第五章 1 宿木明日香
――どうにも落ち着かない。
何なのだろう。町も店も私も、口にしているこのカプチーノも、いつもと何一つ変わらないのに、どうにも据わりが悪い。
今日も今日とて、カウンターの隅に腰掛け、文庫本を開いてはいるが、その内容は全く頭に入ってこない。文章は頭に入らずに通り過ぎ、慌てて読み直すも、やはりそれは単語の連なりとしか認識されず、徒に上滑りしていく。
私は読書を諦め、首を回して店内を見渡してみる。マスターは店のパソコンで事務作業中。マリアは店内清掃を開始している。
礼子は、今日も休みだ。
今まで二日連続で休んだことなどなかっただけに、少し心配だ。
少し前までは混み合っていた店内も、今はすっかり閑散としている。客は、私と大鷹の二人だけ。すでに店の内装品の一部になりつつある大鷹に目を向けると、向こうもこちらを見ていた。
「……何よ」
尖らせたつもりだったが、何だか張りのない声が出てしまった。多分、疲れている。
「お前って、いつも本読んでるよな」
弛緩した表情で、そんなことを聞いてくる。こちらは通所運転。
「それが?」
「何読んでるンだ?」
「今読んでるのは、SF。パラレルモノの、ね」
「パラレルモノ?」
「パラレルワールド。並行世界とも言うね」
「あ、知ってるぞ。あれだろ? タイムトラベルで過去に飛んで、何かの影響で未来変えちまって、それで今とは少し違う世界が生まれちまうってヤツだろ?」
「へぇ……大雑把だけど、だいたい合ってる。よく知ってたわね」
「バック・トゥ・ザ・フューチャーで覚えた」
また、古い映画を……。
「ああでも、私が読んでるヤツは少し違うかな」
「今、だいたい合ってるって言ったじゃねェか」
「うん、大鷹さんが言ったのも確かにパラレルワールドだけど、それとはちょっと違うのね。パラレルワールドってのは、タイムトラベルモノの専売特許って訳じゃあないの。『今私たちが生きている現実世界とは別の現実世界が存在する』ってモチーフの物語は昔からたくさんある。いわゆる、『IF』ってヤツね。同じ時間軸で人物や世界観も酷似しているけど、何か決定的な『何か』が違う世界――登場人物がそれを自覚していることもあるし、そうでない場合もある。多くの場合、私たちの世界とのギャップを描いたり、或いはお互いの世界を行き来することで、物語を成立させている。そもそも、量子力学の世界でも、エヴェレットの多世界解釈とかあるんだけど――」
「マスター、あの通り魔って、ホントにブタが犯人なのか?」
「無視!?」思わず立ち上がっていた。「ちょっとッ! 人の話無視して、勝手に話題変えないでよッ!」
「いやー、お前の話はもういいよ……。長いし、難しいから」
「アンタが振った話題でしょうが……ッ!」
大鷹の、あまりにも幼稚で身勝手な言動に、私は心の中で呪詛の言葉を送る。畜生道へ、落ちろ。
「そんで、どうなんだよ。昨日、新山さんたちと飲んだんだろ?」
「んー、まあね」パソコンから顔を上げて、マスターは答える。
そう言えば、昨夜はだいぶ帰りが遅かったようだ。
事件のこともあるし、昨日の礼子との一件もある。飲みの席でどんな話をしたか聞きだしたい衝動に駆られたが、男同士の付き合いもあるだろうし、さすがに自重しておいた。
だから、ブタに関する新山の見解も、これが初耳だ。
「うん。ブタが人間を傷つけるってことは、決して稀な出来事じゃないみたいだね」
昨夜聞いたという、ブタに関するいくつかの事例を、マスターは分かりやすく紹介する。
「……ブタって、けっこう凶暴な動物なんだなァ……」
大鷹が、間延びした口調で感想を漏らす。
「別に、ブタ自体が凶暴な訳ではありませんよ」
冷たく、乾いた声が店内に響く。
誰が言ったのかと声のした方を振り返ると――そこには、モップを手にしたマリアが立っていた。
「え、マリア、さん……?」普段とのギャップに、私は息を飲む。
光のない、濃い隅の出来た目を伏せて、マリアは話を続ける。
「ブタは本来、非常に賢く、温厚で、清潔好きな動物です。それを、狭くて不衛生な場所に押し込めるから、ストレスが溜まるんです。しかも、病気にならないように餌に薬を混ぜたりして――頭の働きが鈍くなるのも当然です。凶暴化したのも、住民が襲われたのも、そのしっぺ返しを食らっただけなんじゃないですか。全ては、人間側の自業自得ですよ」
「…………」
私も大鷹も、そしてマスターまでもが、皆絶句していた。
論旨自体は、反ブタ食の人間がよく言うことで、さほど目新しい訳ではなかったが――まさかそれを、マリアが口にするだなんて。口調は冷たく乾いていて、目は伏し目がち。普段の、オーバーリアクションでハイテンションなマリアの姿は微塵も感じられない。
この人は――誰だ。
「えっと、マリアさん……?」不安になって、思わず声をかける。「どうしちゃったんですか……?」
「あ――」
そこで初めて、他の人間が唖然としているのに気付いたらしい。顔を上げたマリアの目には、すでに光が戻っていた。
「申し訳ありませんッ! 一人でべらべらと――出過ぎた真似をしましたッ! 正式に謝罪しますッ!」
言いながら、膝と両手を床につけるマリア。
ジャパニーズ土下座スタイルだ。
「いいですいいですッ! やめてくださいッ! 別に出過ぎた真似でもないし、正式な謝罪イコール土下座って訳でもないしッ!」
「でも、気分を害されたのでは……?」
「いやァ、そのくらい別に何とも思わねェよ。ただ、少しビックリしただけで」
大鷹も私と同意見だったようだ。大きな目をさらに見開いている。
「マリアちゃん、やっぱり反ブタ食主義者だったんだねー」
パソコンの前で頬杖をつきながら、マスターが言う。
「え、やっぱり、って……」
「薄々、そうじゃないかとは思ってたんだ。帰っていく新山さんを睨み付けてたこともあったし、シミュレーションの時も終始テンションが低かったし……」
「そんなこと――」
「別にいいんだよ? 主義や思想なんて人それぞれだし、それをどうこう言う権利なんて、例え雇い主だってある訳じゃないからね? マリアちゃん、今まではそういう類の発言すら我慢してたみたいだけど――僕らの前でくらい、思ったこと言っていいんだよ?」
「……申し訳ありません……。ワタシ、本当にこの店では大人しくしているつもりだったのに……最近ちょっと、疲れていて……」
額に手を当て、深い溜息を吐く。確かに、疲労が溜まっているように見える。
「だからいいんだってば。それより、もっと詳しく教えてよ。マリアちゃんがなんで反ブタ食主義者になったのか――本国では何をしていたのか、とかさ」
「……それは……」
目が泳ぎ始める。動揺しているらしい。
「もちろん、マリアちゃんが嫌なら、無理には聞かないけどね」
強制じゃないことを匂わせつつも、喋らざるを得ない空気を作る――マスターがいつも使う手だ。
「……ワタシの国の人間で、ブタ食反対じゃない人間は、ほとんどいないと思いますよ……」
再び目を伏せ、ローテンションな口調で語り始める。
しかし、目には光が宿ったままだ。
そこには、何かしらの覚悟が見て取れる気がした。
「子供の頃から、そういう教育を受けて育ったんです。日本のことが好きでも、ブタ食だけは許せないって人も、たくさん知ってます」
そう言えば、最近は各国の大使館の前でブタ食反対のデモ行進が行われていると、連日報道されている。世界規模のムーブメントに発展している、ということだろうか。
「守護者の人たちも、ワタシは完全に否定することができません。主義主張は間違ってないと思うからです。……ただ、やり方が間違っているだけで」
マリアも守護者も、同じ国の出身だ。世界規模でムーブメントが起きているのだとしたら、やはり、扇動しているのはかの大国なのだろうか。今更、特にどうとも思わないが。
「マリアちゃんは、向こうで何か活動とかしてたのか?」
いつにない真剣な口調で、大鷹が聞く。さっきまで弛緩していた表情も、随分引き締まって見える。やはり、ブタに関する話題には関心が強いのだろう。
「色々と勉強はしましたけど、活動というようなことは――ワタシ、正直、そういうのには辟易してて……」
外国人には難しいであろう表現をさらりと使うマリア。
「辟易って? 何かあったのかな?」
マスターの問いに、マリアは唇を指で弄りながら、あれこれ思案している。変わらず目には理知的な光が宿っているが、逆に、いつもの元気さや快活さ、ある種の馬鹿っぽさは感じられない。恐らく、これが素のマリア・ヨークで、私たちが目にしていたのは、彼女の演じるキャラだったのだろう。
数秒か、数十秒経って。
マリアは、ついに重い口を開く。
「……少し、長くなりますけど、いいですか?」
「もちろん。閉店時間までは、まだたっぷりある」
マスターの軽口を受け、マリアは僅かに視線を上げる。
「皆さん、ポーラ・スチュアートという女性をご存知ですか?」
英語圏の名前だ。女優、歌手、スポーツ選手――頭の中で検索をかけるが、生憎と一件もヒットしなかった。
「守護者の創設者で、ブタ食反対の母と呼ばれている人物だね。元々は日本で英語教師として働いてたみたいだけど、十五年くらい前から本格的に活動を始めている。著作も多いし、講演会を行ったこともあるみたい。すでに故人だけどね」
「オメェは何でも知ってンなァ……」
「ううん」パソコンを示すマスター。「今、ネットで調べただけ」
「つまり、それだけ有名な人ってこと?」
「ある意味、そうみたいですね。守護者の人達からは『グランマ』と呼ばれて親しまれているみたいです」
溜息混じりに、マリアは私の質問に答える。
「だけど、守護者の創設者というのは誤解です。彼女は、利用され、担ぎ上げられただけにすぎません。理知的で穏和な彼女が、あんな、馬鹿げた破壊行動を許すわけありませんから」
声のトーンは抑えられているが、その言葉からは何某かの怒りや悔しさが滲んでいるような気がする。
「……マリアさん、随分詳しいんですね」
「ワタシの――祖母なんです」
「…………」二度目の絶句。この告白に対して、私たちは何も返すことができない。
「十歳の頃、貿易商をしていた両親が事故死して、ワタシはこの町に住む祖母の所に引き取られました。親しい親類は、もう祖母しか残されていなかったんです。地元の友達と別れるのは辛かったけど――その一方で、楽しみでもあったのは確かです。優しくて何でも知っているおばあちゃんが、ワタシは大好きだったんです。それに、この町のこともすぐ気に入りました。当時、外国人はまだ珍しくて、なかなか友達はできなかったけど――それでもワタシは、この町が好きだったんです」
マリアの口調がだんだん熱を帯びてくる。皆、話の着地点がどこなのか分からないまま、黙って聞いている。
「何かおかしいと感じ始めたのは、引き取られて一ヶ月くらい経った頃でした。頻繁に出掛けたり、知らない大人の人を家に招いたり――今思えば、その頃から本格的に反ブタ食活動を行っていたような気がします。ワタシだけのおばあちゃんが誰かに取られるみたいで、淋しい思いをしていたのを覚えています」
守護者たちから『グランマ』と呼ばれて親しまれている彼女も、マリアにとっては一人の祖母でしかなかったという訳だ。
「彼女の、ブタ食に対する怒り、憎しみは徹底していました。そもそも、彼女は元々東京近郊に住んでいたんです。それをわざわざ、この町に居を移したのは――この地域で一番大きな食肉センターがあったからに他なりません。彼女はあの、高い城のようにそびえる食肉センターを仮想敵と見なして、精力的に活動していたんです。その影響は、少なからずワタシにも降りかかりました。ブタ肉を口にすることは、当然禁じられました。牛や鶏など、ブタ以外の流通量が少ないこの町では、それは予想以上に大変なことです。ハンバーグなどの合い挽き肉や加工肉も許されないんです。間違ってブタ食品を口に入れそうになった時には、烈火のごとく叱られました。いつも優しいおばあちゃんが、その時は赤鬼みたいで怖かったのが印象に残っています」
そんな祖母の影響下で育ったからこそ、マリアも同様にブタ食を憎んでいるのだろう。肉屋の新山も――ブタを大量に食らう、大鷹のような男のことも。
「家でブタを飼い始めたのも、その頃です。どこで手に入れたのか、いつの間にかリビングスペースにブタが横たわっていて――座敷犬と同じような感覚で、伸び伸びと育てている、という感じでした」
「でも、野ブタなんていないですよね?」話を止めてまで、聞いてしまう。細かいことが気になる性分なのだ。「と言うことは――」
「……ええ。恐らく、どこかから逃げ出したブタを拾って、無断で飼い始めたんだと思います」
「いいんですか? そんなことして」
「法的には知りません。だけど――あの時のおばあちゃんは、自分こそが正義だと思ってましたから……。人間と同じ居住空間で、人間と同じモノを食べさせるというのが、理想の一つで――きっとそれを実践したかったんでしょうね」
どこか冷めた口調で、マリアはそう言う。子供心に、祖母の現実離れした理想主義に呆れていたのかもしれない。
「祖母の活動は、日を追うごとに激しさを増しているように見えました。ほとんどワタシには構わなくなり、彼女曰く『同志』らしい大人達とばかり一緒にいるようになりました。その『同志』が今の守護者幹部の連中だと知ったのは、高校を卒業して本国に戻って、地元の大学に通い始めた辺りでした。その頃のワタシは、祖母から完全に心が離れていて――守護者と呼ばれる組織がよくない集団だと聞いても、大して興味を示しませんでした。興味を持つようになったのは、祖母が心筋梗塞で亡くなってからです。祖母の存命中は大人しくしていた彼らは、彼女の死後、本性を現したかのように過激な行動に走るようになりました。祖母が生きていたら絶対に許さなかっただろう、暴力的な所行ばかりです。ワタシは――何だか、祖母の死を馬鹿にされた気がしました。どうにかして、彼らの愚行を食い止めたかった。それで――ワタシは、勉強をして、お金を貯めて、この町に戻ってきました。ワタシ一人じゃ何も出来ないことは分かっていたけど、でも――」
――祖母の意志を継ぐのは、ワタシしかいないと思ったので。
目を閉じて、マリアは長い長い話を終える。話疲れているようだが、その顔は前と比べものにならないほど、晴れ晴れとしているように見えた。
「――以上が、ワタシがブタ食を嫌悪し、反ブタ食活動に辟易し、そしてこの国に戻ってくることになった理由です。ご静聴ありがとうございましたッ!」
ペコリと大きく最敬礼。講演会か。だけど、拍手の一つでもしたくなったのも事実。この人はこの人で、色々と背負っているのだ。
「何か、ゴメンな」人差し指で頬を掻きながら、大鷹が口を開く。「マリアちゃんがそんな境遇にあるって知らねェからさ……オレ、バカにたいにブタ食いまくっちまって……」
「あああッ! 全然ッ! 全然いいんですよッ! 確かにワタシは反ブタ食主義者だし、今後ブタ肉を口にすることもないと思いますけど――だからって、それを人に押しつけたりしませんからッ! むしろワタシは、ヒステリックに反ブタ食主義を叫んだり、暴力的な行為に訴える人たちの方が許せないって立場なんで……」
なかなか複雑である。それにしても、
「マリアさん、本気で守護者をどうにかするつもりなんですか?」
「……今は、まだ無理ですけどね。差し当たっては、色々と勉強したり、調べたりしているところです。もっと力をつけて、人脈も持てるようになったら、その時は必ず――」
握った右手をマリアが掲げるのと、店のドアが乱暴に開けられたのは、ほぼ同時だった。見れば、店のエプロンを身に纏った健太が携帯を片手に、血相を変えて駆け込んでくる。
「た、大変だッ!」
「何よ騒がしいわね。また事件でもあったの?」
「ニュースだよッ! ニュースッ!」
私の言葉など無視して、携帯を突き出す。液晶画面には、ワンセグで受信したらしいニュース映像が流れている。
「どうしたの、何のニュースよ?」
「見りゃ分かるだろッ!」携帯を突きだしたまま、健太は怒鳴る。
「例のブタが見つかったんだよッ!」