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第七章 6 松岡健太

しばらくは誰も何も口にしなかった。できなかった、というのが正しいだろうか。目の前の出来事が理解できず、硬直してしまったのだ。

「え、あの、これって、どういう……」

 ようやく明日香が口を開くが、その文言は意味をなさない言葉の羅列にすぎなかった。相当に混乱しているのだろう。

「見ての通りさ。礼子ちゃんは、『くれなひ』なんだ」

 バックルームの方からマスターの声がする。

 新山は、口を開けて唖然としている。

『くれなひ』――ブタの別名。

 赤い髪と赤い瞳を持つ、かつての山の民。古代から一部の山間地域で食され、近代になってからは絶滅したブタの代替品として広く食用に飼育されている――ヒトの仲間。

「もっとも、他の『くれなひ』と違うのは、彼女はブタではなく、人間であるということだ。近代に入ってから『くれなひ』で人間なのは、彼女くらいなんじゃないかな」

 バックルームから出てきたマスターは、手にバスタオルを持っていた。

「え、本当に――本当の本当に、礼子さんが、そうなの?」

「信じられない気持ちも分かるけどね。本当にそうなんだから、仕方がない」

 マスターは礼子にタオルを渡し、彼女はそれで濡れた髪を拭く。まだらに残っていた染髪剤も一緒に拭き取られ、真っ赤な髪がより鮮明になる。

 礼子は、僅かに下を向いて一斉に注がれる視線に耐えている。

 正体を明かした後は、一言も発していない。結局、マスターに全てを任せることにしたのだろう。

「でも、その、『くれなひ』って――ブタのことなんでしょ?」

「普通はね。肉になるために生まれ、肉になるために飼育され、肉になるために死んでいく――それが、一般的な『くれなひ』の在り方だ。だけど、ブタと『くれなひ』は、ニアリーイコールではあるけれど、決してイコールという訳ではない。礼子ちゃんは、ちょっとばかり特殊な巡り合わせにあってね――自由の身を手に入れ、知恵をつけて、『人間』になった。『人間』になった彼女は、髪を染め、黒のカラコンをつけて、『くれなひ』の特徴を隠した。その上で、必死に勉強し、必死に働いて――今では、フリーターながらも立派に自立した生活を送っている。……だけど、今回の事件が、全てをメチャクチャにしてしまったんだ」

「待て待て。何だよ、その特殊な巡り合わせってのは」次に口を開いたのは大鷹だ。「何がどうなったら、センターで飼われてるようなブタが、礼子ちゃんみたいなちゃんとした人間になれンだよ? 言いたかないけど、オレや明日香なんかより、よっぽどしっかりしてるぞ?」

「会長の疑問はもっともだけど――それは、後で話そう。今はまず、事件の話だ」

 言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるのだけど、今は何を聞いたところで、マスターは答えてくれないだろう。段取りや順番が大切なのだと、以前言われたことがある。ここはマスターのペースに任せるしかない。

「礼子ちゃんが何故オハラを人間として育てようなんて思ったのか――皆、不思議に思っただろうね。その答えが、これだ。礼子ちゃんも、かつてはオハラと同じ立場にあったんだよ。だけど、礼子ちゃんはある人物に拾われ、熱心な教育を受け、また本人も相当に努力して、どうにか『人間』になることができた。礼子ちゃんは、同じことがしたかったんだね。自分の手で、食べられるのを待つだけのブタを人間にしたいと願ったんだ。もちろん、願っただけではどうにもならない。動物を躾けるのは並大抵のことではない。餌代も、冷房のエアコン代もかかる。だからウチの仕事を減らして、コンビニ夜勤のバイトを始めたんだろうけどね。……まあ、そこまで頑張っても、計画はうまくいかなかった訳なんだけど……」

「……俺のせいか」

 新山が、ポツリと呟く。礼子が正体を明かしてから、初めての発言だ。カウンターの椅子に力なく座る様は、何だか試合に負けたボクサーを想像させる。

「俺が、あのブタをブタとして処理したのが、許せなかったのか。だから俺を――」

「はい新山さんストップ。それは違うから」

 項垂れる新山を手で制し、マスターは続ける。

「みんなもう分かってるかもしれないけど、新山さんを襲ったのは、礼子ちゃんだ。彼女が、新山さんを殴った。ちなみにこの時、新山さんは自分を殴った人間の顔をチラッと見ている。帽子とサングラスをしていたけど、すぐに礼子ちゃんだと気付いたそうだよ。ただ、いくら考えても、何故自分が殴られたのか、その理由が分からない。新山さんが真に知りたいのは、この点だ」

「オハラの復讐か?」

「人の話を聞かない会長だな。復讐って、何に対する復讐だよ? オハラが死んだのは事故なんだよ?」

「じゃあ、ブタ全体の復讐だ。肉屋の新山さんを、ブタを代表して粛正したんだろ」

「粛正って――あのねぇ、新山さん一人を殴り倒して、何が変わるって言うのさ」

「最初の一人だったんだろ。これから同じ具合に、ブタ肉に関係する人間を消していくつもりだったんだよ。もしくは、見せしめだったのかもしれん」

「いずれにせよ、非効率で無意味だよ。やるんなら、それこそ守護者(ガーディアン)の人たちみたいに、農場や食肉センターを襲うべきだ。そもそも、それなら最初から新山さんと付き合ったりしないでしょ?」

「そのつもりで近付いたんだろ」

「違うってば」

「違います!」

 マスターの返答と、礼子の叫びがシンクロする。

「私、確かに去年のお祭りで、新山さんのブタの解体ショー見て、ひどい、信じられないって思いました。こんなことするのはどんな人なんだろうって、変に興味持って近付いたのは確かですけど……」

「結果、どうだった?」大鷹が身を乗り出す。

「……優しくて、思いやりのある人で、吃驚しました。解体ショーの時は、なんて悪趣味でグロテスクなんだろうって思ったけど、新山さん自身は、ただ、真面目で仕事熱心なだけだって分かって……」

「気が付いたら、好きになってた、ってか?」

 大鷹がニヤニヤしながら恥ずかしいことを聞く。

「……会長、礼子ちゃんにそれを言わせたかっただけでしょ?」

「バレたか?」

「バレバレだよ。会長が、礼子ちゃんにあんな底意地の悪いこと、言う訳がないもの」

 どうやら、大鷹は礼子の気持ちを確かめるために、わざと妙な説を持ち出したらしい。キャラに合わないことはやめてほしい。

 二人の遣り取りを見て、僅かに苦笑していた礼子だったが――次第にその笑みも静かに引いていく。

「……でも、やっぱり無理があったんですよね。私みたいな、ブタだか人間だか分からないような存在が、人並みに恋愛しようなんて」

 下を向き、そんなことを言い出す始末だ。

「どういうことだよ!? 俺が何かしたか!?」

「……私が、何も気付いてないと思ってたんですか……」

「だから、何だよそれ! 何かあるならはっきり言ってくれ!」

 勢い込んで新山が尋ねるが、礼子は俯いたまま首を振るばかり。

「おい、翔ッ! いい加減に教えてくれよ! 礼子はどうして俺を殴ったんだ!?」

「身の危険を感じたんですよ」

 マスターの言葉に、一瞬場がシンと静まりかえる。

「身の危険って――それは、その、例えば、貞操を奪われそうになったとか……?」

 礼子は、新山と付き合うまで男性経験がなく、二十五にもなって処女だという話だった。

「健太まで馬鹿なこと言わないでよ。礼子ちゃんと新山さんは恋人同士なんだよ? 彼氏が彼女の体を求めて、それが暴力事件に発展する訳ないでしょう。せいぜい、激しく拒むくらいだよ」

 それもそうか。

「全ては、誤解と勘違いなんだよ。端から聞いてると馬鹿馬鹿しく思えるかもしれないけど、礼子ちゃんは、本気で、恐怖を感じていたんだ。あんな凶行に走ったのは、本当に自分の身を守るためだったんだね」

「何がそんなに礼子さんを怖がらせたってのさ。マスター、前振りはいいから、そろそろ本題に入ってよ」

 急かすおれを一瞥し、マスターは溜息を吐く。

「じゃあ、本題に入るけど――その前に一つだけ。さっきの健太の話じゃないけど、これから僕は、少しだけ下品で下世話な話をすることになる。女性も多くいる場でこんな話はしたくないんだけど、説明のためにはどうしても必要なことだから、我慢して聞いて」

 明日香、マリア、本間刑事の順に視線をスライドさせながら、マスターは保険をかける。

「うん、まあ、何でもいいんだけどさ……結局、身の危険って何なのよ? まさか、新山さんが礼子さんを殺そうとした、なんて言うつもりじゃないわよね」

「なッ!? そんな訳ないだろ!?」

 新山が抗議するが、その抗議は聞き入れられない。

「明日香、だいぶ近いよ。礼子ちゃんはね、新山さんに食べられると思ったんだよ」

「はァ!?」

 明日香、おれ、そして新山が、全く同じリアクションをとる。

「ふざけんなよッ! 俺が、何でそんなこと――」

「だから、誤解なんですよ。礼子ちゃんは、あるきっかけで、新山さんが自分を狙ってる、食べようとしている、と思い込むに至った。では、そのきっかけとは何なのか――」

 マスターの視線が、ゆっくりと、集団の隅にいる中年男性へと移されていく。

「白井さん、僕ら三人が『ほわいときっちん』で飲んだ時のこと、覚えてますよね」

「うん!? ……ああ、十日くらい前だな。もちろん覚えてるヨ」

 そこで自分に振られると思っていなかったのだろう。居酒屋店主の白井は目に見えて驚いている。

「そこで、マスターの恋愛相談に乗りましたよね? その時、白井さん、『押し倒せ』ってアドバイスしたの、覚えてます?」

「バッ、オメェ――」女性陣の冷たい視線を受け、白井はさらに狼狽する。「そこだけ抜き出して言うんじゃねえヨ! 変に誤解されちまうじゃねェかッ!」

 誤解も何も、その通りだったと記憶しているが。しかし、マスターは素直に謝罪する。

「すみません。今は、わざと前後を省略しました。そうなんです。前後を無視して一部分だけ抜き出すと、妙な誤解を与えてしまうものなんです。実際は、新山さんのように不器用で口下手な人は、下手に言葉を重ねるより、いっそ体を重ね、愛し合った方が絆が深まる事もある――という文脈だったんですけどね」

 白井も新山も、礼子も、他の女性陣達も、黙ってマスターの話を聞いている。話がどこへ行こうとしているのか、まるで分からない。

「さて、僕は今、『躰を重ねる』、『愛し合う』という表現を用いた訳だけど――日本語というのは実に多彩でね、性行為に関しては、実に様々な言い方がある。『抱く』『寝る』『結ばれる』『関係を持つ』『枕を交わす』『まぐわう』『営む』『朝を迎える』――なんてね。さらに卑俗な表現になると、『やる』『する』なんて言ったりもする。……白井さん、覚えていますか? 最後に『喰っちゃえ』って言ったこと」


「いいじゃねェか。ヤっちゃえよ。押し倒しちゃえ。新山チャンが最初の男になってやればいいじゃねェか。喰っちゃえ喰っちゃえ」


「あ……!?」

「いやいやいや、ちょっと! 確かに白井さん、そんなこと言ってたけどさあ! それは、ほら、分かるじゃん! 話の流れで!」

「健太――だからさ、その流れも文脈も無視して、その『喰う』って部分だけが伝えられたんだよ。ただでさえ、オハラが死に、それを肉にされてナーバスになってるところに、『礼子を喰う』なんて単独で言われたんだ。もちろん、それでも普通の人間なら、誤解することはないだろうね。だけど、礼子ちゃんはそうじゃない。今は人間として暮らしているけど、かつてはブタとして扱われる存在だったんだ。新山さんが自分の正体に気が付き、恋人ではなく、肉として――解体対象として自分を見ていると思い込んでも、おかしくはないんだよ」

「おかしいだろ! あの飲み会の時、礼子さんはコンビニで働いてたんだぞ! いくら白井さんの声がデカくたって、聞こえる訳がないだろうが!」

 自分でも興奮してるのが分かったが、ここは引き下がれなかった。

「もちろん、コンビニで働いている礼子ちゃんに、居酒屋での会話が聞ける訳がない。その仲介となる人間が存在したんだよ」

「どこの誰が、『新山守は貴女を食べようとしてます』なんて言いに行くんだよ!」

「それが、いたんだよ。あの飲み会に参加してて、それが終わった直後に礼子ちゃんの働くコンビニに行った人物がね」

 マスターの目は、真っ直ぐにおれを捉えている。

「……おれ!? おれのこと言ってるのか!? ふざけんなよ! おれがそんなこと言う訳ねェじゃん!」

「……言ったんだよ。居酒屋での白井さんの言葉が頭に残ってたんだろうね。コンビニで偶然礼子ちゃんにの顔を見た健太は、思わず『この人を、喰っちゃえ、だなんて』――と、呟いてしまった」

「言ってねェッ! 言う訳ねェだろ本人の前でッ!」

「でも、心の中では思ったんでしょ?」

「それは、心の中で、だよ。おれが心の中で思ったことが、何で礼子さんに伝わるんだよ。エスパーじゃあるまいし」

「口に出してたんだよ」

「……え?」

「礼子ちゃんがエスパーである必要はない。健太は、口に出して今の言葉を言ってたんだよ」

「……い、言ってない! 絶対言ってない!」

「自覚がないみたいだから、この際はっきり言ってしまうけど――健太、時々だけど、心での中で思ったこと、そのまま口に出してしまうことがあるんだよ。本当に時々だし、周りはただの独り言だと思ってるから、指摘されることはなかったみたいだけど……」

「指摘も何も、おれは、そんな――」

「じゃあさ、心の中で思っただけのことに、相手が反応を示したこと、ない?」

「それは……」ある。何度も。

「誰かの後ろに立っていて、何にも喋ってない筈なのに、いきなり吃驚されたことない?」

 ある。マリアが新山を睨んでいた時のことだ。

「息を殺して盗み聞きしてたのに、中の人間に気付かれて、いきなり扉を開かれたことは?」

 それもある。病院で、新山と刑事との会話を盗み聞きした時――確かあの時は、明日香に『健太のせいで気付かれた』みたいなことを言われたのだ。

「それは偶然じゃないし、相手が鋭いからでも、ましてやエスパーだからでもない。単に、健太が口に出して、思ったことを言ってしまってるからだよ。疲れていたり、緊張したり、混乱したりすると、そういう傾向が強くなるみたいだね」

 思ったことを、口に出して言っていた……?

 ――そんな、馬鹿な。

「『そんな、馬鹿な』――ほら、今も口に出しちゃってる」

「……うう」

「健太の呟きを聞いた礼子さんは、パニックに襲われた。新山さんは自分の正体に気付いている。気付いた上で、自分をブタとして――ブタ肉として見ている。自分を食べようとしていて、そのことを僕や健太相手に話したのだと、彼女は思い込んでしまった。まあ、冷静に考えればそんなこと有り得ないんだけど、生憎とその時の礼子ちゃんは冷静ではなかった。去年の納涼祭で解体されたブタ、そして今回、同様にしてステーキにされてしまったオハラ――次は自分だ、と思い込んでしまったんだね」

 ――おれの、せいだ。

 ――おれが、妙なことを口走ったせいで。

 ――全部、おれが。

「勘違いしないでね、健太」

 マスターの眼光がにわかに鋭くなり、おれは射竦(いすく)められる。

「最初に言ったけど、これは誤解とすれ違いが引き起こした悲劇だ。だから、白井さんや健太が悪いと言う訳ではない。誰か一人に責任を押し付けられるような話じゃないんだよ。誰も悪くない――と同時に、誰もに責任があるとも言える。よく事情を知りもしないのに、よかれと思って適当なアドバイスをした僕にだって、責任はある。成り行きで礼子ちゃんの相談に乗った明日香も同様だ。ここに揃った『関係者』は事件に『関係』しているが故に、皆、大なり小なりの責任はある。だから、間違っても自分一人のせいだなんて思わないことだね」 

「……分かった」

 強い口調で言われ、おれはただ、頷くことしかできない。

 だけど。

「思ったことを無意識に口にしちゃうって、ヤバいよね……。おれ、大丈夫かな……」

「大丈夫に決まってるじゃない」先程とは打って変わった柔らかい声で、マスターは言う。「さっきも言ったけど、疲れたり、緊張したり混乱したりすると、その癖が出るみたいだよ。お父さんが倒れて、慣れない店主代行で、自分が思ってる以上に疲れてたんだね。そんなところに、今回の騒動が起きた。ストレスがたまるのも当然だし、悪い癖が連続して出るのも仕方がないことだ。でも、大丈夫。今回の件が一段落して、仕事に慣れてくれば、自然に収まるよ。もちろん、意識して癖が出ないようにする努力は必要だけどね」

 にこやかに言って、マスターは締める。それだけのことで気持ちが軽くなるのだから、不思議なモノだ。

「――それじゃ、事件の話に戻ろうか」

「え、さっきので終わりじゃないの?」

 カプチーノを吹き出しそうになりながら、明日香が言う。

「残念ながらね。白井さんと健太の件はきっかけにすぎない。誤解とすれ違いのスパイラルは続くんだ」

 これ以上、何をどう誤解すると言うのだ。

「自分が食べられようとしていると思い込んだ礼子ちゃんは、思い切った防衛策に出る。つまり、やられる前にやれ、ということだね。短絡的だと結論づけてはいけない。彼女はそれだけ追い詰められていたんだ。こういう心理は、多分、一度でも捕食される側に立たないと分からないんだろうけどね」

 おれはぼんやりと、序盤でマスターが語ったブタの性格にについて思い出していた。

 知能は極めて高く、清潔好きで、性格は温厚で従順。しかし臆病でもあり、それ故に、許容範囲外のストレスを与えられると一変、凶暴化してしまうこともある――

 まさに、礼子のことではないか。

 あの時、礼子は二人の人間を殺めた紅太郎と同じく、追い詰められて凶暴化していた、ということだろうか。

「通話記録が残らないように公衆電話を使って新山さんを呼び出し、赤い髪を帽子で、赤い瞳をサングラスで隠して、礼子ちゃんは待ち合わせ場所へと向かった」

「その時は、染髪剤やカラコンは使わなかったのね? 現場に毛髪を残しておくためかな?」

「毛髪を残すだけなら、あらかじめ抜いておいて、袋にでも入れておけば済むことだ。礼子ちゃんは、全てを話すつもりだったんじゃないかな。肉にされる、食べられるって恐怖と戦いながらも、心のどこかでは、まだ新山さんを信じていたんだ。自分が好きになった人が、そんなこと考える訳がない、ってね。だから、自分の正体も何もかも全て明かして、話し合おうと思っていた。誤解だったならそれはそれでいいし、もし仮に誤解じゃなかったら――その時はその時だと、礼子ちゃんはそんな風に思ったんじゃないかな」

「でも、誤解だったんでしょ?」

「本当はね。だけど、事はそうすんなりとはいかない。誤解は解けるどころか、さらに上書きされ、補強されてしまう」

 横目で本人たちの様子を窺う。

 新山は眉根を寄せて訝しげな表情をしている。他の皆と同様、何が礼子を誤解させたのか分からないのだろう。

 一方の礼子は――相変わらず、無言で俯いたままだ。

「マスター、さっきから誤解誤解って、それは一体何なのよ?」

「これだよ」カウンターの裏から一冊の雑誌を取り出すマスター。表紙には大きくビーフステーキの写真が載っている。

「それは――」新山が、大きく反応する。

「そう。新山さんが最近購読している牛肉専門誌『NIKUJU』だ。ここにあるのは僕が前もって取り寄せておいたモノだけど、新山さんはあの時、これと同じ号を、待ち合わせの暇つぶしに読んでいたんだ。遅れてやってきた礼子ちゃんは、ゆっくりと新山さんの背後から近付き――たまたま、彼が開いていた特集ページを見てしまう。それが、これだ」

 マスターはそう言って、最初の方のページを開く。

「あっ――」

 新山が、立ち上がる。


『処女牛の魅力』


 見出しには、そう書かれていた。

「新山さん、『ほわいときっちん』で色々と教えてくれましたよね? 未経産の雌牛のことを『処女牛』と呼ぶんだって。その『処女牛』と言うのは、肉質が柔らかく、特有の獣臭さ、乳臭さがなく、より上質な肉とカテゴライズされているみたいですね。丹波系統の中でも、繁殖用ではなく肥育用に育てられたモノだけが松坂牛になり得るだとか――そんな話でした。この『処女牛』というのは、性交の有無ではなく、肥育用に育てられたか繁殖用に育てられたか、その違いのみを指す言葉のようです。つまり、肉牛の用途による飼育方法の違いを表しているのであって、それ以上の意味はない訳です。それなのに、この言葉を知らない礼子ちゃんは、一瞥しただけで、さらなる誤解をしてしまう。処女の牛が高く評価されてるのなら、ブタもそうだろう、とね。

 処女のブタ――つまり、自分のことだ。

 やはり、この人は自分を食べるつもりなのだ。自分と親しくしたのも、男性経験のない自分を狩るのが目的だったのではないか――一瞬のうちに礼子ちゃんの思考は暴走し、妄想は爆発する。新山さんが振り返るのと同時に、礼子ちゃんは近くに転がっていたコンクリ片を拾い上げ、恐怖と怒り、悲しみと悔しさ、その全てを込めて――振り下ろしたんだ」

 皆、黙っている。

 何とコメントすればいいのか、考えているのだろう。

 おれも同じ気持ちだった。白井の下品なアドバイスとおれの特殊な癖、そして牛肉専門誌の見出し特集が、一人の人間をここまで追い詰めるなんて……。

「えっと……何て言うか……」

「馬鹿みたいですね、私」取り敢えず何か口にしようとした明日香を、礼子が引き継ぐ。「と言うか、馬鹿そのものですよね……」

 確かに、馬鹿馬鹿しい話ではある。誤解と思い込みだけで、よくもまあここまで暴走できたものだ、とも思う。

 しかし、だからと言って礼子を責める気にはならなかった。彼女は『くれなひ』として――ブタとして生まれ、マスターが言うところの特殊な巡り合わせと、本人の努力とで人間になった。だけど、どうにかして帳尻を合わせていても、やはり歪みは生じていたのだろう。今まで無理をしていたツケが回ってきたのだ。

「……ごめんなさい」

 この時になって初めて礼子は新山に真っ直ぐ向き合い、ゆっくりと頭を下げる。

「全部、私の我が儘と、勝手な思い込みだったみたいです……。新山さん、ずっと私のために頑張ってくれていたのに……」

 ――ごめんなさい……。

 また、涙声になっている。

 涙声のまま、礼子は頭を下げる。

 頭を下げた拍子に、ポロポロと涙の雫が床に落ち、カーペットがそれを吸収する。

 その様子を黙って見ていた新山は、一言――

「許せないな」と漏らす。

 その発言に、皆は息を飲む。

「ちょっと、新山さん――」

「許せないよ。だってそうだろ? 礼子がどんな気持ちであのブタを飼っていたかだとか、何に怯えていたかだとか、俺は何も知らなかったんだぞ? 自分がどういう存在で、世間に対して何を隠しているかだとか、何で俺に相談してくれなかったんだよ? 恋人って、そんなに余所余所しい関係なのか? 違うだろ」

 新山の目は真っ直ぐに礼子を捉えている。

 正面から、真摯に。

 全てを受け入れるかのような、眼差しで。

「変に隠し事したりするから、今回みたいな誤解やすれ違いが発生するんじゃねえか。頭殴られたことなんて、今さらどうでもいいよ。それより――喰う喰われるってくだりもそうだけど、俺は、礼子に信用されてなかったって事実が一番許せない。これは、礼子に対してじゃない。礼子の心を開けなかった俺自身が、許せないんだ」

「でも……」

「正体明かしたら、俺が別れるとでも言い出すと思ったのか? 馬鹿にするなよ。ブタだか『くれなひ』だか知らねェけど、礼子は礼子だろうが。目や髪の色なんか関係ねェよ。どうでもいい。俺が肉屋なのが気になるってんなら、それこそ関係ない。肉屋なんざ、いつだって廃業にできンだよ。仕事は他にいくらでもあるし、肉屋だってこの町にはたくさんある。だけど――」


 ――礼子は、一人しかいねェだろうが――。


 皆、口を開いて新山が語るのを聞いている。

 あまりにも真っ直ぐで誠実な、その言葉を。

 誰かが、ヒュウ、と口笛を吹く。

「……大鷹さん、茶化し方が、昭和っぽい」

「人をオッサンみたいに言うな!」

 明日香と大鷹が馬鹿な遣り取りをしている。だけど、そのおかげで場の空気がだいぶ弛緩した。

 新山は皆の視線にやっと気付いたようで、顔を真っ赤にして俯いている。語っている間は、夢中で周囲のことなど気にならなかったのだろう。或いは、礼子のことしか見えてなかった、と言うべきか。

 礼子は。

 顔をぐしゃぐしゃにして、新山の体に顔を押し付け、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返している。

 エアコンの送風が、彼女の赤い髪を揺らす。

 何だか、色々あったけれど。

 不運と誤解の連続で、ややこしくなってしまったけど。

 これで、よかったのかな、と思えた。

 もう、大丈夫だ。

 根拠なんてないけれど、そんな風に、おれは思ったのだった。


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