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エピソード 2

「いると思った」

 振り向いた彼女は、ひどく穏やかな顔をしていた。

 マリア・ヨーク。

 ……いや、本名はメアリー・アイロックだったか。通称ポリー。レイコの元親友で、元親友の安否を確認するためだけにこの町にやってきた、奇特な人間。

「この町を発つ前に、挨拶しておこうと思いまして」

 至ってフラットな口調で、彼女はそう告げる。

 昨日、マスターが何もかも明らかにしたあの後で、私は彼女に、レイコの眠る場所を教えておいたのだった。

「やっぱり、お店、辞めちゃうんだ?」

「最初からそのつもりだったので――マスターも了承してくださいました」

「そう」極めて簡潔に、私は答える。引き止める義理はない。

「礼子さんこそ、どうしたんです? 月命日のお参りは済んだんでしょう?」

「私も同じ――自首する前に、挨拶しておこうと思って」

「そうですか」

 私と同様に、ポリーも短くそう答える。引き止めるつもりはないようだ。今は、その距離感がありがたい。

「随分長いこといるけど、久々の再会で、積もる話でもあった?」

「まさか」フッと、軽く息を漏らす。「死者は何も語りませんよ。死んだ終わり。それっきりです。霊魂とか成仏とか、ワタシは信じてないので」

「だったら、どうして――」

「心の整理というか――けじめですね。レイコの眠る場所を尋ねて、それで区切りにしたかったんです。そもそも、死者を弔うのも悼むのも、それは死者のためではなく、残された人、つまり自分のために行うことですから。生き物は死んだらそれまでだけど――人間は、違う。必ず残された人がいる。お葬式もお墓も、残された人のためにあるものなんです」

 理知的な瞳で、恐ろしく合理的なことを言っている。なるほど。レイコが頼りにするはずだ。

「人間は死んだら終わり、か――」海の彼方に視線をやりながら、私は思いついたことを口にする。「だったら、肉を提供できるだけ、ブタの方が上等なのかもしれないね」

「……返しに困る自虐的ジョークはやめて頂けますか」

 至極真っ当なことを言われてしまった。普段、こんな軽口を叩くことなんて滅多にないのに。意識していなかったが、様々なモノから解放されて、心が軽くなっているのかもしれない。

「ここは、いい所ですね」

 立ち上がったポリーが、半ば強引に話題を変える。気まずかったのかもしれない。

「海がよく見えるし、人通りが少なくてとっても静か」

 海原に視線を転じる。目の蒼さが、さらに深みを増した気がする。

「レイコは、この場所が好きだったんでしょう?」

「……よく、一人でここに来ていたみたい」

 その時の私は、あの家から出ることを禁じられていたので、生前のレイコと共に来たことはないのだけれど。

「だからこそ、ここを埋葬場所を選んだんだろうね」

「でも、グランマも大胆ですよね」

 口角を僅かに上げたお馴染みの表情で、ポリーは言う。

「いくらレイコのお気に入りの場所で、人通りが少ないからって――死体を、埋めるだなんて。まだ家の敷地内に埋めるってのなら分かりますけど、ここ、公道の脇じゃないですか。いつ発見されてもおかしくない」

「発見されない計算が、あったんじゃないのかな」

 あくまで想像だけど、と私は続ける。

「この辺りは古い工場ばっかりで、開発から取り残された地域だし――実際、私がいた十五年前から、この辺は何も変わっていない。少なくとも数十年はこのまま変わらないって算段が、グランマにはあったんだと思う」

「家の庭に埋めるって選択肢はなかったんですか」

「逆に、そっちの方が危険だと思ったのかも。グランマ、将来的には私を自立させるつもりでいて、自分の死後、あの白い家は土地ごと売却するって決めてたから――人手に渡ったら、掘り返される危険性もある訳でしょう?」

「そんなものですかね……」

「単純に、レイコちゃんのお気に入りの場所だったから、って理由かもしれないけどね」

 今では、どちらでもいいことだった。

 私の育った白い家は、もうない。

 売却されたされた後に取り壊され、更地になっている。今でも買い手はついていないようだ。

 そのすぐ近くの公道脇に、レイコは埋められている。

 墓標のようなモノは、何もない。

 彼女がここに眠っているのを知っているのは、今では、私とポリーの二人だけだ。 

 だけど、私たちが覚えている以上、レイコは生き続ける。

 それでいい、と思った。


「さて――と」

 体を反らし、大きく伸びをするポリー。形のいい臍が覗き、豊かな胸が強調される。この場に大鷹がいたら、さぞ喜んだことだろう――なんて、下らないことを考えてしまう。

「ポリーちゃん、もう国に帰っちゃうの?」

「最初はそのつもりだったんですけどね……」

 そこで初めて、彼女は私の顔を正面から見据える。

「もうちょっと、この国で頑張ってみようかな――なんて」

 ニィっと笑い、彼女はそんなことを言う。

「頑張るって、何を?」

「反ブタ食活動ですよ」

 何てことなしに言うポリーに、私は虚を突かれる。

「この国での、ブタの在り方――これはこれで成立しているって、マスターは仰ってましたけど……やっぱり、ワタシは間違ってるって思うんです」

 ポリーの目は真っ直ぐに私を捉えている。

「ブタはブタ、そう言ってしまえばそれまでだけど――だけど、礼子さんは、運良く人間になることができた訳じゃないですか。本来なら、全てのブタに、その権利がある筈なんです。同じヒトなのに、肉になるために生まれ、肉になるために死んでいく存在がいる――ワタシは、どうしてもそれが受け入れられないんです」

 私は目をそらすことができない。

「だからと言って、守護者(ガーディアン)みたいなやり方も、ワタシは許せません。実は、ワタシ――礼子さんを調べるのと並行して、国内の反ブタ食活動団体、色々と調べていたんですよ。それで、ちょっと良さそうな所を見つけたんで――しばらくは、そこに身を置いて活動してみようかな、と。幸い、ビザも残っていることですしね」

 私を監視する裏で、そんなことを進めていたとは。

 その行動力には、素直に感動する。

「まぁ、乞うご期待ってことで」

 再び海に視線を転じながら、ポリーはそう締める。

 その姿を見て、私は不意に思い出す。

「そうだ――会ったら、渡そうと思ってたんだ」

 言いながら、私はポケットからそれを取り出す。

「これ――」

 細かい装飾の施された、ロザリオペンダント。

 元々はグランマの娘、高崎ローラの持ち主で、さらにその娘である高崎レイコが母の形見として大切にしていたものだ。

 レイコが死んだ時。

 私はグランマから、レイコの名前、戸籍と共に、このペンダントを譲り受けた。ずっと肌身離さず身に付けていて、それは取りも直さず、私が高崎レイコの代わりとして人間になった証でもあったのだけれど――

「ワタシが、貰っちゃってもいいんですか!?」

「ポリーちゃんに、受け取ってもらいたいの。私が手放すのなら、次に持つのは一番の親友である貴女だと思うし」

「でも、礼子さんは――」

「私はいいの」

 ――もう、いいの。

「もう、って?」

「ポリーちゃん、私はね――死んだレイコちゃんのために、その身代わりとして、人間になったの。グランマは、私をレイコちゃんのコピーにしたかったのよ。私は、レイコちゃんの戸籍を譲り受けて、高崎礼子の名前を名乗って、今まで生きてきた。だけど――」

 ――私は、私だから。

「人間としてちゃんと生きていくって決めたから――もう、これは必要ないの。もちろん、レイコちゃんは、私の中で今でも生き続けている。だけど、それとこれとはやっぱり別だなのよ。レイコちゃんのことを大事に思いたいからこそ――私は、レイコちゃんのコピーじゃない、私という人間として生きていきたいと思う。コレは、その決意表明なんだよね」

 ――受け取って、もらえる?

 私の差し出したロザリオを、ポリーは静かに受け取る。

「……ワタシ、この国に来てよかったです」

 大きな蒼い瞳を伏せて、ポリーはそんなことを漏らす。

「私も、ポリーちゃんに会えて、よかった」

 ニッコリと笑って、私はそう返す。

「ううん。ポリーちゃんだけじゃない。喫茶宿木で働いて――マスターや明日香ちゃん、大鷹さん、松岡さん――」

 ――それに、新山さん。

「みんなに会えて、本当によかったって思ってる。色々と間違えちゃったけど……でも、出会えたことには、後悔していない。どういう巡り合わせか、飛鳥ちゃん――本間さんにも、再会できたしね」

 私は、そう言ってまとめる。

 ポリーとは、これでお別れだ。

 レイコの眠るこの場所で、私たちは別々の方向を向く。

「あ、そうだ――」

 別れ際、ポリーは思い出したように言葉を付け足す。

「余計なお世話かもしれませんけど……染髪剤、もっといいの使った方がいいですよ。水をかぶっただけで色が落ちちゃうようなの、使ってちゃ駄目ですって」

 本当に、余計なお世話だった。

 あれは、慌てて染め直したから水落ちしてしまっただけだ。いつもはもっと入念に染めている。現に、オハラの死体が発見された時――大雨が降ったときは、平気だったではないか。

 今となっては、どうでもいいことなのだけど。

 私は笑顔で手を振り、歩き始める。

 もう、後ろは振り向かなかった。


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