最終幕 2 本間雫
物事には終わりがある。どれだけ長かろうが、終わりが見えなかろうが、必ずエンディングは存在する。
記録続きの猛暑で苦しんだ夏も、もうすぐ終わる。
いつ終わるかと不安だった一連の騒動にも、取りあえずの終止符が打たれた。
半月前、『喫茶宿木』でのことだ。
もっとも、事件や騒動が終わったところで、警察の仕事は終わりではない。……正直言うと、あの後こそが大変だったのだが――それはまあ、いいだろう。終わってしまえば、全ては過去のことだ。過去には囚われないと、私はあの日、そう決めたのだから。
すでにお馴染みとなった呉藍商店街、路地の奥にある『喫茶宿木』――ドアベルを鳴らして店内に入ると、すでに狭い店内のほとんどの席は埋まってしまっていた。
「いらっしゃい」
いつもと同じように、宿木が迎え入れる。
いつもと同じように、笑顔が胡散臭い。
「けっこうな人の数ですね……」
「そりゃ、今日はお祭りですから」何かいいことでもあったのか、いつにも増してにこやかだ。
「大食い大会、けっこう前評判高いんですよ。いやぁ、一ヶ月前から準備してた甲斐があったってもんです」
若干、テンションも高いように思える。そんな宿木に薄気味悪さを感じながら、私はカウンターの端へと腰掛ける。
「あれ、雫じゃん。刑事もお祭りに参加するのか」
今頃気付いたのか、テーブル席の大鷹が声かけてくる。
「だから、下の名前で――いや、それはもういいです」
毎回律儀に訂正するのが面倒臭くなってきた。呼称、名前なんてモノは、結局ただの記号だ。それで自分の本質が変わる訳ではない。飛鳥姓から本間姓に変わったことで自分の何かが変化しただなんて、死んでも思いたくなかった。
「今日は、妹――明日香さん、いないんですね」
だから、初めて妹のことを名前で呼んでみる。それで何かが変わる訳ではないのだけれど。
「ああ、アイツ――まあ、そのうち出てきますよ。それはその時のお楽しみってことで」
フフ、と宿木にしては珍しく、不気味な含み笑いを見せる。どうしたことだろう。今日の彼は、本格的におかしい。祭りの熱気にやられたのだろうか。
「おーい、ナチュラルにオレを無視すんなや」
「ああ、すみません。忘れてました。何でしたっけ」
「どいつもこいつも、扱い悪すぎねェか……?」
ブツブツと文句を垂れながらも、大鷹は続ける。
「だから、刑事の雫が、こんな所に何の用だって、聞いてるんだよ。もしかして、礼子ちゃんの刑が決まったとか?」
「そんなにすぐ判決なんて出ませんよ……。まあ、恐らくは執行猶予がつくとは思いますけどね」
でなければ、私はなんのために頑張ったのか分からない。
「そうじゃなくて――今日は、単純にお祭りを楽しみに来ただけですよ。格好を見れば分かるでしょう」
今日はいつものスーツではなく、ややカジュアルな服装をしている。相変わらずパンツルックなのは、我ながら華がないとは思うが。
「ふぅん。刑事もお祭りとか来るんだなァ……」
「……貴方は、警察官を何だと思ってるんですか……?」
大方、事件捜査マシンか何かだと思っているのだろう。
「オレはてっきり、事件捜査マシンか何かかと思ってたわ」
どうしよう。物凄く下らない部分で勘が的中してしまった。
「駄目だよ、会長。本間さんはゲストなんだから、もっと丁重に接しないと」
「ん? げすと?」
「そうさ。何せ、今回の対戦相手なんだからさ。これ以上のゲストはいないでしょ」
「はあん。対戦相手ねェ――って、ゲエエエーッ!」
さらりと重要なことを言う宿木に、大鷹は仰け反って驚いている。……毎回思うのだが、もっとマシな驚き方はないのだろうか。
「え!? 対戦相手って、え!? まさか、大食いの!?」
「他に何があるのさ。十年越しのリベンジマッチだよ。燃えるよね」
「いやいやいや、予選は!? 予選勝ち抜いた相手と戦うって話じゃなかったか!?」
「彼女の実力なら、予選を行うまでもないでしょ。シードだよ、シード。特別招待選手って言った方がいいかな」
特別招待――確かにそうかもしれない。
半月前の集まりからしばらくして、宿木から、商店街の納涼祭でやる大食い大会で、リベンジマッチをやってみないかと持ちかけられたのだ。最初は面食らい戸惑ったが、結局、出ることにした。
過去に囚われないと、決めたのだ。
昔のアレコレにはけじめをつけておきたい。ブタのアカネ――高崎礼子に関しては、もう吹っ切れた。
後は、大鷹、宿木との因縁だけだ。
「いや、雫と対決するのは、そりゃ構わねェけど――何でそのこと、オレに言わねェの!? オレ、今回の主役じゃなかったのかよ!?」
「サプライズだよ」
「そういうのいいから! 前から言ってっけど、情報小出しにすンなや! オメェのそういうトコだけは、マジで許せねェわ!」
吐き捨て、椅子を蹴って立ち上がる。
「どこ行くの?」
「トイレだよ。水飲みすぎた」
言うが早いか、ドタドタと足音を立てて店の奥に向かう。
「……怒らせちゃったんじゃないですか?」
「いつものことですよ。少し経てば、ケロリと機嫌治ってますから」
「仲いいですよね、貴方たち」
「言っときますけど、僕たち二人とも異性愛者ですからね? その気はないので、勘違いしないように」
「誰もそんな勘違いしませんから」
むしろ、そんな勘違いすると思われたのがショックだ。
「そうじゃなくて――宿木さん、何だかんだであの人のこと、大事に思ってるんだな、と思って……」
「……今、そんなことを思わせる要素ありました?」
苦笑しながら宿木が言う。
「聞きましたよ。貴方が今回の大食い企画を画策したって。最近、アルバイトとかで疲れている大鷹さんを見て、彼が一番輝けるであろう状況を、貴方が作り上げたんでしょ?」
「いえいえ、今回の企画立案者は、白井さんですから」
「しかし、そうなるように誘導したのは、貴方。十年前の番組映像が、動画サイトにアップされてたそうじゃないですか。それ、貴方の仕業なんじゃないですか? それを商店街の誰かが見るようにして、思いつきで物事を決断しがちな白井さんが、大食い企画を立ち上げるように仕組んだ――『参謀』宿木翔なら、それくらいは朝飯前ですよねえ?」
「推測ですね。証拠がない」
ニヤニヤと笑いながら、そう言う。笑っている段階で、もう肯定しているようなモノだが、これ以上の追及はやめておいた。
「ちなみにそれ、誰から聞いたんです?」
「明日香さんです」
「……全く、僕の周りは無駄に鋭い連中が多くて、困りますよ」
「貴方にだけは言われたくないと思いますよ……」
言っている途中で、口元が綻んでくる。どうやら、例の一件以来、この連中に対するわだかまりも、ある程度解けたらしかった。
「何だよオメェら。楽しそうだな」
濡れた手を振り、水滴を飛ばしながら大鷹が帰ってくる。
「おかえり。長いトイレだったね」
「個室に引き籠もってる奴がいてよ。励ましてたら、長くなった」
意味不明なことを言う大鷹。しかし、宿木には伝わったらしい。
「ああ……全く、仕方ないな」
再び苦笑を漏らし、今度は宿木が退席する。何だか忙しない。
「しっかし、まさか雫が大食い復帰するとは思わなかったなァ」
椅子に座りながら、溜息混じりにそう言う。
「メニュー変更って時点で気付くべきだったんだろうけど。あれだけ準備してたポークステーキをやめて、いきなりカレーだもんな。不自然っちゃ不自然な話だわなあ」
「私はポークステーキでもいいって言ったんですけどね」
「は? だって、お前ブタ肉食えねェじゃん」
「最近は、少しですけど食べられるようになったんですよ」
私のブタ肉嫌いは、アカネを救えなかったという傷に起因していた。しかし、宿木の言葉で今まで抱えていた屈託も傷も十字架も、最初から存在しなかったのだと知り――それで、決心がついた。
私は、十五年ぶりにブタ肉を口にしたのだ。
チャーシュー、トンカツ、生姜焼き――久々に口にするそれらの料理はどれも普通に美味しく、なぜ今まで食べられなかったのか、十五年間もの間、何を必死になってそんなに厭っていたのかと、不思議になったくらいだ。
「まあ、それでいきなり大食い勝負ってのは、ちょっと無謀かもしれませんけどね……」
「だろ? オレにはアイツの考えてることなんざ分かンねェけど、きっとその辺り気遣ったんじゃねェかな。それに――多分、今回の対決は、お互いにフェアにやりたい、とも思ってる筈だし」
「フェア?」あの男が、そんなことを思うのだろうか。
「そりゃ、勝負となったら色々と手段を選ばねェヤツだけどサ――それは、あくまで相手を敵と見なした時のことだ。アイツ、敵に対しては容赦ねェけど、一旦身内だと思った人間に対しては、とことん甘いからさ」
つまり、私はすでに身内だと見なされているということだ。
姑息で卑怯で、胡散臭くて腹黒くて――その一方で、常に守るべき人間のことを一番に考えていて。私は長い間、宿木翔という男のことを誤解していたのかもしれない。
「だいぶ人が集まってきたなァ……」
時刻は午後五時、少し前。六時の開場まで約一時間だが、すでにかなりの数の観客が集まっている。席に座りきれず、立ち見に追いやられた人間もちらほらと見受けられる。今更ながら、何故もっと大きな会場にしなかったのかと思ってしまう。
「雫は、応援とか来てねェの?」
観客の中に見知った顔を見つけたのだろう。何人かに笑顔で手を振った後に、大鷹が聞いてくる。
「まさか。署で私の過去を知ってる人間なんて、誰もいませんよ」
「隠してンのか」
「これでも、クールな女刑事で通ってるんです。高校の時に大食いやってたなんて知られたら、あとでどんな風に言われるか……」
実際、高校の時はそれでクラスの連中に随分とからかわれた。もう、あんな目には二度と遭いたくない。
――遭いたく、なかったのに。
「せんぱーいっ!」
数瞬後に聞こえてきた耳慣れた声に、私は全身の血の気が引いていくのを感じていた。
やたらと通る声で、人垣を掻き分けて走ってくる筋肉質な青年。
「ああ、よかった。ホントにいた。いやぁ、吃驚しましたよ。先輩が昔フードファイターだったなんて!」
「た、滝山君……!?」
瞬間的に、私はパニックに陥る。
「な、んな、何で滝山君が――え? 何で? 誰に聞いたの?」
「そんなの、宿木に聞いたに決まってるじゃないですか。お祭りで大鷹と大食い対決するから、応援においでって言われたんですよ」
「……全部、聞いたの?」
「聞きましたよー。女子高生フードファイターの武勇伝。凄いじゃないですか。何で黙ってたんですか」
「いや、だって、それは……」自分でもおかしいくらいに、みっともなく狼狽してしまう。「あ、このこと、他の人たちは――刑事課のみんなは知ってるの?」
「当たり前ですよ。宿木が知らせたみたいです。ウチの署で、先輩のことを知らない人間はいませんよ。もう少ししたら、手の空いてる連中で応援に来るそうですから」
引いていった血の気が、今度は猛スピードで頭に上ってくる。
少しでも。
一瞬でも。
あの男に気を許したのが、馬鹿だったのだ。
「やどりぎぃ……」
歯軋りをしながら立ち上がったのと、背後から声をかけられたのが同時だった。
「あ、あのっ」
極度に緊張した、だけどどこかで聞き覚えのある声に、私は動きを止める。
「ご、ご注文は、いかが致しますかっ……」
オーダー取りに来た人物を見て、私は口を開けたまま、思わず隣の滝山と顔を見合わせてしまったのだった。