第三章 覚醒Ⅰ
ガチャン
足音が聞こえる。
暗闇の奥で人影が動いた。
「……」
「……」
二人は逃げることも、喋ることも出来ない。
恐怖によりその場に縫い付けられるようになっていた。
それではもう一人は…?
「うわああぁっ‼」
竜馬は叫んでいた。
瞳に涙を浮かべながら。
しかし、そこには恐怖はほとんどない。
彼の心を埋め尽くしていたのは疑問。
『何で?』『どうして?』という本人か、そうでなければ神様にしか分からないような疑問。
しかし、その疑問に答えを出してくれる人はいない。
自分で答えを探すしかない。
ここで話を変えるが、人は困難なことよりも、簡単で楽なことを選びたがる。
それが体裁など全く関係ない自らへの返答であれば尚更だ。
まあ当たり前だろう。
誰が実益も何もない困難な道を選ぶだろうか。
つまり…
「お前が…お前が全部悪い!俺は絶対にお前を許さねぇ‼」
「りょ、竜馬⁉」
「待てっ‼」
突然の咆哮を聞き、慌てて竜馬を止めようとする拓摩と航輔。
しかしそれを無視して竜馬は走った。
「ああああっ‼」
そのまま右拳を握ると、目の前の人影のちょうど鳩尾の部分を殴りつけた。
が、しかし返って来たのは確かな感触ではない。
返って来たのは無機質で乾いた金属音と、右手を走る激痛だった。
「ってぇ…」
しかもそれだけでは終わらない。
その人影は左手で竜馬の右肩を掴むと、そのまま乱暴に後ろへ投げ捨てた。
「な…ぐふっ…⁉」
投げられた竜馬は高く積まれたビール瓶の山に突っ込んだ。
そしてそのままビール瓶の雪崩に巻き込まれる。
「くそっ……」
(痛いし…足が抜けない!)
割れた瓶の欠片で体中が切り傷だらけになり、また下敷きになった右足はその重量で動かせない。
そんな竜馬の耳にガチャンという音が聞こえた。
そしてその金属音は次第に近づいて来る。
「くそっ!…くそっ‼」
何度も抜け出そうと足掻く。足掻き続ける。しかし…
ガチャン…
足音が止まった。
人影は右手を高く上げる。
暗闇の中、僅かに見えたシルエットは巨大な刃物。
(あっ…殺される…)
竜馬は率直にそう思った。
もうどうすることも出来ない無力さを噛みしめ、僅かな人生を回顧する時すら許されず。
ただただあっけなかったと思うのみだった竜馬。
(………あれ?)
しかしその人影の右手は振り下ろされなかった。
「何が…?」
竜馬はゆっくりと顔を上げた。
目の前にある人影は顔を後ろに向けている。
そこに浮かぶ赤い二つ目が捉えているのは…
「航輔⁉」
「うおおおっ!もういっちょくらえっ‼」
航輔は走りながら姿勢を低くした。
(さっきの蹴りでこいつの注意を引けた。これを続ければ、竜馬が逃げられる時間を稼げるはず…)
拓摩もまた同じように考えて、足元をごそごそと探している。
((このままいけば…))
しかし少年たちは失念していた。
今目の前にいるのは護を斬り、先ほど笠原という警察官をも斬った犯人であろうということを。
目の前の人影に特定の目標がないだろうことを。
もちろん友人を救いたいという気持ちもあっただろう。
目の前で命の危機に晒されている親友を、何としても守りたいと思っただろう。
だがそれに匹敵する、いやそれにも勝る『油断』。
きっと自分は狙われないという『それ』が彼らにはあった。
「竜馬!早く逃げろ‼」
そんなことも露知らず、航輔は人影に近づいていた。
それに対して人影は、まるで何かのついでと言わんばかりに軽く右手を振った。
「え?」
そう言ったのは航輔だった。
それはあまりにも軽く、適当に人影の右手が振られたように思えたからだ。
しかし…
「え?」
再びの呟き。
ガクッと、膝が折れた。
そして航輔はそのまま地面に倒れこむ。
「え?」
航輔は立ち上がれなくなってしまった。
彼の両膝にはいつの間にか、大きな切り傷ができていた。
「航輔ェ!」
相川拓摩は見た。
目の前で崩れ落ちていく友の姿を。
「う…そ、だろ…?」
その光景は特に友人を大切にする拓摩にとって耐えがたいものだった。
「ううう………」
そしてそれはいつも冷静な彼の何かを、
「…あぁぁ‼」
何かを壊した。
「うわあぁぁ‼」
叫ぶ。
絶叫する。
拓摩はそのまま足元にあるガラスの破片を掴むと、人影の顔へ向けて投げつけた。
「‼」
人影は突然の攻撃に驚き、回避しようとする。
しかし、すでにガラスの破片は目前に迫っている。
どんな生物だろうが、もう避けられるはずもない。
「当たれ!」
拓摩の声に後押しされたように、ガラス片は目の前の人影の赤く光る眼の間に―
カァン‼
「……え?」
―当たった…のは良いのだが、問題はその際の音である。
金属音。
そうとしか言えない音だった。
「お前…一体…?」
先ほどまでの威勢の良さはどこに行ったのか。
すっかり大人しくなってしまった拓摩。
ありえない…と思った。
鳩尾に続き、眉間まで。
最初こそ全身に鉄の鎧でもまとっているのかと思いもしたが、拓摩はその考えをすぐに否定した。
そんなものをまとっていては、ろくに動けないはずだからだ。
(ならどうして…?)
その答えはすぐに返って来た。
「…ここまで来たラ、もう姿ヲ隠す必要もなイな」
先ほどまで沈黙を保ってきた人影が、初めて紡いだ言葉。
そしてその言葉に反応するかのように、人影に変化が起こった。
それは黒い靄。
その人影を『影』たらしめていたもの。
それがまるで路地の暗闇に吸い込まれるように消えていった。
「……」
風景が輪郭を持つ。
靄が隠していたものが一気に解き放たれた。
その中心にいたのは―
「……」
「……」
「……」
その場にいた誰もが絶句した。
足も。
体も。
腕も。
顔も。
その中心にいたのは、全身が金属でできた化け物だったのだ。
暗く狭い小路に風の音のみが響く。
声も出せなくなっている竜馬達はもちろん、黒い靄から現れた者の呼吸音すら聞こえない。
「このスがたを見られルと、さスがにまずいか…?まあイぃ…」
どこかたどたどしい声。
だがその声は誰かの口から発せられたものではない。
いや、厳密に言えば、その言葉を発した者には口がなかった。
その顔は鉄でできた仮面のようで。
口も鼻もなく、ただ赤く光る目だけがある。
とはいえただの仮面で、その下にある口で話しているのなら、その声はこもったような声になるはずだ。
だがたどたどしいとはいえど、そのような感じは全くない。
体の大半は頭から被っているボロ布で見えないが、見える範囲―両手と膝から下―はすべて鈍色の輝きを放っている。
それでも十分に異質だが、その最たるは右手。
本来、手があるはずの場所には鋭い刃が存在した。
ここまで少しややこしく書いてきたが、まあ端的に言えば金属でできた化け物である。
化け物は少し間を置いて叫んだ。
「見た者ハ皆殺しニすればイいのだからなァ‼」
「拓摩っ!逃げろ‼」
竜馬も叫ぶ。
この三人の中で今、まともに動けるのは相川拓摩ただ一人である。
彼が最初に狙われるのは当然だろう。
しかし…
「ああ…あ……」
「拓摩⁉何してんだ、早く‼」
「あ……助け…て…」
恐怖。
しかも『死』を前にした最大級のそれは、人の心の全てを埋め尽くす。
今の拓摩は正しくその状態だ。
逃げるということを考えることすら出来ないし、まして友人の声が聞こえるわけがない。
ガチャン、ガチャンと一歩一歩、化け物が近づいて来る。
「や、めて…」
更に近づく。
所詮最初にあった数メートルの距離などは、僅かなものだ。
化け物はあっという間に、しゃがみこんだ拓摩の目の前まで来ていた。
「う、うわああっ‼」
そこまでやって来てやっと、拓摩は逃げるという行為をした。
飛び上がるように立ち上がると、必死で走って逃げようとする。
だがもう遅かった。
化け物は右手を上へと振り上げた。
その刃は逃げる拓摩の背中に迫り…
鮮血が迸った。
「拓摩‼航輔‼」
少年は。
真田竜馬は叫んだ。
精一杯叫んだ。
彼の大事な二人の親友から、何一つ返ってこなくても。
その声はきっと届いていると信じて。
それで何かが変わると信じて。
相変わらずガラスの重みで動けない。
今のままなら逃げようがない。
それでも叫んだ。
しだいに金属音が、『死』の足音が近づいて来る。
腹の底から例えようのない恐怖が込み上がってきた。
それでもまだ叫んだ。
足音が止まり、莫大な重量から解放される。
すっと伸びてきた右手、いやその位置にある何かが体へ突きつけられる。
それでも…
「拓摩ッ‼航輔ェ‼…ぐふっ⁉」
まるでその声を遮るかのように、ドスッという音が暗い路地に響いた。
(…何だこの感じ…?)
竜馬は不思議な浮遊感を感じていた。
体は動かない。
視界はぼやけて、周りはほとんど見えない。
だが竜馬は何となく理解した。
自らの置かれた境遇を。
今のこの状況を。
自分が今、死にかけていることを。
が、不思議と『死』への恐怖はなかった。
今は寧ろ、二人の友人のことが気懸りだった。
二人が生きて、生きてさえいてくれれば…
(…頼むよ…。俺はもう助からないにしても……せめてあの二人だけは救ってくれ…)
おそらく届かない願い―状況的に二人が助かることは難しいだろう―。
その願いに応える声があった。
『他人任せか?自分自身で救えばいい』
妙にはっきりと響く青年の声。
(無理だ。俺に…そんな力はない…)
『力なら…くれてやる』
(…死にかけた、この状態でか?)
『そうだ』
(…お前、何を言って…)
『あの二人を救いたくはないのか?』
(っ‼)
言葉につまる。
別に深く考えなければ答えが出ないわけではない。
答えはすぐに出た。
それでも一瞬言葉につまったのは、突然の言葉に対する動揺か。はたまた声に出すことで、抑え続けている感情が溢れだしてしまうのを、本能的に防いでいたのか。
ただもうそんなことはどうでもよかった。
(…救いたい……)
『………』
(救いたいよ!この手で救えるものなら‼)
『……ならば立ち上がれ。それだけでいい』
(俺が戦う…のか?)
『ああ、大丈夫だ。俺が勝たせてやる。だから最後まで―』
(最後まで―)
そして思いが。
声が重なった。
「あがけ!あがき続けろっ‼」
「ン?」
不意に金属音が止まった。
全身金属の化け物はただただ淡々と、すべてをこなしていた。
目の前に現れた三人の少年を次々と斬った。
三人目に斬った少年は最後まで無駄な抵抗を続けたが、既に死亡を確認した。
残る二人も確実に止めを……という所であった。
「…なッ…」
そこで化け物は音を聞き、立ち止った。
一応振り向き、確認を―
「何ダと…?」
不思議…というか不可解なことが起こった。
死亡を確認したはずの三人目の少年が立ち上がっているのだ。
「…まァいい……」
化け物は理解している。
一度死んだ者は生き返らない。
つまりその少年が立ち上がったのは、自らが死亡確認を怠ったからだ、と。
「もう一度殺セばいいだケの話だ!」
痛みからかうめき声をあげている二人の少年に再び背を向け、立ち上がった少年に向きあう。
「大人シく寝ていれば良かったモのの…」
「………」
「もウ一度、確実に殺しテやる‼」
「…最後まで―」
「ン?」
「あがけ!あがき続けろっ‼」
竜馬は思いっきり叫んでいた。
目は虚ろで、足元はおぼつかない。
ただその声ははっきりと響いた。
そのまま竜馬は足元の鉄パイプを拾うと、それを剣のように構える。
「まさかトは思うが……それで戦ウつもりカ?」
「…………」
竜馬は答えない。
返答の代わりに彼は、鉄パイプを前面にする構えから一転。
腰を低く下げ、まるで自らの左腰に鞘があるかの構えをとった。
「……」
化け物は無言で右手を差し上げる。
「……」
「……」
そのまま固まる両者。
少し前に時間が戻ったかのように、聞こえるのは風の音のみになった。
そのせいか、互いに音に敏感になる。
「…ン?」
異変に気付いたのは化け物の方だった。
それは小さな声。
耳を澄ましたところで聞こえるかどうかというぐらいの、本当に小さな声。
下手すれば風の音にも負けてしまいそうなそれは、化け物の意識に完璧に入り込んだ。
『さあ行くぞ。覚悟はいいか?』
「ああ…」
「ん?一体誰と話シて―」
―そして、一瞬―
路地を抜ける風の音が、一際強くなる。
その一瞬で竜馬と化け物の位置関係が入れ替わっていた。
が、これは別に二人の位置がそのまま入れ替わったわけではない。
そのたった一秒、いやそれ未満で、竜馬が化け物の背後に移動した…というわけである。
「…ハ?」
遅ればせながら、目の前から消えた少年の姿を追おうと、化け物は背後を向く。
そこにいたのはやはり傷だらけな少年。
右手は左腰の鞘から剣を引き抜いたかのように振られている。
そしてその手の先には―
「ンなっ⁉」
右手には黄金色の細身の両刃剣が握られていた。
「バカな…お前…一体何モ―」
そこまでだった。
少しの間、ガタガタと体を震わしていた化け物が、突然倒れた。
その体の奥から誰かの声が聞こえる。
『ピー…体部中枢の深刻な破損を確認。主記憶装置のデータ保護のため、全体の灰化を決行…ピー』
ザアッという音と共に化け物の体が消えた。
いや、その体は一瞬で灰のようになると、風に運ばれて消えてしまったのだった。
「ハア…ハァ…終わった……のか?」
竜馬のその問いに応える者はいない。
「俺は勝ったんだ…な?二人を守れたんだ……な?」
彼はそのまま、最後の力を使い果たしたかのように地面に倒れこんだ。
にゃーお
と、そこに一つの影がやって来た。
いや、影ではない。
黒猫がたった一匹、鳴きながら歩いて来た。
さらにそれとほぼ同時に、連絡を受けていた警察官がやって来る。
そうしてこの事件が終わった。
二人の少年が共に命に別状のない怪我を負い。
一人の年配の警察官は出血多量で命の危機に陥ったが、必死の処置の結果一命を取り留めた。
ただ、それだけだった。




