第七章 5 本間雫
私はひどく釈然としない気持ちで、宿木の話を聞いていた。
ブタがヒトの仲間だっただの、脱走ブタを人間として育てるためにそれらしい格好をさせただの――そんなの、普通に捜査して分かる訳がない。自分たちの捜査は何だったのかと、徒労感すら感じてしまう。
私の勘は、まるっきり的外れと言う訳でもなかった。新山守が死体処理のために解体し、肉に加工し、大鷹たちに食べさせたという部分はほぼ的中していると言っていい。違ったのは、人肉をブタ肉と偽って提供したのではなく、ブタの死骸を人間の死体と誤って認識していた所で――やはり、そんなの分かる訳がないと思う。
大食いで使われた肉を、ブタ肉と判定した鑑識に文句を言うことも出来ない。いくらヒトの一種で外見が酷似しているとは言え、やはりブタはブタ、人間は人間だ。人間の格好をしていたと言ってもオハラはブタなのだから、DNAを調べたらブタという結果が出るのは当たり前だ。解体される前にどんな格好をしてたかなんて、肉を調べて分かる訳がない。
「新山さんが襲われた事件だけど――これは、今説明した落とし穴の事件と密接に関わっているんだ」
宿木の話は続いている。すでに話題は新山守襲撃事件へと移っているらしい。こちらとしては、何故高崎礼子がブタを人間として育てようなんてスットコドッコイなことを思ったのか掘り下げてほしかったのだが――それも、そのうち話題に上がるのだろう。今は大人しく宿木の話に耳を傾けておくことにする。
「それは、俺がオハラを解体したことを言っているのか? あんなことをしたから、俺は襲われたと?」
新山が身を乗り出す。落とし穴事件の時は口数も少なかったが、ここからは自身が被害者となった事件だ。恐らく、この中で一番真実を知りたいのは、この男なのかもしれない。
そう。
新山は本当のことを知りたがっている。そのくせ、新山自身は肝心なことを隠している。何の二律背反に悩んでいると言うのだろう。 それに、さっきの話からすると、宿木には知っていることを全て話したようだった。警察ではなく、喫茶店の店主などに、だ。ふざけた話である。まあ、新山と宿木は幼馴染みで信頼関係が出来上がっているという話だし、単に警察が信用されてないと言われれば、言い訳のしようもないのだけれど。
「ううん、それも無関係ではないけど、少し違うかな。この話は、もうちょっと込み入っている」
「だから、何なんだよそれは。いいから、俺が殴られた理由を早く教えてくれよ」
殴られた理由を教えてくれ、か。
犯人が誰であるかは、聞かない訳だ。
「それを言うのは簡単だけど――今それだけを言っても、絶対に納得できないよ。その前に、決定的なことを話しておかないと」
「何だ、それは」
新山の問いには答えず、宿木は不意に顔をこちらに向ける。
「本間さん――新山さんが襲われた現場に散らばってたブタの毛、DNA照合したんですよね?」
何でそんなことまで知っているのか、とは聞かなかった。どうせ新山から聞いたに違いない。
「そうですね。事件当日に大食いシミュレーションに提供した肉と、ついでに捕獲した脱走ブタと、それぞれのDNAと照合しました」
「結果はどうでしたか?」
「両方とも、不一致でした」
「なるほど。つまり、あの毛は二頭の脱走ブタ――紅太郎とオハラ、どちらのモノでもなかったということですね?」
「そう――なりますね」
言われてみれば、確かにそうだ。新山は、解体したオハラの肉を大食いシミュレーションに提供したと認めている。私が押収したのは、まさにその肉だ。宿木の言う通り、あの毛は二頭の脱走ブタ、そのどちらでもないということになる。
「センターから脱走したブタじゃないとしたら、あの毛はどこのブタのモノなんだろうね? 南部の工場に、僕たちの知らないブタがウロウロしていたとでも言うのかな?」
声を張り、皆に問いかける宿木だが、その質問に答えられる人間はいない。いる筈がない。
「話はガラリと変わるけど――この、新山さんを襲った事件そのものは、ひどく単純な犯行なんだよ。公衆電話で呼び出して、待っている新山さんをその辺に転がっていたコンクリ片で殴りつけた――ただ、それだけ。呼び出すのに公衆電話を使ったのと、コンクリ片の指紋を拭き取ったくらいで、他に工作らしい工作なんてほとんどしていない――ただ、一点を除いては」
「あのブタの毛は、犯人の工作だったって言いたいんですか?」
「そうです。犯人はブタの毛を現場に残すことで、その罪を巷で話題の脱走ブタになすりつけようとしたんです。まさか、ほぼ同時期にそのブタが捕獲され、後にDNA照合されるなんて思いませんからね。結局、捜査を混乱させる効果しかなかったようですが……」
「ちょっと待って」横から口を出すのは、もちろん妹だ。
「工作はいいんだけど、そのブタの毛ってどこから調達するのよ? オハラは死んでいるし、紅太郎は捕まってる。一般人がセンターに出入りするには、ゲストパスが必要。いずれにせよ、ブタの毛なんて、そうそう入手できるモノじゃないと思うんだけど?」
「手に入るんだよ」静かに、低いトーンで、宿木は言う。
「何も難しいことなんてない。何せ、犯人は自分の毛を抜けばいいだけなんだからね」
――意味が分からない。
自分の毛を抜く?
ここまで来て、この男は何を言っているのだろう。
視界の隅で、誰かがゆらりと立ち上がるのが分かった。
新山だ。
どこか覚束ない足取りで、ゆっくりと宿木に近付いていく。
「翔――俺の思い過ごしかな。お前の話、まるで犯人はブタだって言っているみたいに聞こえるんだが?」
「みたいに聞こえる、じゃなくて、そうだと言っているんです」
「冗談はやめろよ」
「本気です」
刹那、新山が宿木に腕を伸ばす。制止する間もなかった。気が付いた時には、胸ぐらを掴んでいた。
「ふざけんなよ! じゃあ何か!? 俺を襲ったのはブタだってことかよ!?」
「そうだと言っているじゃないですか」
激昂し、目を吊り上がらせる新山とは対照的に、宿木はどこまでも冷静だ。
「マスター、それはないってばっ!」
一触即発の二人の間に、妹が割って入る。
「新山さん、コンクリ片で殴られたんだよ!? ブタにそんなことができる!?」
「それができるブタがいるんだ」新山に締め上げられたまま、宿木は続ける。「道具を使い、言葉を使い、相互にコミュニケーションをとる――『人間』になった、ブタがね」
「テメェ! それ以上言うと――」
「やめて!」
悲痛な叫びが、耳を劈く。
声の方を見ると、高崎礼子が蒼白な顔で立っていた。
「もう……やめてください……」
「礼子ちゃん、どうする? 僕の口から言う?」
「翔ッ! いい加減にしろよッ!?」
「新山さんこそやめてッ!」
尚も宿木を締め上げる新山を、興奮気味に止める礼子。さながら集団ヒステリーのようだ。
「……いいです。終わりにします……」
涙声でそう言いながら、真っ直ぐにカウンターに向かう礼子。
「いつかは、こうなると思っていました……」
カウンターの水差しを手に取り、自分の頭上に掲げて――彼女はそのまま、中の水をかぶる。
黒い水が頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。
――ん!? 黒!?
我が目を疑った。水をかぶった礼子の黒髪が、瞬く間に赤く染まっていったからだ。否、赤く染まったのではない。彼女の足下には黒い水たまりができている。どうやら、元々赤い髪を黒い染髪剤で染めていたらしい。
続いて、彼女は無言で自分の目を指で開き、そこから黒い膜のようなモノを取り出す。黒のカラーコンタクトだろうか。
一同を真っ直ぐ見据えるその瞳は、深紅で彩られていた――。




