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第五章 3 松岡健太

「……覚えてないんです」

 西陽の差す病室――そのベッドの上で、新山は弱々しく呟く。

「覚えてないって――どこから?」

「いや、昨日起きたことは、ほとんど何も……」

「何も!? どうしてあの廃工場にいたのか、そういった前後関係も含めて、ですか?」

「……ええ」

 目を閉じ、眉間に皺を寄せながら、深い溜息を吐く本間刑事。

 だいぶ、疲れているように見える。

 だけどそれ以上に、ベッドの上の新山は弱っている。顔色は蒼白を通り越して土気色だし、目にも一切の生気が感じられない。

 ――記憶喪失?

 いや、自分がどこの誰だとか、周囲の人間、目の前の刑事コンビのことは覚えているようだから――殴られたショックで、事件当日のことだけがすっぽり抜け落ちてしまった、ということなのだろう。有り得る話だ。しかし、本間刑事が溜息を吐きたくなる気持ちも分かる。あまりの展開に、こちらも少し混乱気味だ。

 話を整理しよう。

 新山が襲われたと聞いたのは、喫茶店の皆とブタ捕獲の生中継に釘付けになっている時だった。南部の廃工場で、後ろから頭を殴られて倒れているのが、近くの工場の人間によって発見されたのだ。おれは喫茶店の一同や新山の両親と共に病院に駆けつけたが、しばらくは意識の戻らない状態が続いた。目を覚まし、話ができる状態にまで回復したのは、丸一日経ってからのことだった。

 新山の母親からそのことを聞いたおれは、明日香、大鷹と共に再びこの病院にやってくる。マスターが同伴していないのは、そう何度も店を空けられないという理由からだ。

 一刻も早く新山の安否を確認し、事の次第をこの耳で聞きたかったのだが――病室には、先客がいた。例の刑事コンビだ。当然のことながら、警察も今回の襲撃事件を一連の騒動と絡めて考えているらしい。病室に入ろうとしたところで本間刑事の声を耳にし、事情聴取が始まっているらしいと察し、おれ達は入るに入れなくなってしまった。結果――今はこうして、病室の外で中の様子を窺うような格好になっている。平たく言えば、立ち聞きだ。後ろめたい気持ちもあるにはあったが、それより、事件の詳細を知りたいという好奇心の方が勝った。何も言わないが、明日香や大鷹も同じ気持ちだったのだろう。無言で病室のドアに耳を当てている。

「……何か、襲われるような心当たりは?」

 声のトーンを変え、質問の内容をガラリと変える本間刑事。

「ありませんよ、そんなの。誰かに命を狙われるようなことなんて、ある訳ないでしょ」

「なるほど」全く納得してないような口調で相槌を打つ本間刑事。

「だいたい、これって通り魔の仕業じゃないんですか? 俺が誰かに恨まれてるとか、関係ないと思うんですけど」

 声自体は弱々しいが、詰問するような口調だ。刑事の質問内容が不本意だったのだろう。

「これは、れっきとした殺人未遂です。結果的に大したことはありませんでしたが、当たり所が悪ければ、即死も有り得ました」

「だからそれは、例の通り魔が――」

「通り魔は捕獲されました」

「――え?」

 刑事の返しが意外だったのか、声にならない声を出している。

「例の通り魔事件、食肉センターから脱走し、凶暴化したブタが引き起こしたモノであることは、貴方もご存じですよね?」

「それは、まあ……」

「警察と捕獲業者の必死の追跡により、脱走ブタは昨日のうちに捕獲されました。まあ、捕獲は大変だったようですが――」守護者(ガーディアン)が横槍を入れたことや、その直後にブタが大暴れしたことについては説明しないらしい。今回の件には直接関係ないからだろう。

「とにかく、貴方が襲撃されたのは、その捕獲劇の真っ最中のことなんです」

 ――知らなかったのか。

 ついさっき意識が戻った新山は、ブタ捕獲のニュースを見聞きする機会がなかった、ということだろう。

「言ってみれば、あの脱走ブタには鉄壁のアリバイがあるということです。どう頑張ったって、貴方を襲うことはできない。犯人は別にいるんです」

「……俺は、どういう状況で殴られたんですか?」

「聞いてるのはこちなんですが――まあ、いいでしょう。現場からは血のついたコンクリ片がそのまま放置されていました。指紋は取れませんでしたが、それが凶器と見て間違いがないようです。財布等は手つかずのままだったので、物盗りのセンも考えられません。また、倒れている貴方の近くには一冊の雑誌が落ちていました。恐らく、襲われた時に貴方が読んでいたものと思われます」

「雑誌?」

「ええ。これは推測ですが――貴方は誰かからあの廃工場に呼び出され、その待ち合わせ時間の暇を潰すために、その雑誌を読んでいたのではないでしょうか。犯人は雑誌を読む貴方の背後に回り、近くに転がっていたコンクリ片で思い切り後頭部を打ち付けた――そういう状況が推察できます」

「……そうですか」

 詳しい状況は今初めて聞いたが、取り敢えず、引っ掛かる点はないように思える。要するに、新山をその場所に呼び出した人間が犯人、ということだろう。

「ただ、不可解な点が一つあるんですよね」

 数秒の沈黙の後で、本間刑事は勿体ぶった声を出す。

「……何ですか?」

「滝山クン」本間が横にいるらしい若手刑事に声をかける。衣擦れの音。滝山刑事が何かを取り出したらしい。

「コレ、何だか分かりますか?」

 扉を閉じて盗み聞きしているおれたちには分かりようもないが、新山は一目見てそれが何か分かったらしい。

「ブタの毛、ですか……?」

 ――またか。

 今回の一件は、本当に、一から十までブタだらけだ。

「そうです。さすがは肉屋さんですね」

「肉屋どうこうは関係ありませんよ。特徴あるから、分かる人には分かるでしょ。ソレがどうかしたんですか?」

「現場に散らばっていたんです」

「…………」

 やたらフラットな口調で、まるで何でもないことのように、本間刑事はそう告げる。

「倒れている貴方の周辺に、です。正確に言うなら、倒れている貴方の上にも、微量ながら落ちていた訳ですが」

「…………」新山は、絶句しているらしい。

「ね、不可解でしょう? 先程説明した通り、世間を騒がせた脱走ブタは貴方が襲撃されたのとほぼ同じ時に捕獲されているんです。ならば、この毛は、何故あの現場にあったんでしょう?」

「別に、ブタは他にも沢山いるし……」

「そうですね。ただ、工場地帯をのしのし歩くブタってのは、そうそういないんじゃないですか?」

 さっきから、この刑事は持って回った言い方をしている。何だか含みがあるようで、正直、感じが悪い。

「肉屋である貴方は、ブタと接する機会も多いのでしょうけど……」

「ブタではなく、ブタ肉です。ウチには加工された肉のブロックが卸されるだけです。毛の生えた生身のブタと接することなんて、それこそ、そうそうありませんよ」

「でも、昔は食肉センターで研修をなさってたんですよね?」

「それが何だって言うんですか。二十代の時の話です。今は出入りもしてないし――第一、あそこは警備が厳重で、入るのにも入館証が必要なんです。従業員や業者の出入りは、全て記録されている筈ですよ?」

「そのようですね。精肉業界で働いていても、ブタの毛が付着する機会なんてない――すると、どうなりますか? 確かにブタは沢山いるけど、現場に体毛を残せるブタは、あまり多くない、という結論になりませんか?」

 結局、話題は元に戻ってしまう。確かに、些細ではあるが、とてつもなく不可解な話のようだ。

「……刑事さん、何が言いたいんですか?」

「何も。ただ、今新山さんがおっしゃったようなことは、私たちも考えた、というだけのことです。正直なところ、困惑しているんですよ。次から次へ、分からないことばかり起きて――貴方のお話を伺えば、何か分かるかもと期待していたんですけどね」

「残念ながら。殴られたショックで前後のことは覚えてないし、何故そこにブタの毛が散らばっていたかも、さっぱりです。期待に添えなくて申し訳ありませんが」

 あまり申し訳なくなさそうな口調で、新山は答える。

「そう言えば――脱走したブタはもう一頭いたんじゃなかったんですか? そっちはどうなったんです?」

「……やっぱり、そうなりますか。誰だってそう考えますよね……」

「ちょっと」新山の声が俄に気色ばむ。「もう一頭のブタのこと、覚えてたんじゃないですか。脱走したのがもう一頭いるなら、そいつが襲ったに決まってるじゃないですか。今までの質問は何だったんですか……ッ!」

 おれも同感だ。この刑事、新山を苛つかせるため質問を重ねていたのだろうか。

「うーん、それはちょっと短絡的ですが――まあ、もう一頭の脱走ブタを持ち出せば、取り敢えずブタの毛が現場に散らばっていたことへの説明はつきますね」

「まるでそうじゃないみたいな言い方ですね」

「いえ、恐らく、貴方が襲われた瞬間に、脱走ブタはその場にいたんでしょう。ただ、貴方を殴り倒したのは、そのブタではない」

「何故ですか?」

「言ったでしょう。凶器は、その場に転がっていたコンクリ片なんです。壁に叩きつけられたのでも、穴に突き落とされたのでもない――今回の事件は、今までと違って、初めて凶器が使われた事件なんですよ。そんな器用なブタがいますかね?」

 ――やはり、ブタが犯人ではない、のか……?

 分からない。何も、分からなかった。

「――――」

 不意に、沈黙が訪れる。

 何かしているのだろうかと、ドアに強く耳を押し当てる――が、突然、そのドアが内側に開かれ、体重をかけて耳を押し当てていたおれ、明日香、大鷹の三人は、もつれるようにして病室に雪崩れ込んでしまう。

「……古典的なことを……」

 見上げると、スーツ姿の本間刑事が、呆れ果てたように倒れる三人を見下げている。

「盗み聞きとは感心しませんね……」

「いやいや、オレは新山さんの見舞いに来ただけだからッ!」

「病室に入りもしないで、刑事の事情聴取を盗み聞きするのが、貴方にとってのお見舞いなんですか?」

「違うんだって。オレは普通に入ろうとしたんだけど、明日香がやめろって……」

「人のせいにしないでよッ!」男二人に押し潰されながら、明日香は大声を上げる。「取り込み中みたいだから、少し時間を潰してから出直そうって、私はそう言ったんでしょう!? せっかくだから聞いてみようぜって言い出したのは、大鷹さんの方じゃない!」

「最終的にはお前も同意したじゃねェか――静かにしてればバレないからって……」

「それは、ほら――」躰を捻り、明日香はこちらに視線を送る。

「どっかの誰かが、静かにしてないから……」

「え、おれ!?」思わぬ所から流れ弾が飛んできた。「おれはずっと静かにしてたじゃねェかよッ!?」

「アンタねぇ――まあ、いいわ」

 何かを言いかけたが、結局、それを呑み込んでしまう。

「それより、いい加減にどいてくれない!? 重いんだけど!」

 そう言えば、倒れ込んだままだった。軽く謝罪の言葉をかけて、ようやく明日香の上から体をどける。

「……終わりましたか?」

 立ち上がると、呆れたままの本間刑事がじっとりとした視線を三人に送っていた。

「……まあ、貴方がたとは知らない仲でもありませんし、立ち聞きの件は大目に見ることにします」

「よっしゃ!」大鷹が歓声をあげる。うるさい。

「ただし――」立てた人差し指を真っ直ぐ大鷹に突きつけ、眼鏡のフレームを光らせながら、本間刑事は続ける。

「今聞いた話は、絶対に口外しないこと。これだけは守って下さい」

 目付き鋭く言われ、おれたちはただ、頷くしかできなかった。


「――どういうことだと思う?」

 一時間後、一同はそのまま喫茶宿木に移動していた。時刻は六時過ぎ。客の入りはそこそこで、マリアが忙しそうに動き回っている。おれと明日香はカウンター、大鷹は近くのテーブル席という、いつもの所定の位置に陣取っている。

 問題は、大鷹がさっき聞いた話を、マスター相手に話しているということで。

「……会長、思いっきり口外しちゃってるね」

「え? 別にいいだろ。マスター相手なんだし」

「……あー」

「いやいやいや、マスター、『あー』じゃないでしょう! そこ、ちゃんと言っておかないと駄目なところだから!」

 妹が立ち上がって抗議している。大鷹が話すのを止めもせずに黙って聞いていた自分たちも同罪だと思うが……。

「大丈夫だろー。マスターが黙ってたら、バレやしないって」

「うん。逆に言えば、僕が黙ってなかったら、会長は大変な目に遭うってことだけどね?」

「おい、やめろよッ!」

「うーん、やめるかどうかは、会長の心がけ次第かな? 大丈夫大丈夫。僕だって、親友を売るような真似はしないから、ね?」

 満面の笑みで、薄ら寒いことを口にするマスター。真っ黒だ。

「しかし、確かによく分からないよね……」

 カウンターに肘を突きながら、明日香が口を開く。今の下りはもう終わりらしい。この辺り、呼吸が合っている。

「何なのかな、ブタって――」

「ブタはブタだろ、うめェじゃん」

「うん。大鷹さんは黙ってて」にべもない。「新山さんが襲われた所にブタの毛が散らばってたって、さ――刑事さんも言ってたけど、ブタがそこら中ウロウロしてるって訳じゃないもんね。多分、まだ捕まってない二頭目の脱走ブタが関わってるんだろうけど……何で、あんな場所にいたんだろ?」

「さあ、どうだろうね」

 注文分のドリンクを作りながら、気のない返事をするマスター。あまり関心がないようだ。

「分かった! 分かったぞ!」

 一人賑やかなのは、もちろん大鷹だ。

「犯人は、ブタを使って新山さんを襲ったんだよ! 犬みたいに調教してさ、人を襲うように仕向けたんだ!」

「……そもそも、なんで新山さんはあんな所にいたんだろう……」

「無視!? 凄いなお前! 豪快に無視か!?」

 さすがの明日香もツッコミを放棄した模様。素なのかボケなのか分からない迷推理には付き合いきれない、ということだろうか。

「新山さん、本当に何も覚えてないんだって?」

 事が新山さんに関することだからか、コーヒー豆を補充しながら、マスターは一応の興味を示している。

「新山さんが全部覚えてたら、それで解決なんだけどね――でも、ホント分かんない。何であんな廃工場にいたんだろ?」

「犯人に呼び出されたのかも、って雫ちゃんは言ってたけどなー。まさか、ブタに呼び出されたって訳でもねェだろーしなー」

 間延びした声で大鷹が口を挟む。無視されたばかりだと言うのに、大したモノだ。強靱な精神力を持っているのかもしれない。

「雫ちゃんって呼ぶと、またあの人に怒られるよ?」

「いいんだよ。今も昔も雫ちゃんなんだから、構わねェだろ」

「でも、嫌がってるんだから……」

「てか、アイツ、オレに対してだけ冷たくね? あの時のこと、まだ根に持ってンのかなー」

「大鷹さんだけじゃないって。私たち全員に対してだよ。私なんて、いまだに名前で呼んでもらえないんだから」

「それは仕方ねェだろ……」

 何が仕方ないか分からないが、二人とも納得してしまっている。何だか、一人仲間はずれにされた気分だ。別にいいけども。

 明日香と大鷹、二人のトークが途切れたのを見計らって、ずっと気になってたことを尋ねる。

「ところで、礼子さんはどうなったの?」新山が襲われたと聞いて、マスターは当然、礼子に連絡を取った。電話口の彼女は、すでに警察から連絡が行っていたらしく、ひどくショックを受けていた、ということなのだが――「結局、お見舞いには行ったのかな?」

「行ったと思うよ。恋人なんだし」答えたのは明日香だった。

「てか、何でオレらと一緒に行かなかったんだろうな」

「そりゃ、ショックが大きかったんでしょ。色々あって消耗して、店を二連休するくらいだもん。休んで、気持ちを落ち着かせる時間くらいあったっていいと思うけど」

 実際は、コンビニの夜勤をやるくらいには復活している訳だが――そう言えば、何故喫茶店の方は休んでいるのだろう。やはり、完全には復活していない、ということなのだろうか。

 と、言うか。

 警察は、当然礼子をマークしているのだろう。新山の恋人なのだから、当然の話だ。最近、二人の仲がうまくいってないことも、捜査すれば簡単に分かってしまうことだ。

 だけど。だけれど。

 礼子が、新山を襲撃する訳がないと思う。

 確かに、この所二人の仲はギクシャクしていたようだが――それは、それだけの話だ。新山を殴る理由にはならない。なる訳がない。もっとも、警察がそう判断するかどうかは別の話で――だからこそ、彼女の挙動が気になるのだ。

「マスター、電話では礼子さん、どんな感じだったの?」

 明日香に向けていた視線を、カウンター正面に向ける。

 しかし。

「…………」

 マスターからの返答はない。

 眉間に皺を寄せ、目を伏せ、口に手を当てて、何やら真剣に考え込んでいる。礼子と直接話をしたのはマスターだけで、彼の口から礼子の様子は普通だったと、はっきり聞きたかったのだけど……。

「どうしたの?」

「…………」

 やはり、リアクションがない。

 なんだか、顔色も優れないように見える。

「――何か、思いついた?」

 笑いながら、カプチーノに口をつける明日香。さすがは兄妹。よく分かっている。

「マジか。おい、マスター、何か分かったのか?」

 大鷹がカウンターに身を乗り出す。

 ――今の遣り取りで、何が分かるってんだ?

 心の中で思った、その時。

「うるさいな……」

 マスターが、静かに口を開く。

「何度も言ってるでしょ。そういうのを調べるのは、警察の仕事。一連の事件に関して、僕は何も考えてないし、これから考えるつもりもない。会長も明日香も、それに健太も、余計なことを考えるのはやめた方がいいよ。警察の邪魔になるだけだから」

 ――今後、ウチの店で、二度と事件の話はしないで。

 誰とも視線を合わせずに、マスターはそう言う。あまりと言えばあまりなその文言に、おれたちは揃って絶句してしまう。

 今までは。

 明日香が暴走しても、大鷹が馬鹿なことを言っても、なんだかんだ言って、笑って許していたというのに……。

 もしかしたら。

 やはり、マスターは何か、真相に近いことを考えついたのではないだろうか。ある程度の真実が見えて――だからこそ、その真実に近づけまいと、こうして突き放した態度を取っているだけなのではないだろうか?

 そう思ったが、口には出来ない。

 そんな空気ではない。

 氷が溶けて薄くなったコーラを口にしながら、おれは途方に暮れてしまったのだった……。

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