。
「おはようございます」
「―おはよう!」
不意打ちにも対応。やはり流石である。
「行ってきまーす‼」
渡辺朋美は、今日も元気に家を出る。
「…うふふっ!」
…実に楽しそうである。何もないのに一人で笑ってしまうとはなかなかだ。
彼女がこれほどに上機嫌なのには、ちゃんとした理由がある。
それは真田竜馬の母、真田恵美からの一通のメールであった。
何の変哲もないメール。ただ二文、
『明日には学校に行けそうです。よかったね』
この簡単な文章だけで、全てが伝わっていた。
というか、これを伝えるためにアドレスを交換していたのである。
『ほら、竜馬の状況をいち早く伝えてあげるから、アドレス交換しましょう?』と、半ば強引に。ただむしろ、それは大歓迎といった風に。
二人は、少々年の離れたメル友になっていたのだった。
朋美は綺麗に舗装された道を、陽気に歩く。
もう道に迷ったりしない!
………………
「………………」
…しない…よね?
ところ変わって三予市民病院。
竜馬と拓磨が入院している病院である。
比較的元気な患者さん…特に年配の方などの朝は早い。
元気よくラジオ体操をしていたり、朝食をとっていたりするそんな穏やかな雰囲気の中。
竜馬たちの病室は物々しい雰囲気に満ちていた。
「…お願いします…。そこを通してください…」
「だめよ、真田竜馬君…。ここを通すわけにはいかないわ…」
「いや、何で………」
「だってあの後いろんな人から怒られたんだから。全く…普通窓から逃げようなんて思わないでしょう…。というかあの先輩絶対ストレス発散に利用してたでしょ、あーもうイライラする…。ということで、真田竜馬くん‼」
「は、はいっ!」
「ここを出ることは許しません!」
「朝ごはん食べに行きたいんですが!」
「ダメです!」
「何でっ⁉」
どうやら先日の騒動で迷惑を被った看護師さんみたいだ。
大変ご立腹のようです。
というか…
(なんか変じゃないか…?)
若い女性の看護師さんなのだが、先ほどから絶妙に目が合わない。
というか、ハイライトが消えているというのが正しいのか…。そういえばつい最近どこかでこんな目を見た気が―。
「大丈夫。相川君も病室にいてもらってるから………。無理やりね」
「―やっぱりかぁ!…何なの⁉母さんといい、女の人は皆こんな感じなの⁉怖い!女の人って怖い‼」
「大丈夫よ!言うこと聞いてくれたら乱暴にはしないから!」
そんなことを大声で叫ぶものだから、様々な人が様子を見にやって来たことは言うまでもない。
「ちょっ⁉あなた何を言ってるの!」
「せ、先輩⁉大丈夫です!ちゃんと見張っているので大丈夫ですよ!」
「いや、何だか問題になりそうなこと叫んでたけど⁉」
「大丈夫ですよ‼」
「だから何が大丈夫なのよ⁉」
「ふぅ………」
突然騒々しくなった病室で竜馬は息を吐く。
この感じ。周りで様々な声が響き、一人じゃないことを実感する。
それと同時に、今どこかで一人であろう友人のことが気がかりになってくる。
「…なーにため息ついてんだ?」
「いや何でも………って、うわっ⁉」
と、物思いにふける間もなく、竜馬のベッドのそばから声が聞こえる。
「…なーにやってるんだ、拓摩」
「へへっ」
膝立ちにでもなっているのだろうか、見えるのは上半身だけ。
ベッドに肘をついてこちらを見ているのは、相川拓摩ご本人。そういえば先ほど―。
「―病室にかっ………軟禁されているって聞いたけど?」
「今何か別の言葉を言いかけたのは、あえて聞かなかったことにしとくよ…」
そもそも『病室に軟禁』もだいぶパワーワードな気もするが…。
「まあそのなんだ、騒ぎに乗じて脱出してきた。」
「騒ぎに乗じてって…」
(…いや、騒ぎにはなってるか…)
未だに何やら言い合っている看護師さんたちを眺めながら、少しの間沈黙する竜馬。大したことのない思考の間だったが、拓摩はふと切り出す。
「…なあ、竜馬」
「ん?どうした?」
「もう終わりだと思うか?」
「………何が?」
脈絡のない質問のようだが、竜馬の返事に少しの間があった。予期していたというか、ふと自分も考えていたことであろうからだった。
対して拓摩は、すぐに続ける。
「あの化け物たちと戦うことになるのは…だ。」
「……………」
「…ひょんなことで航輔が無事帰ってきて、また元通りの日常が戻ってきて…」
「……………」
「…これから先一度もあんな戦いに巻き込まれることなく、平穏な毎日を過ごしていけると思うか?」
「………無理、だろうな…」
「うん、やっぱりそうだよな」
精一杯時間を使って答えた竜馬と、それにすぐ返した拓摩。
その差はあれども、二人にとっての理由はそう変わらない。
片や戦いの中で手も足も出ずに敗れ、片や眼前の敵の威圧感に圧倒され何もできなかった。
もう戦うことがないならそれでいいが、航輔の失踪はそれらの戦いのすぐ後である。
関係がないとは、どうしても思えなかった。
そして関係があるのならば、もう負けてはやれない。こんなことをしている場合ではない。
「…退院したら特訓、するか…。拓摩、何したらいいか分かる?」
「いや、分かるわけないだろ。………まあとりあえず、基礎体力からじゃないか?走ったり、筋トレしたり。」
「おおう…分からんとか言いながらのかなり具体的な回答…。流石だな」
「おまっ…茶化すなってぇ!……………ほら!」
「ん?」
拓摩はおもむろに、手のひらを下にしてベッドに置いた。ちょうどその掛布団の下には竜馬の足があるので、そこに手を添えるようになっている。
「え?んん?」
「ほら、うなってないで竜馬も手を置いて!」
「ああ………あっ…」
「分かった?」
三人ではなく、いつもより隙間の空いた円陣だが、それはまさにいつものあれだった。戦いの前に互いの存在を確かめ合ったそれだった。
「…二人だとただ向かい合って手を合わせているだけだな………。早くこの隙間を取り戻せるよう頑張ろうな」
「…ああ―」
「―じゃあそろそろいいかしら?」
「‼」
「‼」
そうだった。当然彼らの後ろには…。
「あなたたちまたコソコソと何を話していたの!相川君は早く自分の病室に戻りなさい!」
またしても竜馬の病室に大声が響き渡ったのは言うまでもない。
「……………」
一人になり静かに黙り込む竜馬。その胸中には複雑なものが渦巻いていた。
(…そうだった…。二人を守るだなんて言っておきながら、一番に負けて迷惑かけて…。それに―)
戦わなかった。戦えなかった。あの時の感覚が鮮明に蘇ってきていた。
体は重く、関節は接着剤ででも固められたように動かない。頭も働かずに、ただ目の前の現状を眺めているだけ。
緊張なのか、恐怖なのか、それともただ弱いだけなのか…。
正直このままなら戦わないほうが―
「―いいはずがない…」
「……………」
一方拓摩もまた、一人思い悩んでいた。
(結局あいつには…あの真っ黒な姿の男には敵う気がしなかった…。あの場では戦うことはなかったが、次はどうなるか分からない…。そして戦いになったら今のままじゃ………絶対に勝てない。)
航輔を取り戻す。竜馬を守り抜く。
(そのためには―)
「―まだまだ足りない…」
「…強くなるんだ…」
「…強くなるんだ…」
お互い知らぬ所でシンクロした声は、確かな力強さを秘めていた。




