第一章 3 松岡健太
午後四時、数分前。
扉の上部につけられた鐘が鳴り、来客を知らせる。
「はい、らっしゃいませーッ!」
張りのある大声を発しながら、フリフリフリルのミニスカートの制服を身に纏った金髪碧眼の美女が、腰を一八〇度曲げてお辞儀している。ミニスカートから覗く太ももが眩しい。
「ようこそッ! 喫茶宿木へッ!」
引き続き、大声での挨拶を続けている。
「あの、マリアちゃん――」
おずおず、といった感じで、後ろから礼子が声をかける。こちらは、ジーンズにエプロンという普通の格好である。
「いらっしゃませは、普通に言った方がいいかな――居酒屋さんじゃないんだから、ね? お辞儀も、そんなに丁寧にしなくていいから。後、全体的に声量はもうちょっと抑えた方がいいかも……」
「はいッ! 合点承知ですッ!」
……合点承知て。と言うか、この人、礼子の言ってることを全く理解していない。
彼女の名前はマリア・ヨークというらしい。
今日から新しく入ったウェイトレスで、今は研修の真っ最中、とのこと。容姿や名前からも分かる通りの外国人で――多少怪しいところもあるようだが――言葉自体は非常に流暢だ。言葉自体は。しかし、問題はどうも、別のところにあるような気がする。少し観察しただけでも、それは明らかだ。無駄に元気と言うか、やる気が空回っていると言うか――マスターは何故、こんな人を採用したのだろう。この店のマスターは、一見優男風だが、なかなかどうして、一筋縄ではいかない性格をしている。まさか、『綺麗だから』『面白そうだから』などと言う理由で、新人ウエイトレスを採用した訳ではないと思うが……。
おれは軽く首を捻りながら、目の前のコーラに口をつける。今日は、これから商店街店主たちの会合が行われるのだ。父親が脳梗塞で倒れ、なし崩し的に花屋を継いだおれも、一応は商店主に数えられている。とは言え、こっちはまだ二十歳。小僧扱いされるばかりで、ろくに発言権も与えられていないのが現実だ。
今年の会合場所は、この『喫茶宿木』。
商店街の奥の袋小路のさらに奥に位置する、昔ながらの喫茶店だ。微妙な立地条件ながらも、落ち着く佇まいと美味いコーヒーとで、商店街の内外を問わずに常連客は多い。また、この店も数年前に代替わりしたばかりなのだが、二代目マスターの宿木翔の評判もなかなかにいい。優男で物腰は柔らかく、代替わりしてから女性客が増えたとも言われている。
確かに、いい店だと思う。
だけど。だけどだ。
同時に、妙な店であることも確かだ。
まず、マスターだが――この男は前述の通り、見た目通りの優男ではない。古くからの幼馴染みだからこそ、よく知っている。腹黒と言うか、策士と言うか、黒幕気質と言うか――とにかく、油断のできない男なのである。
カウンターの隅では、翔の妹である明日香がいつものように文庫本を開いている。少し短気で理屈っぽいところはあるが、兄に比べれば遙かにマシな常識人である。中学まで同級生で、気心も知れている間柄だ。黒縁眼鏡に黒を貴重にした服装、前髪一直線のおかっぱ頭という容姿も――幼児体型に近いスタイル含めて――中学の頃から全く変わっていない。高校を卒業してから、バイトも就活もせず、一日中この店に入り浸っているのが、若干心配ではあるが……。
そして――少し離れたテーブル席に突っ伏してイビキをかいている男がいる。大鷹だ。職業はフリーター、らしい。正直言うと、おれはこの男のことをよく知らない。マスターの親友らしく、ほぼ毎日この店に居座り、明日香と下らない喧嘩を繰り返している。マスターとは同じ高校で、その時は生徒会長を務めたらしいが――マスターは今でも彼のことを『会長』と呼んでいる――正直、頭はあまり良くないように思う。いや、頭がよくないと言うか……言動の全てが、雑で適当なのだ。そんな彼が生徒会長に当選できたのは、腹黒の親友が裏で暗躍したおかげなのだろう。
そんな中で、唯一の良心が、ウェイトレス・礼子の存在である。地味で大人しい印象だが、顔の造り自体はなかなかで、化粧や服装にもっと気を遣えば、相当な美人になるのではないかと思っている。常識人で礼儀正しく、癖の強い店主、常連客の中で、毎日甲斐甲斐しく働いている。この店が一定の評価を得ているのも、彼女の存在が大きいのではないだろうか。
しかし、ここで登場したのが、この新ウェイトレスである。まもなく会合が始まるということで、商店主たちが次々と来店しているのだが、その度に気合い満点の挨拶をしている。別に何か支障があると言う訳ではないが、やたらと騒々しい。
「……あの子、大丈夫なのか?」
カウンターに移動し、隅で文庫本を開いている明日香に尋ねる。
「私に聞かないでよ」返事はにべもない。「マスターに聞いて」
愛想のない黒縁眼鏡から視線をそらし、おれはテキパキと来客のオーダーをこなしているマスターに声をかける。
「マスター、あの新人の子は、どういう――」
「マリアちゃんは二十五歳。健太よりは五つも年上だよ。外国人って年齢が分かりにくいし、美人だから若く見えるけどね」
作業の手を止めずに、的確におれの勘違いを訂正する。つまり、礼子と同い年ということらしい。
「……あの新人の人は、大丈夫なんですか?」
おれは根が素直なので、律儀に言い直して、再度質問をぶつける。
「うん? 大丈夫って言うと?」
「ウェイトレスには向いてないんじゃないかって聞いてるんです」
「そんなことないよ。頭もいいし、人当たりもいいしね。やる気も元気も充分にある。まあ、今は慣れてないせいで、若干緊張してるみたい――」
ガチャン、という音がマスターの言葉を遮る。件のマリアが、コーヒーカップを落として割ってしまったらしい。注文した客や、フォローしてくれている礼子に、最敬礼して謝罪している。そのまま土下座でも初めてしまいそうな勢いだ。
「慣れるまで、食器が全部なくなっちゃわなければいいけどねー」
文庫本から視線を上げずに、明日香が嫌味なことを言っている。
「――何で採用したんですか?」
「何でって――だから、彼女キレイじゃない」
おい。
「それに、何か、面白そうだったしねー」
脱力した。この人、昔から何も変わっていない……。
言葉を失ったおれは、そのまま自分のテーブルへと戻っていく。時刻は午後四時。商店街の会合が始まる時間だ。すでに商店主たちはほとんど来店している。礼子が表の札を『準備中』に変える。マスターも、全員分の飲み物が行き渡ったのを確認して席に着く。
「……来てないのは誰だ?」
先程来店したポロシャツの中年男――洋食屋『ホワイトキッチン』の店主・白井吾郎が店内を見渡して発言する。彼はこの呉藍商店街組合のリーダーであり、毎回会合の議事進行を任されている。
「須賀さんがまだ来てないみたいッスけど」
答えたのは、短髪で筋肉質、精悍なイメージの青年である。彼は『肉の新山』の店主で、名前は新山守という。彼もまた、数年前に親から代を譲り受けた若手で、年もマスターとそう変わらない。何を考えているか分からないマスターと違い、真面目で実直な性格で、おれも昔から兄貴的存在として慕っている。
「また須賀ちゃんかよ……時間にルーズなんだよなァ……」
『須賀電器店』の店主である須賀は、ネットゲームが趣味のインドアな男で、やや協調性に欠けるところがある。
「まあ、いいや。ちゃっちゃと始めちまおう」
多忙なのかせっかちなのか、さっさと会合を始める白井。議題は、一ヶ月後の納涼祭で行われるイベントについてである。
取り敢えず、各店で安売りセールを敢行するなどの案は決定している。しかし、それとは別に、派手で集客性のあるイベントを行いたいとのこと。
去年は『肉の新山』主催で、新山自身による豚の解体ショーが行われたのだが――これは、大失敗に終わった。少し考えれば分かることだったのだ。マグロとは訳が違う。あまりにも、グロすぎる。かつて新山が町の中心にある食肉センターで研修をしていて、豚の解体を一人で行えると聞いて、半ば安直に決定してしまったのだが――やはり、もう少し考えるべきだったのだと思う。
だから今年は、早めに会合を開始し、慎重に話し合って決めよう、ということになったのだが――これはこれで、うまくいかない。先程から各店主達が様々なアイデアを披露しているのだが、やはり自店の利益を優先するからか、なかなか『これ』というアイデアが出ないのが実情である。
「これじゃ、埒が明かねェなァ……」
開始から一時間ほど経ったところで、白井が腕を組んで黙り込む。
早くも、硬直状態に陥ってしまったようだ。元から、今日だけで結論が出るとは思っていなかったが――やはり、どんな状況であれ、行き詰まりと言うのはいい気持ちがしないものだ。居並ぶ商店主たちは一様に顔を曇らせている。礼子はテキパキと納品処理をマリアに教えている。明日香は無言で読書をし、大鷹は未だに夢の中。何も動きがない――と思われた、その時。
ドアベルを鳴らして、来客が現れた。
扉の向こうから顔を出したのは風采の上がらない感じの中年男で、おれたちもよく知る人物だ。商店主でありながら、唯一会合に顔を出していなかった、『須賀電器店』店主・須賀である。
「オイ、須賀ちゃん、大遅刻だぞ」
小言を垂れる白井。しかし、須賀は彼の言葉には何の返事もせず、携帯電話片手に黙って入店してくる。キョロキョロと店内を見渡す様は落ち着きがなく、何だか挙動不審だ。やがて、テーブル席の一つにマスターがいるのを発見して、真っ直ぐに向かっていく。
「……何か飲みますか?」
遅刻したことや様子がおかしいことには一切触れず、あくまで喫茶店のマスターとして振る舞っている。
「アメリカンでいいよ。それより、マスター、一つ聞きたいことがあるんだけど」
幾分、トーンを落とした口調で須賀が尋ねる。
「この店に、ガタイのいいお兄さんがいるよね? 従業員じゃなく、常連客で。ほら、マスターの友達だって言う――」
「会長のことですか? なら、そこの席で寝てますけど」
カウンターの内側に入り、コーヒーの用意をしながら、店の隅でイビキをかいている大鷹を指し示す。
「起こしていいかな?」遠慮がちに須賀が尋ねる。
「起こしていいですよ」答えるマスター。
「起こしましょうか?」水差しを手に取り、明日香が口を挟む。
「起こさなくていい!」叫びながら、大鷹が体を起こす。
「起きてたんだ。イビキかいてたのに、器用な男ねー」
「起きるよ、そりゃ! 一日の間に、そう何度も溺れそうになってたまるかってのっ!」
言葉の意味はよく分からないが、何やら必死だ。よっぽど酷い目に遭ったのだろう。
「……それで? オレに何か用ですか?」
寝起きのせいか、随分と機嫌が悪い。だけど、須賀はそんなこと気にしない。手にした携帯と大鷹の顔を何度も見比べながら、慎重に言葉を選んでいる。
「君、大鷹大輔って名前?」
「……そうですけど……? 名乗ったことありましたっけ?」
不思議そうな顔をしている。当然だ。たまに喫茶店で顔を合わせる程度の付き合いで、フルネームなど把握できる訳がない。おれだって、下の名前を今知ったくらいだ。
「いや、君――昔、テレビに出たことあるだろ?」
言葉の端に興奮を滲ませながら、須賀は大鷹の質問に答える。
「え……ああ、まあ……」
「そうだよね? 出たことあるよね!?」
困惑する大鷹とは対照的に、須賀のボルテージは徐々に上がっていく。しかし、聞いているこちらはさっぱりだ。大鷹がテレビ? この男、有名人だったのか?
「そんなの、昔の話だし……」
「いやぁ、凄いじゃないかっ! こんな身近に、そんな凄い人がいるなんて、全然知らなかったよ!」
凄い凄い、と連呼する須賀。しかし、対する大鷹は「別に、凄くないし……」とノリが悪い。つまらなそうな顔で、頬杖をつきだす。事情を知っていると思われる宿木兄妹は、顔を見合わせて肩をすくめるだけ。説明するつもりは毛頭ないらしい。新人のマリアはともかく、古株の礼子も事情を知らないらしく、キョトンとした顔をしている。
「オイ、おめーら、さっきから何の話してンだよ? 須賀ちゃん、俺らにも分かるように説明しろって」
この状況に業を煮やした白井が、皆を代表して苦言を述べる。
「ああ、白井さん。すみません。いや、ネットで面白いモン見つけたもんで。最近、複数の動画サイトにアップされていたヤツなんですけどね――」
鼻息荒く、須賀は自分の携帯を差し出す。画面が小さいが、それでも見られないことはない。商店主たちは顔を近づけ、動画の視聴を始める。
動画は、テレビ番組を編集したモノらしかった。
番組の内容は――大食い選手権、なのだろうか。
薄暗いスタジオの中、細長いテーブルの前に座った複数の人間が、皿に盛りつけられたカレーを一心不乱に食らいついている。並ぶ人々は、年齢も性別も、体格も服装もバラバラだ。細身の青年やツインテールの女子高生、中年の主婦や壮年の紳士――そして、ほぼ中央に、大柄な青年が位置している。一目見て分かった。大鷹だ。
今よりだいぶ若く、髪型も違うが、その特徴的な顔立ちは間違えようがない。必死の形相でスプーンを操り、水をガブガブ飲みながら、カレーを体内に収めている。彼の傍らには空の皿が十枚以上重ねられている。……あれを一人で食べたのだろうか。一皿三〇〇グラムとしても、優に三キロは食べている計算になる。人間業ではない。
皆、息を飲んでその動画を覗き込んでいる。いつの間にか、商店主たちに混じって、礼子やマリアも動画視聴に参加している。興味がないのは、当事者の大鷹と、マスター、明日香の三人だけである。
場面は転換して――薄暗いスタジオなのは相変わらずだが――今度は中央にテーブルが置かれ、その左右に二人の人間が向き合う形で座っている。左に座っているのは、さっきもいたツインテールの女子高生、そして右に座っているのが大鷹である。程なくして、二人の前に湯気を立てたラーメンが運ばれてくる。照明が明滅し、ブザーが鳴り響く。物凄い勢いで食べ始める二人。二杯完食するのに、二分もかからない。化け物か。勝者は大鷹だ。次に運ばれてきたのは、沢山のショートケーキ。二十個くらいはあるだろうか。これも、目にも止まらぬスピードで食べ尽くしていく。今度の勝者は、対戦相手の女子高生。そして次は、大皿に乗ったステーキが三皿である。今までと同様に対戦が開始され、大鷹は大口を開けてステーキに食らいついていく――のだが、どういう訳か、対戦相手の女の子は微動だにしない。硬直して、目の前の皿を睨み付けている。そうこうしている間に、大鷹は三枚ものステーキを食べ終えてしまう。派手なファンファーレと共に、『勝者 大鷹大輔』の文字がテロップで映し出され、大鷹は両腕を天高く上げてガッツポーズ。
動画はそこで終わっていた。
「何つーか……」白井が、ぽつりと呟く「凄ぇな……」
おれも同じ感想だった。『フードファイター』ってヤツだろうか。おれもその存在は知っていたが、まさか、こんな身近なところに当の本人がいただなんて。
そこからは、ちょっとした騒ぎになってしまった。テーブル席の大鷹を商店主達が囲み、あれやこれやの質問攻勢。
「凄ェじゃん、何で隠してたの?」「いや、言わなかっただけで、別に隠してた訳じゃ……」「普段からあんなに食うの?」「普段は普通ですよ。太るし、食費もかかるし」「てか、全然太ってないね!」
「太ってるヤツは、逆に食べれないモンですよ。胃袋が膨らむのを、脂肪が邪魔するんで」「子供の頃からあんなに食べれたの?」「まあ、食べるのは好きでしたけど……」「最高でどのくらい食べれるの?」「あの当時は、固形物なら七、八キロはいけましたけど……」「凄いなあ! ブタ丸ごと一頭食べれるんじゃない!?」「いや、さすがにそこまでは……」「大食いチャレンジとかやらないの? 制限時間内に食べたらタダってやつ」「行ける範囲にある店はほとんど行き尽くしましたね……」「え、もう今はやってないの?」「いやあ、今はねえ……」
明らかにテンションの低い大鷹を取り囲み、商店主たちは矢継ぎ早に質問をぶつけていく。転校初日か。
「須賀さん、その動画って、最近アップされたんですか?」
ずっと黙っていた明日香が、おもむろに口を開く。
「うん? そう、だね。これ以外にもいくつかあるんだけど、今月の初めくらいにアップされて、そこそこのアクセス数を稼いでるみたいだね」
「ふうん……」
興味があるのかないのか、それだけ聞いて再び文庫本に視線を落とす。何なんだ。
そうしている間にも、大鷹への質問攻勢は終わらない。当の大鷹は明らかにうんざりしている、のにである。今はもう大食いはやってないみたいだし、あまり触れられたくない話題なのかもしれない。
一方、商店主組合リーダーである白井は、一人、自分の席で腕を組んで考え事。既視感と嫌な予感が、同時におれを襲う。こんなことが、前にもあったような気がする。思い出せないけど。
「大鷹さん――って言ったっけか」
そして、白井はゆっくりと口を開く。
「一つ、頼まれごとをしてくんねェかな?」
「何ですか?」
鶴の一声――とでも言うのだろか。
今まで好き勝手質問をぶつけていた商店主達は一斉に黙り込み、白井の次の言葉を待っている。
物凄く、嫌な予感がする。
「納涼祭のイベントに――出てほしいんだ」
「ええ!? オレがですか!?」
目を白黒させて吃驚している。
「そうだ。今回のイベントは、大食い大会を行いたいと思う。そうだなァ――予選で参加者を三人に絞り込んで、その三人と君が闘う、っつーのはどうだろう」
皆、黙り込んでいる。各々で考えているのだろう。だけど、おれには分かった。きっと、白井のアイデアで、決定してしまう。今までもそうだったのだ。
――思い出した。
一年前も、そうだったではないか。肉屋の新山が食肉センターで研修しているのを知って、それで、安直にブタの解体ショーに決定してしまったのではなかったか。今回は、慎重に話し合いで決めると言っていたのに……。
おれは、人知れず深い溜息を吐いたのだった。