第四章 3 松岡健太
「ブタぁ!?」
白井の甲高い声が、店に響く。
「おいおいおいおい、じゃあ何かい? 通り魔の正体は、ブタだったってのかい!?」
「何日か前に、食肉センターからブタが脱走する騒ぎがあったでしょう。その内の一頭なんじゃないかって話です」
ウーロン杯のグラスを傾けながら、マスターが話す。当然ながら、今は客なので、ジーンズにネルシャツという、カジュアルな格好をしている。客なのにマスターと呼ぶのもおかしな話だ。
「え、でも――ブタでしょ? その通り魔事件って確か、殴られて殺されたんじゃなかったっけ?」マスターの横顔を見ながら、おれは尋ねる。「ブタにそんなことができる?」
「できないことは、ないんじゃないか」
マスターとは逆側に座る新山が、落ち着いた口調で答える。
「決してない話じゃない。飼ってたブタに突っ込まれて腰の骨折ったとか、太股の動脈切られて大量出血したとか――けっこう昔まで遡れば、そういう事故は割とあるんだよ」
さすがはブタの専門家。よく知っている。
「ただ、近代化された最近の厩舎では、あんまり聞かなくなったけどなあ」
しかし、本間刑事の話によると、警察は脱走ブタの一頭を通り魔として特定しているらしい。実際に、警察発表も行われている。
また、ブタか。
ブタ捕獲用の穴に落ちて女子中学生が死んだり、その死体だと疑われたモノがただのブタ肉だったり、かと思えば、通り魔の正体が脱走したブタだったり――ここ数日、身の回りで起きている事件は、一から十までブタ尽くしだ。町の中心に食肉センターを据えている呉藍町らしいと言えば、らしいのだが……。
おれはどこか釈然としないモノを感じながら、つまみのチャーシューを口に放り込んだのだった。
休み明けの今日は、朝から晩までよく働いた。
新山から飲みに誘われたのは、ちょうど全ての納品配達が終わった時だった。そう言えば、新山の店でそんな話をしたような気もするが――まさか、昨日の今日で、もう誘われるとは。正直言えば、連日の疲れがとれていなくて、今日は家でゆっくり休みたかったのだけど……どこか思い詰めたような新山の顔を見ると、無下に断る訳にもいかなかった。結局、閉店後にマスターも誘って、三人で飲むことになる。
場所は、毎度お馴染み、路地の入り口に位置する居酒屋『ほわいときっちん』である。店主の白井は商店主組合の会長でもあり、二十代、三十代の若手店主である三人は、日頃から何かと世話を焼いてもらっている。
平日の夜は、店の入りもそこそこで、テーブル席は全て埋まっていた。仕方なく三人はカウンターに並んで腰をかけ、各々適当に注文を済ます。最初は、生ビールを流し込みながら、取り留めのない話で盛り上がっていた。しかし、考えてみれば三人はほぼ毎日顔を合わせている訳で――今更、つもる話などある筈もない。
自然、話題は事件に関する方向へと向かっていく。
その流れで、通り魔事件の話にもなったのだが――まさか、ブタが犯人だったなんて。
「そういやァ、何かおかしな連中がこの辺ウロウロしてんな、とは思ってたんだよなァ」
カウンターの向こう、焼き台の串を回しながら、白井が話に入る。
「長細いバッグ背負ってさ――ありゃ、多分猟銃だな。他にも、警棒だの刺又だの提げてて、えらい物々しかったなァ」
「警察――じゃないよね。食肉センターの人間かな」
「正確には、食肉センターが委託している捕獲業者だな」
新山が問いに答えてくれる。
「ブタが脱走した時、迅速に捕獲するっていう契約を結んでいる。もちろん、脱走なんてのはあってはならないことであって、業者との契約はあくまで保険だった筈なんだけど……まさか、本格的に動き出すとはな……」
どこか他人事のように呟きながら、新山は梅酒ロックをあおる。
「でも、警察は警察で、ブタ捕獲のために人員割いてるみたいだね」
ウーロン杯を僅かに口に含んで、マスターが続ける。
「こんなの警察の仕事じゃないって、本間刑事もぼやいてたよ。まあ、警察が捕まえたところで、食肉センターに引き渡さなきゃいけない訳だし、ぼやく気持ちも分かるけどね」
捕獲業者と警察――案外、早く掴まりそうな気もする。
「この町で三つ巴の争いが起きるってことだね……。物騒なことにならなきゃいいけど」
枝豆を摘みながら、マスターがよく分からないことを言い出す。
「三つ巴? ブタと、業者と、警察の、か?」
新山も同様だったらしく、頭の上に大きなクエスチョンマークを浮かべている。
「そうじゃないよ」マスターは答える。「守護者のことさ」
守護者――家畜動物の解放を謳う、環境保護団体の名だ。
ブタを脱走させたり、農場や厩舎を爆破したりと、過激な行動で連日報道を賑わせていて、環境保護団体ではなく、環境テロリストではないかとも言われている。実際、メンバーの何人かは国際指名手配を受けているという話だ。
「アイツらが何で関わってくるんだよ」
面白くなさそうな顔で新山が言う。実際、面白くないに違いない。肉屋の新山にとって、奴らは目の敵なのだろう。
「あの人達は、ブタの解放を主な活動としているんだよね? 例の脱走騒ぎも彼らの仕業じゃないかって、噂が立ったくらいだ。結局違ったみたいだけど――だけどさ、原因はどうあれ、実際にブタは脱走してる訳だよ。センターの外に、いるんだ。……彼らが黙っているとは思えないんだよねえ」
「守護者の連中が、奪還に乗り出すってのか?」
「奪還、って言い方は語弊があるけどね。元々、彼らのブタではないんだから。でもまあ、大人しく警察や業者に渡すつもりはないんじゃないかなぁ」
間延びしているが、どこか確信しているような口ぶりである。
「ったく、通り魔なんかより、そっちを早く捕まえろってんだよな」
舌打ち混じりに、新山が吐き捨てる。
――相当、頭にきてるんだろうな。
そんな風に、思う。
「各地で厩舎が被害に遭ってるだろ? おかげでブタの仕入れ値が高騰してんだよ。そりゃ、頭にも来るだろっての」
期せずして、新山とシンクロしてしまう。
「新山さんの店って、ブタ専門店みたいなものだもんね」
「専門店って訳じゃねえよ。総菜も売ってるし。でもまあ、牛とか鶏とか、ほとんど扱ってないのは、確かだな」
新しい梅酒ロックに口を付けながら、新山は頷く。
とは言え、ブタ肉が主流なのは、新山の店に限ったことではない。
ここは呉藍町――ブタで発展した町なのだ。
肉と言えば、ブタなのである。
しかし、守護者の暗躍により、ブタ業界が苦境に立たされているのもまた、事実のようである。理不尽な話だが。
「だから、そろそろ牛や鶏に鞍替えする潮時かなー、とか思ったりしてる訳よ、俺としては」
どこか愛嬌のある言い回しで、新山はそんなことを言う。
「でも、新山さんってブタの専門家じゃないんですか?」
「専門家じゃねえよ。昔、センターで何年か研修したってだけ」
いやいやいや、ブタ一匹を丸ごと解体できるのなら、それはもう立派な専門家だと思うが……。
「一応、俺なりに勉強もしてるんだぞ?」
言いながら、尻ポケットから丸めた雑誌を取り出し、パンパンと叩いて示す。
雑誌のタイトルは、『NIKUJU』。
「……何ソレ」
「見りゃ分かるだろ。牛肉の専門誌だよ。コアなファン向けの雑誌だから、肉屋の俺が読んでも割と勉強になる」
牛肉の専門誌って、マニアックすぎるだろう。表紙を見ると様々な特集記事が組まれているらしく、それに興味を持ったマスターと白井が、口々に質問を投げかけている。それを受けた新山が、『特有の獣臭さ、乳臭さのない雌牛未経産牛がいい』だの『兵庫県の但馬牛のモノが、かの有名な松坂牛』だの、色々と語ってくれているのだが――正直、普段ブタ肉くらいしか口にしないおれには、殆ど意味が分からない。仕方がないので、牛肉トークで盛り上がる三人を尻目に、シシャモを囓りながら全く別のことを考えていた。
「……何、考えているの?」
突然、マスターに顔を覗き込まれる。
「いや、別に……」何も疚しいことなどないのに、何故か焦ってしまう。「シシャモ、美味いなと思って……」
結果、訳の分からないことを言ってしまう。
「ああ、シシャモ美味しいよね。さすがは本場だ」
おれと同様にシシャモを囓り、調子を合わせる。
「マスター、言っとくけどそれ、本物のシシャモじゃねえゾ?」
「……え?」
白井が不思議なことを言い出す。シシャモに、本物や偽物があるのだろうか。
「それ、市場には『シシャモ』って言って出回ってるけど、正体は『カラフトシシャモ』って名前の別物ダヨ。他にも『キュウリウオ』って魚が代替品となることも多い。どっちにせよ、本物のシシャモなんざ、今は貴重で、ほとんど食卓にあがることなんてないのサ」
そうなのか。
だから何だ、と言えばそれまでの雑学だが。
「――で、健太、本当は何を考えていたの?」
二つ目のシシャモ――否、カラフトシシャモを囓りながら、尚もマスターが聞いてくる。しつこい。
「事件のことを、色々と考えてただけだよ」
「ああ、そう言えば、元々はそういう話題だったねー。すっかり忘れてた。どこで脱線しちゃったんだろうね」
誰かが守護者の話をし始めた辺りだったように記憶しているが、それを言っても仕方がないので、黙っていた。
「通り魔の正体がブタと目されているって所までは話したっけ?」
「それは聞いた。でさ、マスター、一つ気になったんだけど――」
この機に乗じて、おれはずっと気になってたことを口にする。
「昨日の事件も、そのブタの仕業ってことなのかな?」
「うん? あの女の子は、通り魔の三人目の被害者ってこと?」
「この短期間に、しかもこんな近い場所で、人が死ぬ事件が起きてるんだよ? 全部外で起きたことだし――繋がってる、って思うのが自然なんじゃないの?」
「そうだね。多分、警察も同じことを考えてると思うよ」
「じゃあ、やっぱり――」
「ただし」人の言葉を遮って、マスターは言葉を継ぐ。「仮にそうだとしても、謎は残るよ。ブタは三メートルの塀なんて飛び越せないし、白井さんたちの目をかいくぐることもできない。……白井さんたち、逃げるブタなんて目撃してないですよね?」
「見てりゃ、そう話してるヨ」
洗い物をしながら、白井はもっともな答えを返す。
「仮に現場から消えるのに成功したとしても、やっぱり、死体消失の謎は残る。あの死体は、どこへ消えたのか――」
「つまり、犯人がブタでも人間でも、大して変わらないってこと?」
「そういうこと。ブタが喋れて、何もかも自白してくれるって言うんなら話は別だけどね。そもそも、昨日の一件が通り魔の仕業って決まった訳ではないし――」
「マスターは、違うと思ってる訳?」
「……前にも言ったと思うけど、この件に関して、僕は何も考えてないし、考えるつもりもないよ」
いやいやいやいやいや。
「今さら、それはないんじゃないの!? ここまで、散々色んな意見口にしてきたんだしさ」
「それは、健太や明日香や会長が色々と言うからさ。僕としては、明らかに間違った意見をそのままにしておく訳にはいかないから、訂正するのも、やぶさかではないってことさ。ただ、僕発信で何か新しい考えを言うことは、ない。それは警察の仕事だからね」
何だかうまいことお茶を濁された気もするが……。
「それはそうだよ。二時間ドラマじゃあるまいし、警察に分からないことが、ちょっと小賢しいくらいの、喫茶店のマスターごときに分かるわけがないでしょう? 明日香は、その辺りをわきまえてないんだよね……」
愚痴るように言いながら、グビリ、とウーロンハイを飲み干す。
「近所で立て続けにこんなことが起きて、平常心でいられない気持ちは分かるけどね。明日香も会長も、きっと、浮き足立ってるだけなんだと思う。マリアちゃんもすっかり動揺しちゃってるし――」
――礼子ちゃんも、随分と疲れている。
独りごちるように言われた言葉なのに、妙に胸に残る。
恐らくそれは、おれに対して向けられたモノではない。
さっきから横で黙りこくっている新山に対する台詞だ。
「……礼子ちゃん、店休んだんだよね。昨日のショックが、尾を引いているらしい。あんなに間近で人が死んでるのを見たんだから、無理もないと思うけど――ただ、僕には別の理由もあるように思えてならない」
「別の理由――って?」
「さてねえ。それは、新山さんに聞いた方がいいじゃないかな?」
「…………」
「新山さん、今日はそれを相談するつもりだったんじゃないの? もちろん、言いたくないなら無理に、とは言わないけど……」
この人は何でもお見通しだ。
しばし、無言の時間が流れる。
その間に、おれとマスターは新しい飲み物を注文し、新山がそれに続く。空気を読んだ白井は、黙って数点のつまみをカウンターに置いていく。
「新山さん……」
心配になって、彼の横顔を見る。
「……いや……あの、さ……」
ぽつりぽつり、といった感じで新山は語り始める。
「……アイツの考えていることが、分からなくなったんだ」
「アイツっていうのは、礼子さんのこと?」
「そう――昨日、健太に話したの、覚えてるよな? 俺たちが付き合ってるってこと」
「ああ、うん……」当然、覚えている。
「健太が帰ったあと、アイツから電話がかかってきたんだけど――そこで、大喧嘩になっちまってさ」
「何で?」
「……分からない。アイツが何を怒ってるのか、俺には……」
「原因を聞いても、いい? 礼子ちゃんが怒り出した、原因を」
柔らかい、落ち着いた口調で、マスターが尋ねる。
「それは――ちょっと、勘弁してくれ。俺じゃなくて、礼子の名誉に関わることだから……」
激しく気になったが、そこで追及する程、おれも下衆ではない。
「最初に言った通り、新山さんが言いたくないなら、僕もこれ以上は聞かないけどね」
「悪いな。……とにかく問題は、アイツが何をそんなに怒っているのか、俺が理解できていないってところにあるんだと思う。俺には俺の考えがあるんだけど、どうも、それは受け入れられないらしい」
「ちゃんと話し合った方がいいんじゃないの?」
凡庸と思いつつ、そんな一般論を口にしてしまう。
「もちろん話し合った。だけど、何て言うか、話が噛み合ってないと言うか、根本的にお互いの意見が理解できていないと言うか――」
「すれ違い?」もどかしくて、再び口を出す。
「――に、なるのかな。今まで、こんな風に喧嘩なんてしたことなかったし、うまくやっていけてると思ってたんだけど――結局、相手のことを理解したつもりになってただけなんかな……」
淋しそうな顔をして、目の前のグラスを飲み干す新山。随分と、ピッチが早い。すでに顔は真っ赤だ。
「他人を完全に理解することなんて、不可能だよ」
小さな、だけど力強い声で、マスターが言う。
「親友だって恋人だって、血の繋がった家族だって、結局のところ、何も分かってないんだよね。それを、あたかも分かった気になって、お互いに帳尻合わせて、妥協点を見つけて生きてる。言葉なんて、皆が思ってるほど力がある訳じゃない。伝えたって伝わらないし、通じ合ってると思ってるなら、それは錯覚だ。完全に理解できてると思うのは、傲慢ってものじゃないかな」
「ちょっと、マスター……」
――ここで、そんなシニカルな話をされても。
そう思って、マスターを止めようとしたのだが、逆に手で制されてしまう。まだ続きがあるらしい。
「だけど、伝えても伝わらないって言うのと、最初から伝える努力をしないってのは、別だよね? 必ず、落とし所はある筈なんだ。だから、せめてお互いが納得するまで、言葉を交わしてみたらどうだろう?」
結局、話し合ってみろ、ということではないか。回りくどい言い方をしているが、内容はおれが言ったのと大差ないように思える。
……いや、その回りくどさこそが、肝要なのだろうか。
現に、新山は神妙な顔つきをして頷いている訳だし。
「やっぱり、そうだよな……」
「僕が見たところ、新山さんと礼子ちゃんって、似たものカップルなんだと思うな。人が良くて真面目なんだけど、自己主張が下手で誤解を生みやすい。相手を思いやるばかりに変に遠慮しちゃって、逆に溝を生んでしまう――それって、凄く損な気がするんだよね。一度さ、思い切って本音をぶつけてみればいいんじゃない? あまり無責任なことは言えないけど、案外それでうまくいくかもしれないよ?」
確かに、そんなものかもしれない。悩んだって答えは出てこないけど、その解決法は、往々にしてシンプルにできているものなのだ。
しかし、思わぬところから反対意見があがる。
「いやー、マスターみたいに口が上手ければいいけどよォ」白井だ。
「新山チャン、口下手だし、逆に話こじらせちまうんじゃねェか?」
「話し合いは無駄ってことですか?」
「無駄とまでは言わねェけどさ――女なんてなァ、感情的な生き物だからヨ、一度頭に血が上ったら、こっちの言うことなんざ聞きゃしねェぜ? 新山チャン、女の扱い下手そうだもんなァ」
ナチュラルに失礼なことを言っている。もちろん、新山とて三十を越している訳だし、過去交際した女性は何人かいたようだが……。
「……そうなんですよね。俺はいつも、それで失敗するんですよ。『仕事と私とどっちが大事なの』とか『新山さんって何考えてるか分からない』とか言われて……」
何て古典的な。
「女ってのは、コミュニケーションで生きてるからナ。かと言って、下手に言葉選んでも逆効果だ」
「じゃあ、どうするんです?」
いつの間にか、白井が相談相手になっている。マスターも、ここは白井に任せた方がよさそうだと判断して、敢えて黙っている。
「言葉を選ぶのが下手なら、行動で見せるしかねェべ。喧嘩の原因、ある程度分かってンだろ? だったら、その原因を取り除くなり、誤解を解くなりっつー行動をするべきだろうヨ。俺ァ学がねェから難しいことは分からねェけどヨ、そういうのが誠意ってんじゃねェのかな。誠意見せれば、ちったぁ溝も埋まると思うぜ」
言い方は雑だったが、白井の言いたいことはよく分かった。
つまり、マスターが『言葉』を交わせ、と言っているのに対し、白井は『行動』で誠意を示せ、と言っているのだ。
「行動、か……」思案する新山。「……そうですね。やるだけ、やってみます」
「おう、やってみろやってみろ。それでうまくいかなかったら、また相談に乗ってやるよ」
調子のいい仕切り屋のオヤジだと思っていた白井が、まさかこんな助言をするだなんて。少し見直した。
「うまくいったその後は、男と女の『行動』が待ってる訳だしな」
ヒヒヒ、と下卑た笑いを漏らす白井。エロオヤジ全開だ。見直した一瞬を、返してほしい。
「男と女の、って――」
「分かるだろォ? 新山チャンたち、若いんだから。仲直りした暁には、やりまくりなんだろ?」
誰かこのオッサンを止めてくれ。
「いや……俺たちはまだ……」
「え!? まだやってないのかい!?」
白井の甲高い声が店に響く。
「……白井さん、声がデカいです」
新山が諫める。しかし、驚いたのは白井だけではない。おれも同様だ。マスターだけは、相変わらず苦笑を続けている。
「お前らまで何だよ。そんなにおかしいか?」
「おかしくはないけど、さ……」
何と言っていいか分からず、口籠もってしまう。
「いや、おかしいだろうがよ。健康な若い男が、付き合って半年になる彼女に何にもしないなんて、ちょっと異常だぜ!? ゲイか!? インポか!?」
滅茶苦茶言っている。
だけど、おれも内心おかしいと感じていた。いい歳をした大人が、プラトニックな関係のまま交際を続けられるものなのだろうか。
「いや、そりゃあ俺だって、スケベ心はありますよ? 男ですから。実際、そういう雰囲気になったことも、何度かあったし……」
「けど、結局ヤってねェ訳だろ?」
「あの――何つーか、彼女、今まで男と付き合ったことないらしいんですよ。だから――」
「処女ってことかい!?」
「……声がデカいって言ってんでしょうが……」
珍しく、新山が苛ついている。誰か、この居酒屋のオヤジにデリカシーというものを分け与えてはくれないだろうか。
「……まあ、そういうことで……俺、彼女とは遊びで付き合ってる訳じゃないって言うか、本気で将来のこと考えてるって言うか――その、できるだけ大切にしたいと考えているんで……」
若干照れながら、驚くほど真っ直ぐな台詞を吐く新山。聞いてるこっちが気恥ずかしくなる。恋愛と結婚どころか、恋愛とセックスまでもが切り離されるこのご時世に、何とも真面目なことだ。
「いいじゃねェか。ヤっちゃえよ。押し倒しちゃえ。新山チャンが最初の男になってやればいいじゃねェか。喰っちゃえ喰っちゃえ」
無責任に下品なことを言っている。
さっきは随分と親身になって相談に乗っていたと言うのに、話が下世話になった途端、この体たらくだ。新山がそれらの言葉を受け流しているのが、幸いと言えば幸いだが。
どうするべきかとマスターの方を見ると、彼もまた、肩を竦めて苦笑いしているだけなのだった。
その後も下らない話で盛り上がり、解散したのはそれから二時間も経ってからだった。すでに日付は変わっている。外は熱帯夜だ。三人とも相当に酔っていたが、家はすぐ近くだ。這っても行ける距離である。
若干覚束ない足取りの新山と、あまり変わらないマスターの背中を見送りながら、おれは踵を返す。自宅も当然同じ方向だが、帰る前に町のコンビニでドリンクを買っておきたかった。このまま寝たのでは、明日は二日酔い決定だからだ。
コンビニは駅の南側にある。住宅街や商店街、学校や食肉センターなどのある北側と違い、海沿いの南側はそのほとんどが工場地帯となっている。深夜まで稼働している工場も多いが、人通りはほとんどと言っていい程なく、そんな中で煌々と明かりを灯しているコンビニは、ある種異様な雰囲気を醸し出している。
もっとも、おれは常連客だから、そんなこと全く気にならない。
求めるドリンクは、店に入ってすぐの棚にある。いつも飲んでいるウコン入りドリンクを手に取り、レジに並ぶ。
こんな時間だと言うのに、レジには別の客が並んでいた。作業服を着ているところからすると、恐らく夜勤の人間なのだろう。
待っている間に財布を取り出し、千円札を抜き出しておく。
「お待たせ致しました。次のお客様――」
カウンターに商品と千円札を置く――が、様子がおかしい。
店員が固まっている。
顔を上げると、女性店員とまともに目があった。
「松岡、さん……」
そこには、コンビニの制服に身を包んだ、高崎礼子が立っていた。
「え、れい、え、何で……ええ!?」
先程の話題が頭に残っていただけに、自分でも滑稽に思える程、動揺してしまった。
「な、何でこんなところに……」
「少し前から、バイトを増やしたんです。ちょっと、喫茶店だけでは苦しくなりそうだったんで……」
そう言えば、そんなことを言っていた気がする。その為にマリアを雇ったんだったか。
「体調は、大丈夫なんですか?」
「あ、はい。一日休んだら、だいぶ回復しました。明日は喫茶店の方にも出られると思います」
この人は、一日に何時間働くつもりなのだろう。
「松岡さんこそ、こんな時間に何で……」
「さっきまで『ほわいときっちん』で飲んでたんです――一人で」
嘘を吐いた。吐く必要のない嘘だったが、どうしても新山の名前を出すのは気が引けた。
「そうなんですか。人のこと言えませんけど、お体には気を付けて下さいね」
ニッコリと微笑む礼子。
陰日向のないその笑顔に癒される。
話が途切れたところで礼子は精算を始めるが、その手つきも無駄がなく、素早く、そして正確だ。服のネームプレートには『研修中』と書かれているが、とてもそうは思えない。
人当たりがよくて、気遣いが得意で、仕事も優秀――そんな彼女を見ると、おれの心は暗く沈んでしまう。
この人と新山の間に、何があったのだろう。
二人とも親しい人間であるだけに、うまくいってほしいと思う。恐らく、マスターも白井も、同じ気持ちに違いない。
とは言え、やはり、白井の言葉はひどかった。
――この人を、喰っちゃえ、だなんて……。
言いたいことは分かるが、もう少し言葉を選ぶべきだ。
と。
酔った勢いで物思いに耽るおれを、小銭の散らばる音が現実へと引き戻す。
「ああっ! すみませんっ!」
どうやら、礼子が手を滑らせたらしい。常にそつのない礼子としては珍しい失態だ。
小銭は床にまで散らばっていて、おれも拾うのを手伝う。
その時――礼子の手が細かく震えているのが、少し気になった。
店の外は相変わらずの熱帯夜だった。まとわりつく夜気に眉をひそめながら、買ったばかりのドリンクを勢いよく流し込む。明日は仕事だ。さっさと帰って寝るとしよう――と思ったのだが、その時、視界の隅に妙な違和感を感じてしまう。
三十メートル先の街灯に、人影が見える。
ハーフパンツにパステルカラーのTシャツ、遠いので顔までは分からないが、色々と特徴的ではある。
その中でも、胸元まで伸びた長い金髪が一層目を引く。
――知ってる人かもしれない……。
近付こうとしたが、それより早く、その人物は身を翻して走り去ってしまう。近付こうとしたのがバレたらしい。
――やっぱり、今のは……。
マリア、だったのだろうか。
しかし、よく分からない。こんな時間に、あんな場所で、彼女は何をしていたのだろう。不審と言うなら、あまりにも不審だ。
全身から汗が噴き出すのを感じながら、おれは誰もいなくなった街灯を、ボーッと眺めていたのだった。




