第七章 一難去って…Ⅰ
「んー…何だったっけな…?」
病院の真っ白なベッドに腰かけて、竜馬はテレビの画面に映されたクイズの答えを考えていた。
それは朝の情報番組。
つまり今は朝だ。
「何々…って、あんたそんな問題も分からないの?“また一難”よ」
「…いや、知ってたよ?ただど忘れしてただけ。………………ところでどんな意味だっけ?」
「………それもど忘れってわけね。読んで字の如く、一つ災難が起きてすぐにまた次の災難がやって来るって意味よ」
「へぇー…、覚えとこう」
「いや、あんたまさか本当に知らなかったの⁉」
「うんっ‼」
「そんな良い笑顔で言うんじゃない‼」
「……………」
「……………」
その頃の拓摩と航輔。
病院に一晩泊まり、竜馬の所に顔を出して帰って来た翌日。
いつかの竜馬のように親の制止を振り切って出てきた二人は、彼らにしては珍しく、というか人生初だろう。
二人一緒に歩き始めてから十分以上、一言も言葉を交わしていなかった。
見る人が見れば異常気象か何かの前触れかと勘違いしそうなこの状況の理由は、二人の歩き方から見て取れた。
ずるずると足を引きずっているし、両手にもほぼ力が入っていない様子。
例えるなら、ゾンビか何かのような歩き方で。
よくぞまあ、その体調で学校へ行こうと思ったものだ。
「……………」
「……………」
そのうえ何一つ喋らない。…というか、喋れないのか。
そんな彼らに代わって端的に説明すると、ズバリ二人は筋肉痛なのだ!
「……………」
「……………」
それも尋常ではないレベルの。
足を上げたくても上がらないとか、両手に力が入らないというほどのものだ。
「……………」
「……………」
全身がそんな感じになっているため、歩くので精一杯。
彼らには、とてもいつものように会話をする余裕などなかった。
「…………………………」
「……………………拓摩…」
「………何?」
「これ…間に合うか?」
「…さあ……?」
拓摩と航輔は、これまた珍しくのろのろと歩みを進める。
このままではまぁ、間に合わないだろう。
更に、
「何二人とも!やけに静かやけど体調でも悪いんか?」
「何かあったなら、おばちゃんに相談してみ?」
そんな町の人たちの声に一つ一つ答えていたら、それはもうどれだけ時間がかかるか分からないのである。
「だ、大丈夫だよ…おばちゃん…」
「だーれが、おばちゃんやって⁉お姉さんと呼びなさい!」
「い、いや…自分でおばちゃんって言ったんじゃん…」
そうやって歩き続けることなんと一時間!
いつもなら二、三十分で歩き着く距離であるから、よほどゆっくりと歩いたのだろう。
それでも、そのまま歩いて学校へ向かおうとする辺り。
航輔だけでなく拓摩もまた、ある意味バカなのだろうかとも思うが…。
…まあ、そんなことより。
拓摩と航輔はいつもの倍ほどの時間をかけて学校へたどり着いた。
もちろん、一時間目に間に合っているはずもない。
時計の長針は、授業が始まった時間から半周以上進んでいた。
「せ、せんせー。遅れまし……た?」
危うさも見える足取りで先に教室へ到着した拓摩。
授業の邪魔をすまいと、後ろの入り口から入った矢先のことである。
「……………」
拓摩は突然そのままの形でフリーズした。
動かないだけではなく、完全に沈黙したその理由は明らかに教室内にあった。
とりあえず先生がいない―まあ、これは例にもれず自習中なのだが、そもそも拓摩は最近の授業があらかた自習であることを知らない―。
更に追い打ちとして、というか真の理由はこちらだろう。
「…………ひっく…」
「……良かった、良かったよう…」
「……………………………………………………………………」
(………は?)
いつもは我先にと騒ぎ立てる二人の少年が、人が変わってしまったかのように静かに泣いていた。
(………はっ⁉いやでも、まさか宗親と隼があんなに静かなんてありえない………。いやでも、目の前で確かに起きてることだし…………。いやでも、これが夢の中での出来事かもしれないし………。いやでも、朝目が覚めたのは覚えているから………。いやでも、そこから夢だった可能性も捨てきれないし……………。いやでも、いやでも、いやでも、いや―)
「あ、相川君。もう体は大丈夫なの…って、気絶してる⁉早く保健室に‼」
その頃…
のそりのそりと廊下を歩き、遅刻したとはいえ何とか教室へたどり着いた航輔は、
(……………やばい…)
本人曰く、やばいことになっていた。
ことの発端は少し前。
拓摩同様、自分のクラスの前になんとかたどり着けた航輔は、開けたままの教室後部のドアから中を見る。
見えたのは真面目に机に向かって手を動かしている者達と、その机に突っ伏して動かない者達だった。
(うん、普通に授業中だ。)
机に突っ伏して熟睡している者がいて、普通というのも、ちょっとどうかと思うが…。
まあ、そういうことで。
航輔はどんな言い訳をしようかと、その無い頭をひねって考え始める。
思えばその時間が要らなかった。
このわずかな時間があるかないかで、後の状況が大きく変わる。
(うーん、やっぱり犬に追いかけられたとかそういうのが………。ん?でも、この歩き方見せたら、もうそれが理由な気が―ンヌッ⁉)
彼にしては珍しく、実に合理的な結論にたどり着いたその瞬間。
航輔の両足に引きつるような激痛が走った。
筋肉が痙攣のような状態になり、足が動かせなくなる。
一言でいうなら、足が攣ってしまった状態だ。
(痛い痛い!何だこれ⁉)
篠原航輔、人生初の足攣り体験である。
(何だこれ…俺は死ぬのか…?)
…いや、足攣って死んだ人は、この長い人類史上いないと思うのだが…。
というか、彼は何故一人で黙って悶えているのか。
航輔が立ち往生しているのは、教室に入る寸前の所。
目の前にクラスメイトたちがいるのだから、普通に声をかけて助けを求めればいいものを。
まさか、声をかけるという選択肢すら思いつかない程にバカになってしまったのか?
「相川君、しっかりしてー‼」
「いや、ちょっと目を回しただけだから大丈夫…」
という声がかすかに聞こえる。
(なるほど…拓摩はこの状況から一人で立ち直ったのか…。ならば―負けられない!)
別に拓摩も足が攣ったとは一言も言ってないし、というか目を回したと言ってるんだから違うのは間違いないし、そもそももしそうだったとしても何でわざわざ張り合うのかとか、とにかく色々言いたいことはあるがまあ諸々置いといて…。
結局航輔は一人で未知の痛みと格闘することにしたのだった。
キーンコーンカーンコーン
一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
あちこちの教室から声が聞こえてくる。
それはもちろん航輔のクラスも同じこと。
真面目に自習をしていた者。しかたないと渋々勉強していた者。勉強せずに寝ていた者。
それらは混在しているが、授業終わりのチャイムをきっかけに動き出すのは皆同じだ。
「……………」
「「「え?」」」
なれば、航輔の姿を確認するのもまたほぼ同時である。
「……………」
「い、いつからそこに…?」
「……だいぶ前…」
一人の男子生徒の問いかけにそう答える航輔。
「すげぇ…全然気が付かなかった…」「黙ってたら案外存在感ないのね…」
そんな声があがるうち、
「よっしゃあー‼遊びに行くぞー‼」
「おう、宗親―‼」
大声が聞こえ、いくつか隣の教室から大量の足音がやって来る。
その先頭には目を真っ赤に腫らした泉宗親と木田隼。
更にその後ろにはゆっくりとやって来る拓摩の姿もある。
「おっ…航輔っちが悪戯して欲しそうな目でこちらを見ている!さあ、どうする?」
「脱がす‼」
「い、色々駄目だー!」
「やはり今日も暴走したか、一年生ども‼」
更にどこから現れたのか、学校一恐いと噂の安藤先生まで登場。
またしても混沌なことになってしまった。
ただまあ…
竜馬は体調を戻しつつあり、また、まだ意識の戻らなかった高木護も目を覚ました―宗親と隼が泣いていたのは、その報せを聞いたためである―。
そんな状態でむしろ騒ぐなと言う方が難しいのかもしれない。
「とりあえず、誰か…助けて」
「ん?どうした篠原。足でも攣ってるのか?」
「足がピクピクって痛くて…動けないです」
「つまり攣ってるんだな。よし、伸ばしてやるから足を出せ」
「の、伸ばすなんて…。先生は俺のこときらいなんですか…?」
「いや、治療だからな⁉………こらそこ、泉宗親。篠原の足をつつくな!ああ、もう‼真田竜馬はどこだ―⁉」
「先生、竜馬は入院中です」
「そうだった………あのバカ…」
(何だか…)
(嫌な…)
(予感が…)
「あ、何だかだんだん足が痛くなくなって来たような―」
「帰ってきたら説教だ‼よし、今日は手始めにお前らを説教してやるからついて来い‼」
「「「「は、はいっ!」」」」
「な、何の騒ぎだろう…?」
「朋美」
「確かに竜馬君の名前が聞こえた気がしたんだけど…。気のせいかな…?」
「朋美、聞いてる?」
「何があったか聞いてみようかな…?どうしようかな…?」
「朋美、その竜馬君についてよ」
「詳しく聞かせて、美影ちゃん‼」
「あ、うん………。こほん、竜馬君が入院したっていうのは聞いてるわよね?」
「うん、だから心配なの…」
「竜馬君、体調を戻しつつあるあるって」
「本当⁉」
「うん、多分あの騒ぎはそういうことだと思う」
「良かった…」
「同じクラスの高木君も目を覚ましたらしいし、今日は良いことずくめだね」
「うん!嬉しいなぁ…本当に嬉しいな!」
「あ、朋美。うるさくしてると安藤先生に怒られちゃうよ」
「…そ、そうだね。じゃあ………サイレントで喜ぼう!」
「うん、そうだね」
「ところで相川。あの二人は黙って何をしているか分かるか?俺には分からないんだが…」
「すいません、僕にも分かりません。女子の間であんなダンスが流行ってるとかじゃないですか?」
「そうだな、とりあえず真田竜馬に説教だな!」
「………先生、考えることを放棄してません?」
「は、はっくしゅん‼」
(誰か噂話でもしてるのかな…なんて)
「………何ニヤニヤしてるのよ…?」
ベッドの上で一人にやついている竜馬に、恵美が言う。
その服装はいつもと違い、きちっとしている。
黒のワンピースにストッキング。靴も黒色で統一されており、カジュアルさとは無縁の服装だ。
「何でもないよ!……………それよりやっぱり行った方が…」
「いいの。今日はまだお通夜だし、あんたもそんな調子だしね」
「でも………」
「大丈夫。明日のお葬式には行きましょう。そこで晴馬を………見送るのよ」
会話の流れから分かるだろうが、恵美が身に付けているのは喪服である。
今日は他でもない晴馬の通夜の日だった。
「それじゃあ行ってくるわね。おとなしくしてるのよ?」
「うん、分かったよ」
今はまだ朝だが、様々な準備や挨拶があるため恵美は出かけるようだ。
「じゃあ、いってらっしゃい!」
「はい、行ってきます!」
元気な言葉を残して恵美が出かけて行った。
そして竜馬はそれを見送った後に、
「…はあぁぁぁぁ………」
大きく息を吐いた。
「やっと行った…」
そう呟く。
別に隠し事ややましい事があるわけではない。
ただ…
「……………」
一人になりたかった。それだけだった。
「……………」
ほろりと涙が零れ落ちる。
一人になると止めることが出来なかった。
(晴馬…ごめん。俺は、お前の仇をとることを正しいと思えなかった…。あいつの言ってたこと、間違ってるって思えなかったんだ………。)
溢れる思いと涙は止められず、竜馬は懺悔するかのように想いを漏らし続けていた。
「ごめん…ごめんよ…」