第五章 三つの決意Ⅰ
雨は止みこそしないが、着実に弱まりつつあった。
「やっと落ち着きましたか?」
「ええ…」
「いやー、面目ない…」
ピシッと決まった服装の、二人の男。
どちらも先ほどまで涙を流していたが、どちらも大の大人である。
「…この御恩、絶対に忘れません」
泣きすぎてか、両目を真っ赤に腫らしている男は三田公造。
年季の入ったスーツを身にまとい、右手では木で出来た杖をついている。
「できうる限りのことをさせて頂きます」
ぼそりと呟くように一言。
「我が三田財閥の名にかけて…」
「「え?」」
「じゃああなたが⁉あの三田財閥の会長さんなんですか⁉」
「そういや思い出した…。三田公造って名前、ちょっと前にテレビで出てたはず…」
そもそも三田財閥とは何か?
三田財閥とは竹前町一の大財閥である。
十数年前にトップが現会長、三田公造に代わったが、それでもなおその巨大な規模を維持し続けてきた。
財閥という言葉、日本史か何かで聞いたことがあると思う。
しかし今回は、それとは少し意味が違う。
巨大な企業を運営しているといったものではなく、ただただお金持ちという意味だ。
「こいつの家はかなりの金持ちです。何かあったら遠慮なく言ってもいいと思いますよ」
笑いながらそう言った男は渡辺勇人。
体格が良く、着ている警察の制服も明らかにきつそうだ。
そんな彼は県警の本部長という役職にある。
細かく説明すれば複雑になるのだが……まあ簡単に言えば、『県警で一番偉い人』だ。
今回はある事件の捜査の一環でここ、三予病院に来ている。
「ふぅ…公造も落ち着いたようなので、そろそろ本題に入りましょうか?」
「あ、はい」
「……………」
「……………」
『本題に入る』。
その一言で空気が変わった。
恵美は短い返事で気持ちを切り替え、竜馬は再び沈黙し、公造の表情からも余裕のようなものが消えた。
そんな張りつめた空気を、
「…と、まあその前に」
「「「え?」」」
「何ですかまた唐突に!」
「いやいや、その話に関係あることなんです!」
食いつく竜馬に押されながらも、勇人は話す。
「先ほど言った『信じざるを得ない』…あの意味に関する話です」
「……………」
そう聞いた途端、竜馬はベンチに座り直した。
そして今日一番と言っていいほどの真剣な眼差しを、勇人の方へと向けた。
「…お願いします」
恵美はただそう言い、
「あの話かい?」
公造はちらりと勇人に目配せをした。
「あぁ」
「これからするのは、我々の昔話です」
―約十五年前―
四月。そのある日。
その日はいつもと何かが違った。
当時三十五歳。着々と警察署内での地位を高めていた渡辺勇人。
その日、彼が十数年愛用してきた靴の紐が、初めて切れた。
同じく三十五歳。実は昔警察官だった三田公造。
その日彼は、生まれて初めて女子高生に声をかけられた。
その日は実に変な日だった。
「靴紐ってどこで売ってるんだっけなぁ…?」
「まあどこかには売ってるんじゃないの?そんなことより俺の話を聞いてくれよ!」
勇人の問いに対して適当に答える公造。
「適当だなぁ…。で、何だ?」
勇人は警察学校の頃からの友人である公造の、いつも通りの返答に苦笑いしながら、その言葉に耳を傾けた。
「おっ!よく聞け。…実はここに来る途中に、女子高生に話しかけられたんだ」
「……………」
「これはついに俺にもモテ期がやって来たかなぁって感じだな。もしかすると―」
「……………」
「―やっぱダンディズムか何か?そもそも……って、聞いてる?」
「…ああ、聞いてるよ。お前がダンディズムでモテ期に話しかけられたんだろ?」
「ちげーよ!だからぁ…」
「僕は公造さんの妄想か何かだと思いますよ?」
突然聞こえてきた声はまだ若い、少年のような声だった。
その声に勇人、公造共に笑みを浮かべる。
「やっぱりそう思うよな、山ちゃん」
「うるせぇ!とっとと着替えろ、山田っ!」
「はい、今すぐ!」
声の主の名前は山田義隆。
勇人、公造とチームで捜査をこなす、二十四歳の青年だ。
年齢にしては見た目も声も幼い感じがするためか、勇人も公造も自分の子供のように愛情を注いでいた。
それは彼らが警察官という立場で、家族となかなか一緒に過ごせないという原因もあったのだろうが。
その実は妻子ともにいる、立派な大人の男である―因みに勇人は結婚しているが、公造はまだ独身だ―。
「山ちゃん、公造。準備はいいか?」
「もちろん!」
「確か、窃盗犯の捜索でしたね」
ここまでの会話からも分かると思うが、彼らは警察官である。
その中で渡辺勇人、三田公造、山田義隆の三人は、俗に言う捜査班に所属していた。
そんな三人が今日追うのは、ここ数日起こっていた連続窃盗事件の犯人である。
「しかしまぁ、四件もやられるとは………。何だか悔しいですね」
義隆は見回りのための自転車を動かしながら呟いた。
「そうだな。本当にそうだ」
「大丈夫。今日捕まえりゃあいいんだよ!」
そう言いながらこちらも自転車の準備をする勇人と公造。
その所作は実に手慣れていて、無駄がない。
今更だが、彼らの見回りは自転車に乗って行われる。
というのも、彼らの管轄である津山市は人口五十万を超える都市である一方、その細部まで行こうと思うと車が通れない程狭い道さえも通らなければならない。
それらを効率よく回るために、勇人たちの属する県警捜査班は『自動車部』と『自転車部』の二つに分けられている。
読んで字のごとく、パトカーや白バイなどに乗るのが『自動車部』で、自転車に乗るのが『自転車部』だ。
パトカーなどの方が経験が重要であるのと同時に、自転車は体力が何よりものを言う。
若手の義隆や、まだまだ元気な勇人、公造が自転車部に配属されたのは、まあ必然と言ってもいいだろう。
「…十七時か…」
三人の中でまとめ役的な存在の勇人が、腕時計を見る。
そして発破をかけるように言った。
「よし、行こう!」
「おうっ!」
「はいっ!」
応える二人の声と共に、三台の自転車が町へと繰り出した。
午後五時から捜索開始。
聞き込みや見回りなどを続けるが、特に進展もないまま二時間が経過していた。
途中喧嘩の仲裁に入ったり、道に迷った人を見つけ助けたりもしたが、そのどれもが本来の目的ではない。
空はうっすらと暗くなり始め、街灯や店々の軒先にも明りが灯り始めた。
勇人、公造、義隆の三人は、繁華街から少し脇に入った道で休息をとっている。
「…………公造」
「(ずるずる)…何?」
「何でカップラーメンなんか食べてるんだ?」
「(ずるっ)…別にいいじゃん」
「いや、いいんだけど…」
「勇人さん!公造さん!情報入りました‼」
「「‼」」
「近くで目撃情報がありました。どうやら今はまだターゲットを選りすぐっている最中のようです」
「了解、山ちゃん。よし、二人とも行くぞ‼」
「よっしゃ…あ………」
「公造?」
「………ラーメン、どうしようか?」
「だから言っただろ……もうその辺に置いとけよ」
「え?置いてていいの?」
驚く公造。勇人は笑みを浮かべながら、
「さっさと終わらせて取りに戻ってくるぞ!」
「……………」
「……………」
「……………」
十分後。三人の間にはただならぬ緊張感が漂っていた。
どうやら犯人は市販のナイフを所持しているらしい。
その報せが彼らの元に届いたのは、つい数分前。
こっそりと繁華街を離れようとする犯人を見つけ、追跡を開始しようとしたその時だった。
「どうする…?」
「追いかけますか?」
「もちろんだろ!」
小声だがしっかりとした公造の返事で、その場の空気は一つに定まった。
三人は軽く頷き合うと、そのまま追跡を再開する。
「……………」
「……………」
「……………」
絶対に見つからないように、細心の注意を払って進む勇人たち。
そんな彼らの追う人物の行動からは、何らかの意図が見て取れた。
「…どんどん暗い所に行くな…。二人とも、見失わないようにしろよ」
「はい」
「分かってるよ」
情報を伝達しあう声の大きさにも気を使う。
三人はどんどん繁華街から離れていた。
人気も全く無く、街角などにあった灯りは姿を消した。
今彼らを照らしているのは、頭上の月明りのみだ。
そんな中、追い続けること数分。
大通りの明り―この時三人は知らないが、実は彼らはぐるっと回るように移動していて、この光は元いた繁華街のものである―で、次第に周囲が見え始めた時のことである。
(ん?)
最初に異変に気付いたのは勇人だった。
彼の目線の先。
周りに注意を払いながらひっそりと逃げていた犯人が突然立ち止ると、そのまま膝から崩れ落ちた。
(一体何が?………だが、今がチャンスだ!)
「公造!山ちゃん!」
彼らもまた犯人の突然の行動に驚いていたが、勇人の声に応じて犯人確保に動き出す。
『注意すべきは犯人の持つ凶器のみ。そこさえ気を付ければ、人数の差で押しきれる』と、その場の三人は考えていた。
その時、月が雲で隠れた。
急いで距離を詰める三人。
それでも注意は怠らない。
情報では持っている凶器はナイフ一本だけだったが、本当にそれだけかは正直分からない。
…が、
しかし、彼らのそんな心配は杞憂に終わった。
座り込んだ犯人がそのまま全く動かないのだ。
「………何やってるんだ、あいつ?」
「何かあるかもしれませんから、気を付けましょう」
更に近づく。
が、動かない。
距離が近づいてくるにつれて、それを縮める速さはゆっくりになる。
そのままゆっくり、ゆっくりと接近し、遂には手の届く所までやって来た。
が、それでもまだ動かない。
流石におかしいと思った義隆は、警戒を緩めぬまま声をかける。
それと同時に肩を軽く叩いた。
「…おい、何をして―」
ただ軽く叩いただけだった。
強く思い切り叩くわけでもない、肩を掴んだわけでもない。
ただただ軽く叩いただけなのに…。
「―え?」
その首がボトリという音と共に落ちた。
そして…
「―――――――っ‼」
謎の叫び声と共に…
何かが起こった。
その場にいた誰もが、何が起こったかを理解できなかった。
ただ公造は激痛に顔を歪め、
勇人は二人の元へ駆け寄った。
「おい!公造‼大丈夫か⁉」
「ああ…俺は足を斬られただけだ…。でも山田が…」
公造が指さす先。
義隆は二、三mほど吹き飛ばされていた。
「山ちゃん、しっかりしろ!だいじょ…うっ…」
“惨状”と言う他ない。
その状況は十年以上にわたって様々な殺人現場を見てきた勇人であっても、吐き気を催すほどのものであった。
赤に染まった道に横たわるのは、後輩であり息子のように可愛がってきた山田義隆の上半身と下半身。
義隆の体は腹部で切断されていた。
それはただお腹を切り裂かれたとか、そういうことではなく、掛け値なしの切断であった。
大量の血が進行形で流れ出ており、切断された切り口からこぼれる内臓がより残酷さを引き立てている。
「は………」
「山ちゃん‼」
か細い声。今にも消えてしまいそうな声を勇人は聞き取った。
「勇人さん……俺、どうなってるんですか…?」
義隆は必死で声を絞りだす。
「…どうにもなってない、大丈夫だ」
「でもね、勇人さん…」
こみ上げてくる感情を抑えて、平静を保とうとする勇人。
しかし彼に、無情の言葉が告げられる。
「僕、今何だか体がふわふわしてるんですよ。さっきまであんなにいたかったはずなのに…。その痛みも感じないんですよ…」
「⁉」
体が真っ二つ。
そんな普通ではない状態だが、痛みを感じないと言う。
特別、医学に通じていない勇人でも、その反応が異常であるということは分かった。
「…大丈夫だからな………」
必死で傷口を押さえる勇人。
しかしその努力も空しく血は流れ出る。
というか、どこを押さえればいいかも分からない。
(とりあえず救急車を呼んで…)
「勇人気を付けろ!まだそこにいるぞ‼」
「え?あっ!」
勇人は救急車を呼ぼうと取り出していた携帯電話を落としてしまった。
携帯電話は何度かバウンドして、少し遠くへ転がっていく。
「くそっ…」
(急いで救急車を……あれ?今何か動いて―)
「勇人!前だ‼」
「っ‼」
暗闇で動く何かを見ていた勇人は、公造の声で反射的に動いた。
落とした携帯電話を拾うのを諦めて、腰に付けた懐中電灯を引っこ抜くと、前方を照らした。
その瞬間―
ドンッ‼
「‼」
「‼」
爆発音にも似た音が響く。
突然明りに照らされたその何かは、その爆音をのこして跡形もなく消えた。
「どこに行った⁉」
「う、上だ!勇人!」
「上⁉」
勇人は半信半疑ながらも空を見上げた。
(空になんかいるはずがない…)
そう思っていたが…
いた。
再び雲の切れ間から顔を出し始めていた月の光。
その光に巨大な人影が映し出されていた。
その影は、ほんの僅かの間その場に留まったかと思うと、鳥が滑空するように消えて行ってしまった。
「……………」
「……………」
黙り込むというか、言葉が出ない二人。
確かにその場所にいた何かは、ほんの一瞬で消え去ってしまった。
今となっては、その何かへの手がかりは何もない…わけではなかった。
その何かを照らした勇人も。
少し後ろで見ていた公造も。
彼らは何かがとびあがる直前に見ていたのだ。
まとったボロ布からのぞく目。
両刃の大剣を持つ手。
それらは普通の人間と何ら変わりない。
しかしその何かは、普通の人間ではあり得ない『空に逃げる』という方法で逃走した。
つまり、勇人たちに与えられた手がかりは『人間っぽいが、人間ではないもの』ということになる。
それを心に刻み付ける二人だが、今はそんなことをしている場合ではない。
「勇人!救急車を早く!」
「あ…ああ!」
先に我に返った公造の声に、遅ればせながら勇人も反応する。
必死で仲間を救おうと努力する男たち。
その足元で聞こえていた苦しそうな呼吸音や、微かな心臓の鼓動は…いつの間にか聞こえなくなっていた。
連絡を受け、すぐに救急車が到着する。
場所が狭い道であるために、担架が救急隊員の手で運ばれる。
コツンと。
その一人が何かを蹴飛ばした。
すでに冷めてしまったカップラーメンだった。
公造が先ほど置いておいた、あのカップラーメンだった。
それはまるで、彼らが出発前に立てた思いを、願いを。
それら全てをあざ笑うかのように、簡単に倒れた。
そうして、何かが変な一日は終わりを迎える。