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第四章 1 宿木明日香

 やたらと長かった昨日から、一夜明けた。

 時刻は午前十時。昨日の土砂降りが嘘かのように空は晴れ渡り、本気を出した太陽が容赦なくアスファルトを照らす。

 陽炎。逃げ水。蝉時雨。

 炎天にクラクラしながらも、私は喫茶店の横にそびえる高い塀を見上げていた。

「……何やってんだ、お前」

 声の方を向くと、店のシャッターを開けた健太と目が合う。

 喫茶店は朝から営業しているが、花屋は今が開店時間らしい。

「ちょっと気になったことがあってね」汗を拭いながら、答える。

「昨日、少し話したでしょ?」

「昨日は色々あったからなあ」

 うんざりとした表情で、健太は声を張る。確かに色々あった一日ではあったが、そこまでげんなりしなくてもいいと思う。きっと、健太は健太で大変な一日だったんだろうけども。

「ほら、覚えてない? 事件の謎の一つに、『そもそも被害者はどこから現れたのか?』ってのがあったでしょ?」

「……ああ――はいはいはい。あったあった。今思い出した」

 切花の入ったバケツやプランターなどを手際よく運びながら、健太は必死に記憶の糸を辿っている。仕事中なのだから適当に流したっていいのに、こういう所は妙に付き合いがいい。

「――それが?」

「だからね、その謎に関しては、昨日の時点である程度見えてたんだって。今日は、その確認をしようと思ってたんだけど……」

「何だよ、聞かせろよ」

 随分と乗りがいい。話しやすいので、別にいいんだけれど。

「そこの穴に辿り着く方法には、三つあるの。一つは、路地の入り口から普通に入るって方法」

「でも、白井さんたちは、マリアさんと刑事二人以外に出入りした人間はいないって言ってたろ」

「そう。いくら小柄でも、パジャマ姿歩いてる女の子を見逃すとは思えない。よって却下」

「二つ目は?」

「路地内の、どれかの店から出てきたっていう可能性」

「俺も新山さんも、そんな女の子は知らないって証言した筈だ」

「そうね。ウチの店も違う。よって却下」

「ちょっと待てよ」健太は作業の手を止める。「お前、サクサク可能性却下してるけど、本当にそれでいいのか?」

「ん、どういうこと?」

「白井さんや、俺や新山さんが嘘ついてるかもしれねえじゃんか」

「……嘘ついてるの?」

「ちげーよ。可能性の話だ。お前、そういうの好きだろ」

 捜査だの調査だのではなく、論理性に重きを置いた思考遊戯のことを指しているのだろう。実際その通りだったので、素直に首肯しておく。

「まあね。関係者の誰かが虚偽の証言をしている可能性は、もちろん充分に考えられる。それでも、やっぱり今言った二つの可能性は却下せざるを得ないのよ」

「何でだ」

「忘れたの? 私は、喫茶店の窓から、フラフラと歩いていく女の子を目撃してるのよ?」

「……あ」

「いい? あの子は、右から左に、一直線に横切っていったの」

 ジェスチャーを交えながら、丁寧に解説する。

挿絵(By みてみん)

「路地の入り口は逆だし、新山さんやアンタの所からじゃ、ああいう軌跡は辿らない。では、あの子はどこから来たのか――」

 言いながら、真横の塀を見上げる。

 塀の上にはフェンスが設置されていて、そのフェンスは坂の上の空き地に繋がっている。

 真上から照りつける太陽が眩しい。健太もつられて上を見たが、すぐに視軸を私の顔へとスライドする。

「いやいや、そりゃ無理だろ!? お前、あの子が空き地からフェンスよじ登って、この落差をダイブしたって言いたいのかよ!?」

「喫茶店の右には、この塀しかないもの。あの子があの角度で現れるためには、空き地から飛び降りてもらうしかないの」

「でも、三メートルはあるんだぞ!?」

「飛び降りられない高さではない」

「それにその子、裸足だったんだろ!?」

「できなくはない」

「できなくはないかもしれねえけど、普通はしないだろ!」

「普通は、ね」わざとらしく間を置き、自説を展開する。「でも、誰かに追いかけられていたとしたら、どう? 或いは、どこかから逃げ出してきたとか。そう考えれば、パジャマに裸足っていう格好にも結びつくでしょう?」

「……想像だろ、それは」

「もちろん。ただ、あの子がこの塀を飛び降りたってことだけは、間違いないと思う」

「うーん……」

 反論の言葉が思い浮かばないのか、健太は作業を止めたまま、顎に手を当てて思案している。

「ただ、これは頭で考えただけの仮説だからね――本当に可能かどうか、実験する必要があるんだよね」

「さ、仕事仕事……」

 恐るべきスピードで踵を返す健太。私は慌てて手首を掴む。

 逃がすか。

「離せ! おれは絶対ヤだからな!」

「まだ何も言ってないでしょうがっ!」

「この塀から飛び降りてみろってんだろ!? おれだって分かるわそれくらい!」

「じゃあ話は早いね」

「だから、速攻でノーだって言っってんの!」

 無理矢理に手を振り放される。男だけあって、流石に力が強い。

「おれは、本当に、仕事があるんだよ」

「手止めて聞いてるじゃないの」

「お前に、付き合って、やっただけだ。お前の、話に、付き合えるのは、ここまで」

 噛んで含めるように、文節ごとに言葉を強調してくる。

「本当に駄目なパターンだね……」

「そう言ってるだろ。他を当たってくれ」

 そうする、と答えながら、私は踵を返す。

「――引きこもりのくせに、変なとこ積極的なんだよな……」

 背後で健太がブツブツ言っているが、無視した。

 私は引きこもりじゃない。

 畜生道に、落ちろ。


 塀を飛び降りるのは一瞬だが、塀の上部分に行くには商店街をぐるりと一周する必要がある。コインランドリーがある角を左に曲がり、その先の文房具店をさらに左折。若干急な坂道を上って、もう一度左折して少し進むと、築四十年程の古いアパートが見えてくる。問題の箇所は、その裏。ただ砂利が敷かれただけの広い空間で、祭の時はイベント会場になったりもするが、普段は近隣住民の駐車場として利用されている。敷地の奥には生け垣があって、更にその奥には一メートル程のフェンス。それを越えて、三メートルほど落下すると、喫茶店と花屋の間に着地するという訳だ。

 パッと見た限り、生け垣やフェンスなどで通り抜けられないような印象を受けるが――私は、知っている。生け垣には切れ目が、フェンスには大きな穴があって、そこを通れば、通り抜けることは充分に可能なのだ。

 そのことを確かめに、わざわざこの炎天下の中、出張ってきたのだが――その場所には、先客がいた。

「あ、先輩、ここにデカい穴が開いてますよ。結構な大きさなんで、これなら俺でも通り抜けることができそうです」

「やっぱりね。被害者はその穴を通って、三メートルもの高さを飛び降り、あの場所に着いた――宿木の妹の証言とも一致するわ」

 生け垣に頭を突っ込んでいるスーツ姿の男と、腕を組んであれこれ指示している縁なし眼鏡の女。

 どこかで見た二人組だ――などと、誰何(すいか)する必要なんてない。

「……何してるんですか、刑事さんたち」

 すでにお馴染みの刑事コンビである。昨夜から、まだ半日と少ししか経っていない。

「あら、珍しい所で会うのね」

 若干胸を反らしながら、本間刑事が言う。眼鏡が光ったように見えたのは、激しい日差しのせいだと思いたい。

「どうも、宿木の妹です」

 昨日の気まずさもあって、かえって嫌味な言い方になってしまう。別に、向こうも敵意を持って接している訳ではないのに――我ながら、少し大人げない。

「へぇ……こんな風に外出することもあるんだ。近隣の人の話だと、アナタ、毎日あの喫茶店からほとんど外に出ないらしいじゃない。てっきり、引きこもりなんだと思ってた」

 前言撤回。

 この女、混じりっ気なしの敵意百パーセントだ。

 どこかで、ゴングの鳴る音が聞こえた気がした。

「本間さん――でしたっけ? それとも、あの頃みたいに下の名前で呼んだ方がいいですか?」

「本間で結構よ」無表情のまま、本間はそう吐き捨てる。

「じゃあ、本間さん――例の肉の件はどうなったんです? あれだけ騒ぎ立てしておいて、まさか全部ブタ肉でしたってオチじゃないでしょうね?」

「それは、まだ結果報告待ち。結果が出たら教えてあげるから、楽しみにしていて」能面のまま答える本間。「……あと、昨日も言ったけど、私だって本気であの中に人肉があるだなんて思っている訳じゃないから。別に、騒ぎ立てもしていないし」

「あれだけ大勢の前に自分から出て行って、突飛な推理展開するのを、日本語で『騒ぎ立てる』って言うんじゃないですか?」

「あのねえ、それは、アナタのお兄さんが――」

「ああもう、ストップストップ! こんなトコで喧嘩しないでくださいよっ!」

 生け垣から若い刑事――滝山、とか言ったか――が飛び出し、二人の間に割り込んでくる。

「別に、喧嘩してた訳じゃないから」

 冷たく言い放ち、本間はそっぽを向く。

 後ろで束ねた長髪が、フワリと揺れる。

「こっちだって――って、そんなことはどうでもいいんですよ」

 頭に血が上って訳が分からなくなっていた。気を取り直して、同じ質問を繰り返す。

「刑事さんたち、ここで何をしていたんです?」

「アナタに答える義務はないんだけど……まあいいわ。大した事じゃないわよ。被害者の、犯行に遭う直前の足取りを辿っていただけ」

 やっぱり。先程の二人の話から、おおよその察しはついていたが。

「現場の状況やアナタの目撃証言から考えると、どうも、被害者は生垣とフェンスを通り抜けて、三メートルもの落差を飛び降りて、あの穴に至ったらしいのよね」

 私の推理通りだ。少し誇らしい気持ちになる。

「まあ、このくらいは小学生でも考えれば分かる事なんだけど」

 誇らしい気持ちが、急速に萎んでいく。本間はそんな私など関係なく話を続けていく。

「問題は『どうやって』ではなく、『何故』ってこと」

「変質者か誘拐犯か何かに、拉致監禁されてたんじゃないですか? それで、そこから必死になって逃げ出した、とか」

 よせばいいのに、私は自説を展開してしまう。

「それは私も考えた。被害者は何らかのトラブルに遭っていて、そこから必死に逃げ出した――パジャマに裸足で、三メートルの塀を飛び降りるくらい必死に、ね」

「だけど」刑事と同意見だったことで再び調子に乗った私は、勝手に本間の言葉を継ぐ。「彼女は追手に捕まり、穴に突き落とされてしまった……」

「ちょっと待って」同意見だった筈の本間に、ストップをかけられてしまう。「アナタ、犯人はあの子を追いかけていた人間だって考えてるの? 逃げる彼女を追いかけ、彼女と同様に飛び降りて、彼女に追いついて、彼女を殺して――って、そんな風に?」

「違うんですか? でも、そう考えれば辻褄が合うじゃないですか。少なくとも、新山さんや健太が犯人だと疑うよりも、ずっと」

「合わないってば――あの二人を犯人にしたくないアナタの気持ちも分かるけどね。ちょっと冷静になって考えてみて」

 少しだけ腰をかがめ、小柄な私に視線を合わせる。

「逃げ出した被害者を追って、ここから飛び降り、穴の前で彼女に追いつき、凶行に至った――まあ、そこまではいいわよ。取り敢えず辻褄は合う」

 瞬間、灼熱の太陽を反射して、本間の眼鏡がキラリと光る。

「でも、その後は? 犯人はどこへ消えたの? 死体は?」

「えっと……塀をよじ登ったって言うのは……」

 詰め寄られ、苦し紛れの発言をしてしまう。

「無理ね。アナタも分かっている筈よ? 三メートルもの、何も掴まる所のない、のっぺりとしたコンクリの塀をよじ登るなんて、まず不可能。仮にそれが可能だとしても、死体をどこに隠し、どうやって処分したのかっていう問題は残る」

「多分、死体を隠したのは、別の人間なんですよ」

「なるほど? 共犯か、事後従犯か、或いはただの偶然か――いずれにせよ、犯行に加わった人間がもう一人いるって言いたいのね?」

「そ、そうです」

 いっぱいいっぱいになりながら、なんとか首肯する。

「それは、誰?」

「――え?」

「誰だったら、それが可能?」

「…………」

 新山か健太、ということになってしまうのだろうか。回り回って、結局推理が一周してしまったようだ。言い返す言葉が思いつかず、そんな自分が悔しくて、私は唇を噛んで下を向いてしまう。

「……ゴメンね? やり込めるつもりはなかったんだけど……」

 私の表情が強張ったのに気付いたのか、本間は急激に態度を軟化させる。数分前までの喧嘩腰が嘘のようだ。

「でも……ううん、そうね……」何か思いついたのか、顎に手を当てて何やら思案する本間。「何も考えずに無理だ不可能だって一蹴しちゃったけど、ちゃんと検証した方がいいかもね……」

 私は、顔を上げる。

「検証って、さっき私が言った、塀をよじ登るってヤツですか?」

「そう。普通に考えれば無理だけど、身体能力の高い人間なら――もしかしたら、可能かもしれない。それを、今ここで実験してみようと思って」

「じゃあ俺、先に署に戻ってますね」

 今までずっと二人の遣り取りを横で見ていた滝山が、くるりと背中を見せる。何かを察したらしい。

 が、本間はそれを許さない。

「待ちなさい。どこ行くの」

 がっしりと、手首を掴んでいる。

「署に戻るって行ってるじゃないですか! 肉の検査結果が出てるかもしれないしっ!」

「そんなすぐに結果は出ないわよ。それより、今の話、聞いてたでしょ?」ニッコリと笑う本間。「アナタが、やりなさい」

「無理ですよっ! この高さをよじ登るなんて、絶対無理!」

 既視感(デジヤ・ビユ)

 と言うか、さっき私と健太が演じた遣り取り、そのままだった。

「滝山クン、柔道二段でしょ? なら大丈夫だって」

「全ッ然関係ないですよ、それ! とにかく無理ですって!」

「つべこべ言わずにやりなさい。仕事よ、これは」

 健太は仕事を口実に逃げ出したが、滝山の場合、これ自体が仕事になるらしい。刑事は大変だ。

「……分かりましたよ……」

 渋々といった感じで、滝山はフェンスを潜り、塀の真上に立つ。「取り敢えず、登る方は無理でもいいから――飛び降りることができるかどうかだけでも、検証しておきたいから、ね?」

 後輩刑事を宥めすかせて、無理矢理話を進めている。何だかとても楽しそう。この実験、本間の考えが変わったとか、凹んだ私に対する気遣いだとかではなく、単にこの後輩をいじって遊ぶためのモノではないかと、妙な邪推をしてしまう。

「じゃあまず、この高さを飛び降りてみよっか」

「いいですけど……あの、自分のタイミングでいかせてくださいよ? いち、にの、さん、で飛びますからね」

「分かった分かった。何でもいいから、早くしなさいよ」

「じゃあ、行きますよ。いち、にぃの――」

「はい、ジャーンプっ!」

 滝山が最後までカウントするより早く、本間がどん、と彼の背中を押す。押された滝山はバランスを崩すが、空中で何とか体勢を立て直し、ちゃんと両足で着地。そのままの勢いでごろりと前転し、両腕でバン、とアスファルトを叩く。見事な受け身だ。

「何するんですかーッ! 危ないでしょうがーッ!」

 遥か下で、滝山が両腕を上げて激怒している。一方の本間は、そんな滝山を見てケラケラと大笑い。

「柔道、役に立ったじゃない!」

「うるさいですよーッ!」

 塀の上と下で、お互いに大声を出して遣り合っている。

 そして、私は確信する。この人、完全に後輩で遊んでいる。生粋のサディストなのかもしれない。

「OKOK。じゃあ、その調子で塀よじ登ってみようか!」

「…………」

 何を言っても無駄だと判断したのか、滝山はムスッとした表情のまま、無言で手を上げる。何だか、競技に向かう走り高跳びの選手を思わせる動きである。

 その後、滝山は数分に渡って、跳んだり跳ねたり、助走をつけて駆け上がったりと頑張っていたが――無理なものは無理だったようだ。 三メートルもの高さで、一切の凹凸がなく、摩擦抵抗の少ない塀を、足場も道具もなく登るのは、やはり不可能なのだ。

 本間は肩で息をする後輩刑事に労いの言葉をかけて、その場を後にする。まだ調べるべきことが山のように残っているらしい。

 私も、そろそろ戻るか。

 そう思って踵を返したのだけど――どういう訳か、数歩進んだところで激しい眩暈に襲われ、その場にうずくまってしまう。どうやら、炎天下に立ち続けたせいで、軽い熱中症にかかったらしかった。吐き気がする。ひどく、気分が悪い。

 そう言えば、こんなにも長時間、屋外に出ていたのは久しぶりではないだろうか。近所の人間にも引きこもりだと思われているようだし、いい加減、日の光を浴びる生活に切替えたほうがいいのかもしれない。周囲の輪郭が曖昧になる中で、私はそんな殊勝なことを考えていた。

「……大丈夫?」

 聞き覚えのある声。ゆるゆると顔を上げると、そこには私服の姿の礼子が立っていた。青いTシャツにジーンズ、顔はノーメイク。首にはロザリオのペンダント。いつにも増して地味な装いだ。買い物帰りらしく、右手にビニール袋を提げている。

「れいこさん……」

 口内の水分が少ないせいか、うまく発音できない。

「明日香ちゃん、こんなトコで何してるの?」

「えっと……」

 言葉が出てこない。発音以前に、頭が回ってないからだ。

「少し、日陰で休んだほうがいいみたいだね……。ウチ、来る? 冷たいお茶出してあげるから……」

 マスターや大鷹に対するのとは違う、少し気さくな態度で、部屋に招いてくれる。正直、店に戻るまでもたないと思っていたので、この誘いはありがたかった。私は激しい眩暈に耐えながら、礼子の後をついていく。

 彼女の部屋は、空き地のすぐ横にあった。来る途中に見かけた、築四十年の古アパート――その一階が、そうだ。外装こそ老朽化が進んでいるが、中に入ってみると意外とそうでもなく、六畳一間の部屋はそれなりに居心地が良さそうだった。キッチンもユニットバスもちゃんとあって、日当たりも悪くない。それでいて駅にも職場にも近いのだから――家賃がどれほどか知らないが――なかなかの良物件と言えるのではないだろうか。

 と、まあ、部屋自体はいいのだけど――問題は、別の点にある。

 極端に、殺風景なのだ。

 家具らしきモノは小さな洋服ダンスくらいしかなく、家電も、冷蔵庫と洗濯機、エアコンがあるだけである。パソコンも、テレビすらない。本や雑誌の類もない。当然、余計なインテリアなどある筈もなく、小物は皆無に等しい。必要最低限の日用雑貨――メイク道具や染髪剤、眼鏡ケース、帽子、コンタクトレンズの煮沸器などがあるくらいだ。そのせいで、たった六畳の部屋が、やたらと広く感じてしまうのだった。

 それに加え、冷房が効きすぎていて少し寒い。近くにあったリモコンを見てみると、設定温度が十八度になっていた。細身のくせに、随分と暑がりらしい。それでも、限界いっぱいの十八度はやりすぎな気がするが。

「……今日、お店の方はどうしたんですか?」

 麦茶を出してくれた礼子に、私はそんなことを聞く。差し障りのない質問だ。部屋が殺風景であることや、冷房が効きすぎなことを指摘するのは、さすがに失礼な気がしたからだ。

「うん……体調とか気分とか、色々と優れなくてね。マスターに言って、今日はお休みにしてもらったの」

 自分の具合が悪くて気が付かなかったが、よくよく見てみると、礼子の顔色も随分と悪い。それに、気のせい若干やつれているようにも見える。

「……大丈夫、なんですか?」

 先程までの自分を棚に上げて、そんなことを言う。涼しい場所で水分補給したおかげで、だいぶ回復してきたらしい。

「うん、マリアちゃんが代わりに入ってくれてるから……。ちょっとそそっかしい所はあるけど、明るいし一生懸命だし、あれで案外、仕事を覚えるのも早いし……」

 マスターと同じことを言っている。しかし、

「あの、私が言ってるのはそういうことではなくて――私は、礼子さんの心配をしているんです」

「……私?」上げた顔には、影がかかっているように見えた。

「はい――介抱してもらってこんなこと言うのも変ですけど、礼子さん、何か、疲れてませんか?」

「……そう、だね……」

 俯き、寂しそうに笑う礼子。顔にかかった影が濃くなる。

「昨日、色々あってね……。どうすればいいか分からなくなって――正直、ちょっと参ってる」

 口ぶりから察するに、恐らくは礼子個人の問題なのだろう。だが、彼女が例の事件に直接関わっているとは考えづらい。となると、

「――新山さんのことですか?」

 立ち入りすぎかとも思ったが、聞かずにはいられなかった。

「明日香ちゃんって、変に鋭いところがあるよね……。やっぱり、マスターの妹さんだね」

 誤魔化す礼子。だけど私は追及の手を緩めない。

「もしかして礼子さん――新山さんのこと、疑っているんですか?」

「え? 疑ってる――って?」

 驚いている。それもその筈で、彼女は死体を発見してすぐに店を早退していて、その後の顛末を一切知らないのだ。

 余計な世話かなと思いつつ、私は事件の詳細や自分なりの推理、そして、その後に刑事が来たことなどを、かいつまんで説明する。

「…………」

 礼子は相槌すら打たず、ただ俯いて話を聞いている。顔色が真っ青なのは、効き過ぎた冷房のせいではないだろう。

「そんな……」

「だから、礼子さんも同じように新山さんを疑っているんじゃ――」

「違う」思いがけず強い口調に、私は面食らう。

「あの人は、そんな人じゃないよ。人を殺したり、バラバラにしたり――そんなことができる人じゃない。……みんな、間違ってる」

 最後の台詞は尻つぼみで、聞き取るのがやっとだった。

「じゃあ、礼子さんは何をそんなに悩んでいるんです?」

「それは……」そう言ったきり、黙りこくってしまう。

 その段に至ってようやく、他人(ひと)の事情に首を突っ込みすぎてしまったのだと知り、少し反省する。この部屋に来てからけっこうな時間が経過しているし、そろそろ帰る頃合いかもしれない。そう思って腰を浮かしかけた――その時、

「あのね……」と、礼子が重い口を開く。

 いつの間にか顔は上がっていて、目は真っ直ぐに私を向いていた。その瞳の色の黒さに、私は息を飲む。

「なんて言うか、詳しくは話せないんだけど――ちょっと、人が信用できなくなっちゃって……」

「それは、新山さんに対して、ですか?」

 しかし、礼子は私の問いには答えず、

「と言うか……人の考えてることが分からなくなった、って言った方がいいのかな……」などと、首を傾げている。

 それは、私に聞かせるというより、口に出して自分の考えを整理しているだけのようにも見える。

「すれ違いって言うのかな……私、男性とのお付き合いとか、これまでなかったし、うまく意思伝達ができないと言うか……」

「えっ!?」何やら、聞き捨てならないことを聞いた気がする。

「礼子さん、今まで恋人いたことなかったんですか!?」

「……そんな余裕なくてね。ずっと、生きてくのに必死で……これからも、一人で生きてくんだと思ってたのに……分からないものね」

 そう言い、また、儚げに微笑む。

 ちょっと信じられない話だった。彼女は確かに地味で大人しいが、顔立ち自体は整っているし、ちゃんと化粧をすれば結構な美人になる筈なのに――まさか、この年までシングルだったとは。

「去年の納涼祭で、ブタの解体ショーやってたでしょ? あの時は本当に、信じられない、許せないって思ってたんだけど――話してみると、ただ単に真面目で仕事熱心なだけだって分かって――」

 ――気付いたら、好きになってて。

 俯き、恥ずかしそうに、そう言う。

 しかし、恥ずかしいのは、聞いているこっちだ。まさか、のろけ話に発展するとは夢にも思ってなかった。ふと、話の本筋を忘れそうになる。

「何の話でしたっけ……?」

「え……ああ、ゴメンね。そんな話じゃなかったよね……」

 頬を赤らめていた礼子が、また神妙な顔つきに戻る。

「えっと……何の話だったっけ?」

 逆に聞かれてしまった。

「確か、今まで男性経験がないせいでコミュニケーション能力が不足していて、すれ違いが起きて、相手の考えてることが分からなくなって悩んでる――って話だったような……」

「……ああ、そうだったね……。さすが明日香ちゃん。話を要約するのが上手……」

 いや、要約という程のモノではないが。

 今日の礼子は、本人の言う通り、相当に弱っているようだ。覇気と言うか、店での、そつなく動く感じが微塵も感じられない。

「私……どうすればいいんだろうね……」

 のろけ話の次は恋愛相談か。だとしたら、完璧に相談する人間を間違えている。恋人はおろか、友人もろくにいない人間に、男女の機微など分かる筈がない。

 だが、日頃世話になっている礼子が弱っているのを見て放っておける程、私は冷酷な人間ではないつもりだ。乏しい体験、本で得た知識を総動員して、何とか親身になろうと努力する。

「えと……そうですね……」麦茶を飲み干し、間を埋める。「私も、そういうのはよく分からないんですけど――やっぱり、お互いによく話し合うのが一番だと思うんです。コミュニケーション不足で開いた溝は、コミュニケーションで埋めるしかないって言うか……」

 我ながら、凡庸でつまらない答えだとは思う。しかし、本気で礼子のことを考えたら、この答えがベストであるように思われた。

「そっか……そうだよね……」うんうんと、頷く礼子。

「やっぱり、それが一番だよね……」

 数瞬前まで闇を湛えていた彼女の双眸に、ほんの僅かな色が戻った気がした。

「……ゴメンね。具合悪いのに、つまんない話聞かせちゃって」

「何言ってるんですか。知らない仲じゃないんだから、そんな水臭いこと言わないでくださいよ。私、礼子さんの力になれて、本当に嬉しいんですよ? 店がうまくいってるのも、礼子さんがいてくれたからだし――あの、何か悩んでるんだったら、何でも言ってくださいよ? 私なんかじゃ、力になれないかもしれないけど……」

 優等生的な臭い台詞だったが、本心だった。礼子は、先代のマスター、つまり私の父親が健在だった頃からの古株だ。両親が事故死して途方に暮れていた私たちを支えてくれたのも、彼女だ。その彼女が困っているのなら、力になってあげたいと思うのが人間というものだろう。

「ありがとう……本当にありがとうね……」

 色が戻ったのも束の間、彼女の瞳は涙で滲んでいた。

「――私ね……」と、礼子が何かを言いかける。

 しかし、その言葉にかぶせるようにして、パン、という乾いた音が室内に響く。唸り声と共に停止するエアコン。何が起きたか把握できず、私は固まってしまう。

「もう……まただ……」

 溜息を吐きながら礼子が立ち上がる。

「あの、これは……」

「ブレーカー。エアコン使ってると、時々急に落ちるの」

「急にって……」他に、レンジやドライヤーなど、アンペアを食う電化製品を使ってるならともかく、急に、と言うのは……。

「漏電してるんじゃないですか?」

「ううん、それはないって」玄関の配電盤をいじりながら、礼子が答える。「管理人さんに聞いたら、老朽化が進んでるからだろうって――ああもう、だったら、早く修理してくれればいいのに」

 珍しく、イラついている。悩んだり弱ったり泣いたり怒ったり、今日の礼子はなかなか安定しない。

 幸い、電源はすぐに復旧し、エアコンは再び作動を開始する。

「ゴメンね。何かバタバタしてて」

 今日三度目の『ゴメンね』だ。

「それはいいんですけど――礼子さん、今何か、言いかけませんでしたか?」

「え? ……ああ、えっとね……」何故か狼狽している。

「そう言えば、昨日のシミュレーション、どうなったのかな。私、何も知らなくて」

 何だか露骨に話題を避けられたが、先程反省したばかりで、これ以上追及するのは躊躇われた。

「なかなか凄かったですよ」

 結局、礼子に合わせる形で、大鷹の奮闘ぶりを要約して聞かせる。

「へぇ……大鷹さんって、やっぱり凄い人だったんだね……」

「馬鹿ですけどね」

 新しい麦茶を注ぎながら、すっかりくつろいでいる。

「普段、テレビ見ないから全然知らなかったけど、そんな凄い人だったなんて……」

 凄い凄いと連呼されると、何故かこちらが恥ずかしくなってくる。

「どれだけ近くにいたって、気付かないことってあるものね……」

「ああ、そう、気付かないって言えば――」

 話の盛り上がりに便乗して、私は本間雫の話を持ち出す。彼女が、かつて大鷹と対戦した女子高生だったという、アレだ。

「ああ、あの動画の……」

「そうそう、あの動画で、大鷹さんと闘っていた彼女です。まさか刑事になってたなんて、驚きですよねー。マスターはすぐに気付いたみたいなんですけど、私と大鷹さんは、本人が明かすまで気付けなくって……」

「どうして? 十年経って、印象が変わっちゃってたから?」

「まあ、それも大きいんですけど、それ以上に――」

 そこで私は、彼女に気付けないでいた『その理由』を説明する。

「マスターには観察力不足だって言われたんですけど、やっぱりアレは気付けませんよー。まさかあんな――」

「――――」

 調子に乗って話し続けようとする私だが、礼子の表情を見て、思わず言葉を飲み込んでしまう。

 深刻な目をして、こちらを凝視していたからだ。

 あまりの迫力に、思わず仰け反ってしまう。

「……あ、あの、私、何か変なこと言いました……?」

「……ううん、何でもない」

 何でもないの――と、そのままの顔つきで、視軸を床に移す。

 その瞳に、前より濃い黒が広がっていくのが、見えた気がした。

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