第七章 3 松岡健太
「はァ!?」
後ろの方で、女刑事が立ち上がる。
「アンタ何言ってるの!? ふざけないで。ブタと人間を見間違える訳がないでしょうが……」
すでに丁寧語ではなくなっている。気持ちは分かるが。
「……マスター、俺はその死体見てないから何とも言えないけどさ……やっぱ、それはないんじゃないの?」フォローを入れるつもりで、極めて冷静にマスターをたしなめる。「刑事二人が見てるんでしょ? マリアさんも、明日香も、礼子さんも、大鷹さんも、それにマスター自身も見たって話だったじゃん。これだけ大勢の人間が目撃してるんだから、さすがに見間違えないでしょ」
「見間違えとは言ってないよ」
「じゃあ――集団幻想? 私たちまとめて、催眠術みたいなモノにかかっていたとか?」
「明日香はすぐ難しく考えたがるね……。そうじゃないよ。僕たちは、あるがままの状態を見た。あの時、穴に落ちて首を折っていた少女――彼女こそがブタだったと、僕はそう言っているのさ」
明日香から聞いた、その時の描写を思い出す。水色のパジャマを身につけ、足は裸足、黒髪のショートカットで、顔立ちは幼さを感じるものの割と整っていて、目は閉じた状態、ただ、首だけが肩の方に九十度折れ曲がっていた――。
「あれのどこがブタなのよ」
「明日香、じゃあ逆に聞くけど、あの死体がどんなだったら、お前はあれがブタだと認識する?」
「え、どんなって……」よく分からない質問に、明日香は目をキョトキョトと動かしている。
「質問が悪かったね。もとい――あれを見て、明日香は何で、人間の女子中学生だと思った?」
「だって、服着てたし」
「服なら、着せればいいよね。服を着てる犬猫なんて、今時珍しくもない」
「泥もなかったし――」
「洗い落とせばいいだけの話だよ」
「髪も黒かったし――」
「染めればいい」
「目が――」
「目? それはおかしいな。目は閉じられていた筈だ。瞳の色が何色かなんて、分からなかった筈だよ?」
「…………」とうとう、明日香は黙り込んでしまう。
「じゃあ何かい? その死体は本当にブタので、どっかの誰かがブタに人間のカッコさせちまったばかりに、こんなややこしいことになっちまったってことかい?」
ずっと黙っていた白井が、久しぶりに口を開く。
「まあ、だいたいそんな感じなんですが――その前に」
カウンターの内側に素早く移動して、マスターは続ける。
「事件のことはひとまず置いておいて、ここは一つ――生物と歴史の勉強でもしましょうか?」
「その意義を説明してもらえる?」
女刑事は明らかに苛ついていたが、マスターは「聞いていれば分かります」と取り合わない。
「まず――健太、これ、何ていう動物だ?」
カウンターの裏から一枚の紙を取り出し、皆に見せる。
紙焼きされた写真――いや、CG画像だ。やたらとリアルなタッチで、一匹の動物が描かれている。
何だか、妙な動物だった。
体は全体的にずんぐりしていて、ピンク色。前後共に脚は短い。尻尾はくるりとカールを描いていて短く、目も小さく、鼻孔が完全に見えるほど上を向いた大きな鼻が特徴的だ。
何となく、ユーモラスな印象を受ける容貌だが――
「分からないかな」
黙りこくるおれを見かねてか、マスターの方から口を開く。
しかし、分からない。
こんな動物、見たことがない。
「何か、イノシシに似てるけど……」
「お、さすが明日香。鋭いね。これは原種であるイノシシを家畜化させた動物なんだよ」
「そろそろ教えてよ。これ、何て言う動物なのさ」
「ブタだよ」
「は?」
「これが本来の、ブタの姿なんだ」
言っている意味が分からない。
「かつては、この動物がブタと呼ばれ、世界各国で飼育され、食されていたんだ。少なくとも、近代の中頃まではね」
――嘘だ。
「嘘じゃないさ。記録も残っているし、骨も沢山発見されている。ただ――今はもういない。百年近く前に、絶滅したらしい。原因は、当時世界規模で流行していた新種ウィルスじゃないかって言われてるけど、はっきりしたことは分かっていない。今でも一部の研究者が調べているらしいけどね。ちなみに、このCG画像はその研究所からお借りしたモノだ」
そんな所まで出掛けていたのか――なんて、今はそんなこと、どうでもいい。
「それが本当のブタで、しかも今は絶滅して一頭も残ってないって言うなら――俺たちが普段食べてるのは何なの? 新山さんは何の肉を売っているの? あの、町の中心にある食肉センターでは――何が飼育されているの?」
「もちろん、ブタだよ」
「だって今、本物のブタは、そのCGの方だって――」
「両方とも、ブタなんだよ。健太は、シシャモの話を覚えてる?」
「は? シシャモ?」突然何を言い出すのだ。
「居酒屋で白井さんがしてくれた話だよ。今、市場に出回っているのは、カラフトシシャモって名前の別の魚。安定して手に入れやすいために、カラフトシシャモはシシャモの代替品として、名前だけすげ替えて全国に流通しているんだ。だけど、僕らは皆、それを本物のシシャモだと思って食べている。本当はカラフトシシャモなのかもしれないけど、シシャモとして流通し、シシャモとして販売し、シシャモとして消費している以上、それはもう、シシャモと言えるんじゃないかな」
「オメェは何が言いたいんだよ」
少し話が込み入ってくると、すぐに大鷹からブーイングが入る。
「だから、ブタも同じってこと。今、僕たちが口にしているブタは――今の例えだと、カラフトシシャモにあたる代替品は――一説によると、古代の頃からから食されていたと言われている。もっとも、主な消費地は都から離れた山村ばかりで、決してメジャーな食材ではなかったらしいんだけどね。ちなみに、その時は別の名称で呼ばれていたんだけど――これは後で話そう。そんな、山奥でのみ食べられていたマイナーな獣肉が日の目を浴びたのは、本来のブタが絶滅したためだ。その頃になると、ブタ肉は庶民の間でも普通に食べられていて、需要も高く、しっかりとした市場を形成していた。平たく言えば、今まで食べていた肉が急になくなって、人々は困った訳だね。そこで、この国の人々は、今僕たちが『ブタ』と呼んでいるモノを、本来の『ブタ』の代替品としたんだ。まあ、今そのことを知っている人間はほとんどいないんだけどね。僕も、図書館で調べて初めて知ったくらいだ」
「……それで、結局、今の『ブタ』ってのは、何なのよ」
やたら饒舌なマスターの講釈を、明日香の質問が中断させる。
マスターはゆっくりと瞬きをして――言葉を、紡ぐ。
「明日香、ブタの特徴って、何?」
「どっちのブタ?」
「今、僕たちが食べている方」
「ああ、うん……でも、いきなり特徴って言われてもね……」
「じゃあ分かりやすく質問を変えよう。ブタは、何色だ?」
「――赤」
「そう、ブタは赤い。ブタと聞いて僕たちがまず思い浮かべるのが、その赤い瞳と体毛だ。古代日本では、その色彩から『くれなひ』と呼称していたらしい」
「紅?」
「そう。この町、『呉藍町』の『呉藍』は、『紅』が語源なんだ。名実共にブタの町だったって訳だね。それに、センターで飼育されているブタたちは、データ管理のための識別番号とは別に、飼育員が個別に名前をつけているみたいだけど、そのほとんどは赤や紅に由来している。この前捕獲された雄のブタは『紅太郎』だし、もう一方の雌ブタは『オハラ』だ。言うまでもなく、この『オハラ』は『風と共に去りぬ』の『スカーレット・オハラ』からきている。スカーレット、つまり緋色だね」
いつ終わるとも知れないブタの講義を、皆、黙って聞いている。着地点が分からないだけに、下手に口出しが出来ないのだろう。
「さて、色彩以外にどんな特徴があるか、順不同に列挙していくよ。知能は極めて高く、清潔好きで、性格は温厚で従順。しかし臆病でもあり、それ故に、許容範囲外のストレスを与えられると一変、凶暴化してしまうこともある。筋力が発達していて、並の大人でも平気で突き飛ばすパワーがあるが、その一方で暑さに弱く、ある程度の気温を保たないと途端に衰弱してしまう。体毛は極めて薄く、頭部、脇、生殖器周辺に生えるだけ。毛は直毛で、色は深紅。瞳の色も、同じく深紅。雑食で、基本的に何でもよく食べる。五感の中でも嗅覚が優れていて、餌の匂いを嗅ぎつける能力に優れている。分類は――」
――哺乳類霊長目ヒト科ヒト属ホモ・サピエンス――。
瞬間。
ガタッ、と大きな音がして、何人かが立ち上がった。
おれは、それすらできなかった。
また、何か聞き間違いをしたのかと思ったからだ。
「――ヒト?」
誰かが呟いている。明日香だろうか。声が震えている。
「ブタは――『くれなひ』は――ヒトだって言うの?」
「生物学的には、同じらしいね」
「……私たちは、ずっとヒトを食べていたってこと……?」
「そう言っちゃうと、語弊があるかな」
「何が語弊よ!? 同じじゃん。ヒトでしょ!? 人間なんでしょ!? 共食いってことじゃない! この国の人間、全員カニバリストってことじゃない!」
「違うッ!」
隣で激昂する明日香の躰が、ビクンと反応するのが分かった。この人が声を荒げるなんて、滅多にないことだ。
「違うよ。全然違う。僕たちは、人間を食べてる訳じゃない。もちろん、共食いでも、カニバリストでもない。ここは本当に大事なところだから、ちゃんと聞いてくれ」
「でも……ヒトなんでしょ……」明日香は涙声になっている。
「そうだ。でも、『ヒト』と『人間』は違う。『ヒト』と言うのは、あくまで生物学的な分類だ。イヌ、サル、キジと変わりはない。
その『ヒト』が、知能を持ち、道具を使い、言葉を覚え、お互いにコミュニケーションを取り、それで初めて『ヒト』は『人間』になるんだ。それに、カニバリズムって言うのは、人間が人間の肉を食べることを言うんだよ。宗教儀礼、薬用効果、狂気、あるいは極限状態――様々なケースがあるけれど、共通してるのは、食べる対象を正しく人間と認識してるって点にある。人間と分かっていながら、その肉を食べる――それがカニバリズムだ。中には、騙されて、そうと知らず食べてしまうケースもあるけど、それにしたって、食べられてしまう人間は、少なくとも生きている間は人間として認識されていた筈だ。最初から食肉用として生まれ、肉になるために死んでいくブタとは、決定的に違う。誰も、彼らを『人間』としてなんて認識してないんだからね。でも、これは当たり前のことなんだよ。ブタは、確かにヒトかもしれない。でも、決して人間ではない。牛や鶏、羊と同じように、人間のために生まれ、人間のために死んでいく経済動物にすぎない。決して人間ではない。生物学的に見て、ブタはヒトにカテゴライズされる――ただ、それだけのことなんだ」
「いや、マスターの話はよく分かったけどヨ」話が一段落したところで、白井が口を挟む。「何で誰も、そのことに気が付かねェんだヨ? このご時世、大抵のことは分かってる筈だろ? んで、気付いたら気付いたで、大騒ぎになると思うんだけどナ?」
「なりませんよ」白井の疑問を、マスターはばっさりと切り捨てる。
「言ったでしょう。ブタは生物学的にヒトに分類される、ただそれだけのことだって。繰り返しますけど、ヒトと人間は違うんです。現に、誰も何も隠してる訳じゃない。ちょっと図書館で調べたくらいで、容易に分かってしまうくらいなんですから。だけど、誰も改めてブタがどんな動物か調べようなんて思わない。自分が普段口にしてる肉が、何科何目の動物か気にしてる人なんていますか?
一部の研究者か畜産関係者くらいのでしょう。そして、それらの人々はブタがヒトであることなんて、百も承知している。一般の人だって、仮に本当のことを知ってしまったとしても――多少は驚き、ショックを受けるかもしれませんが――『へえ、そうなんだ』で終わりですよ。何せ、僕たちが生まれるずっとずっと前から、この国では『くれなひ』という存在を食肉用に飼育し、食べ続けてきたんですから。……一説によると、『くれなひ』は元々、山深い地域で狩猟や採集を行っていた人間だった、という話ですが――今はその原形もありません。食肉用経済動物として、飼われ、潰され、肉になる存在です。皆、そういうモノだと受け入れている。歪な形かもしれないけれど、これはこれで、成立しているんです」
「一つ思いついたんだけどさ……」
おずおずと口を開いたのは、大鷹だった。
「守護者とかもそうだけど、海外じゃブタ食反対運動とか凄いって言うじゃんか。あの人たちってのは、ブタがヒトだから、あんなに反対してンのかな?」
チラチラとマリアの方を窺いながら話す。明日香に聞いて知ったのだが、マリアは守護者創設に関わったポーラ・スチュアートという女性の孫で、色々と複雑な事情があるものの、彼女自身もブタ食反対主義者なのだという。
「会長にしてはいい質問だけど、それも違うかな。くどいようだけど、ブタはヒトの仲間ではあっても、決して人間ではない。そんなことは、あの人たちもよく分かっている。関係ないんだよ。『ヒトと同じ仲間であるブタを食べるなんて何事だ』って言う人も、いるにはいるけど、少数派だ。だいたいは、『知能が高く大人しい性格のブタを食べるなんて許せない』なんて意見ばかりなんだよね。犬猫や、クジラ、イルカを食すのに難色を示すのと大差はない。これは僕の見解だけど、多少感情的になりすぎている感は否めないね」
大鷹や明日香は、横目でマリアの様子を窺っている。しかし、当の本人は無表情で床を見つめるだけ。何を考えているか分からない。
「とにかく、これまでは、それはそういうモノとして受け入れられていた。成立していたんだよ。だけど、やはりそれはどこか歪だったんだろうね。ある時、突然、バランスは崩れた」
「……どういうこと?」
さっきから、明日香は皆を代表して相槌役をしてくれている。皆、話の続きが気になっているだけに、この役柄は地味に有り難い。
「ブタは、『ヒト』であっても『人間』ではない――」
これからが本番だとばかりに、マスターは声のトーンを上げる。
「そのブタを、『人間』にしようとした人物が現れたんだ」