第三章 6 松岡健太
「大丈夫ですか?」
コトリ、と水の入ったグラスが置かれる。
「……ありがとうございます」
おれはテーブルに突っ伏したまま、僅かに首を曲げてそう言う。マリアだ。形のいい眉を寄せ、心配そうに、その大きな青い瞳をこちらに向けている。
「あの、お医者様でも呼びましょうかっ!?」
「……大丈夫です。ご心配なく……」
「それとも、救急車の方が――」
「本当に大丈夫ですから。しばらくこうやって休んでれば、回復できると思うんで」
「そうですか……」
全く納得していないようだが、取り敢えず引き下がってくれる。全く、大袈裟な人だ。だけど、その善意に、おれはほんの少しだけ癒される。――そう言えば、
「……もう、怒ってないんですね」
「ふぇ!? ワタシが!? 怒ってる!? え!?」
物凄く驚いている。その反応に、むしろこちらが困惑してしまう。
「いや、あの、始まる前とか、何か、いつもみたいに元気じゃなかったし、ちょっと怖い感じだったんで、怒ってるのかなって……」
何も疚しくなんかないのに、しどろもどろになってしまう。
「ああっ! いや、あのっ! 怒ってるとかじゃなくてっ!」
手をバタバタと振りながら、必死で恐縮している。端からは、さぞ滑稽な遣り取りに見えることだろう。
「ただ、あの、ブタの肉見ると、何か色々と嫌なこと思い出しちゃうって言うか――ああ、スミマセンっ! そんなこと、お客様には関係ないことですよねっ! もし不快にさせてしまったのなら陳謝しますっ! 土下座する勢いですっ!」
ペコペコと、高速で深いお辞儀を繰り返すマリア。その風圧で、おれの前髪が僅かに揺れる。なるほど。確かに土下座する勢いだ。その言葉に偽りはない。
「マリア・ヨークは、お客様のために身を粉にする所存ですっ! スマイルの大安売りですっ!」
テンションも声量も最大限。色々おかしかった気がするが、それに突っ込む程の元気は、今のおれにはない。
「スマイルの大安売りって、結局、お金取るってことだよね……」
カウンター隅の明日香が、カプチーノで唇を湿らせながらツッコミを入れてくれる。そのツッコミ気質が、今はありがたい。
「マリアちゃん、やっぱり面白いなー」ニコニコ顔のマスターが口を挟む。「今日は色々あって疲れたでしょう? 少し休んでていいよ? そんな、健太なんか放っておいてさ」
優しくウェイトレスを労っている。できれば、その優しさをこちらにも向けてほしいところだ。
シミュレーションから、一時間近くが経過していた。すでに、刑事や商店主たちの姿はない。本来なら、シミュレートの後、それを踏まえて話し合いを行う予定だったのだが、色々とありすぎて、延期となってしまった。今後に関しては、また白井から連絡があるという。正直言えば、もう大食いには関わりたくないのだけど……。
残ったのは、大鷹、明日香、おれという、いつも通りの面子。おれに関して言えば、残りたくて残っているのではなく、胃が重くて気持ちが悪くて、動くに動けないだけなのだけど……。
「しっかし、驚いたよなァ」
おれの三倍近く食べた筈の大鷹は、平素と変わらない様子でおしゃべりに興じている。同じ人間とは思えない。人の姿を借りた何かなのかもしれない。
「あン時の女子高生が、まさか刑事になってるなんてな――」
「どこかで見た顔だとは思ってたんだけどね。髪型と眼鏡で、人ってだいぶ印象が変わっちゃうんだね」
服装もそうだが、それ以上に歳月の流れが大きいように思う。十年も経てば、容姿は大きく変わってくるだろう。十年経っても、容姿に成長がないのは、この明日香くらいのものだ。
「と言うか、マスターは気付いてたんだよね?」
「まあ、そうだね」
「言えよー。そういうことはよー。情報小出しにすンなって、いつも言ってンだろーがよー」
妙な抑揚をつけながら、大鷹が抗議している。
「いやだって、二人ともとっくに気付いてることだと思ったし」
「気付かないってば。私たち、そこまでめざとくないから」
「めざといと言うかさ、昨日来た時、彼女、ちゃんと名乗ってたじゃない」
「名乗ってたって、お前、あれは――」
「警察手帳だって、開いて見せてた」
大鷹が何か言いかけるが、マスターの一言がそれを打ち消す。
「僕がめざといんじゃなくて、会長と明日香の観察力が足りないだけなんじゃないかな?」
「反論はしないけど……せめて、もう少しリアクションとってよ。驚きもしないから、こっちだって気付けなかったんじゃん」
明日香が唇を尖らせる。珍しく、子供っぽい仕草だ。
「驚いたよー? 自分で言うのも何だけど、あんな風に吃驚した反応を僕が見せるなんて、そうそうないことなんだよ?」
二重の意味で、確かにその通り。
昨日、初めて刑事が来訪した時、マスターは目を丸くして驚いていた。あれは刑事の訪問そのものではなく、過去に大鷹と因縁のある女子高生が、刑事となって自分たちのところに訪れたことに対する驚きだったのだ。
「と言うか、僕は、刑事さん達の考えの方に驚いたけどね」
――その話はもういいって。
また、気分が悪くなる。
「多分、警察はまだ何も掴めてないんだろうね。死体も見つかっていないし、被害者の身元も割り出せていない。だから、あんな突飛な推理に走る」
いつになく辛辣な口調だ。昔から親しくしている新山が疑われて、この人なりに憤っているのかもしれない。まあ、それはおれも同じなのだけど。
「オレらが食った肉が人肉とか、んなわけねーじゃんなあ? 食べた本人が言ってンだから、間違いねーだろっての」
それは、確かに大鷹の言う通り。おれだって、上等なブタ肉を食べたことくらいある。今日食べた肉は、その時と同じ味だった。人の肉がどんな味かなんて知らないし、想像だにしたくないが――少なくとも、今日自分たちが食べた肉はブタだと言い切れる。
第一。
――あの新山さんが、そんなことするかよ。
人を殺して死体隠して、バラバラに解体してステーキ用に加工して、あまつさえそれを第三者に食べさせるなんて、まともじゃない。明らかに常軌を逸している。
おれの知っている新山守は、優しく誠実で、クソがつくほど真面目で、面倒見がよくて仕事熱心で――絶対に、そんなことをする人間ではないのだ。
「僕も健太も、上の兄弟がいないからね……。昔っから、兄貴代わりとして、色々お世話になったもんだよ」
人の考えを見透かして、マスターがそんなことを言う。
「主観的だし、感情的でとんでもなく偏っているのを承知で言うけど――新山さんは、やっぱり殺人犯ではないよ。あの子の命を奪った何者かは、別にいるんだと思う」
考えを読まれるのはいつまで経っても慣れないが、言ってることはまさにその通り。
机に突っ伏したままの体勢で、小さく頷いたのだった。
喫茶店を後にしたのは、それからしばらくしてからだった。
明日は営業日だ。早く休んで、開店に備えないと――と思うのだけど、歩みは重い。と言うか、胃が重い。シミュレーションから随分と時間が経っているにも関わらず、具合は一向に回復しない。完全に消化不良を起こしている。重い体と込み上げる吐き気を堪えながら、電信柱に手をつく。
「うう……」
「お前、大丈夫か?」
十分前にも同じことを言われたな――と思いながら顔を上げると、そこには新山の姿。さっき話題に出たばかりなだけに、少しだけ狼狽してしまう。
「え、新山さん……何で……」
「いや、ここ俺の店だし」
見上げれば、『肉の新山』の看板。自分の家に戻るつもりが、消化不良からくる千鳥足で、斜めに移動してしまっていたらしい。
「よかったら、ウチで少し休んでくか? お客さんに貰った、胃腸に効くいい漢方薬があるんだよ」
自宅は目と鼻の先にあるのだから、断ることもできたのだけど――おれは、その誘いに乗ることにした。胃腸に効く漢方薬というモノに惹かれた、というのがほとんどだが――店の内部を観察したい、という想いもあった。この目で新山の無実を確認したいという強い想いが、おれを動かしたのである。
「階段上がるのも辛そうだから、店の方行くか」
肉の新山は、一階部分が店舗で、二階部分が住居、という構造になっている。それはフラワーショップマツオカも喫茶宿木も同様だ。店舗と住居は屋内の階段でも繋がっているが、外階段で直接住居の玄関に向かうこともできる。店舗へは、通常なら表から出入りする形になるが、定休日や営業時間外、つまりシャッターが降りている間は、勝手口を使う。
中に入ると、いきなり店のバックルームに突入する。大型の業務用冷蔵庫、総菜を作る厨房、パソコンの置かれた事務机――当然ながら、花屋とは設備が全然違っていて、それが新鮮だった。付き合いは長いが、ここに入ったのは今回が初めてなのだ。
しかし、パッと見た限り、特に怪しげな部分などないように見える。おれはバックルームの奥にある、一段高い四畳半ほどの和室に腰掛け、それとなく観察をしていたのだ。一般的な肉屋がどんなものかなど知らないが、別にこれなら――と、安堵しかけたおれだったが、一種異様な一画が、視界に入る。
「……あのスペースは、何?」
その空間は、部屋の隅、和室の対角線に位置する場所にあった。そこだけ何も置かれておらず、打ちっ放しのコンクリが剥き出しになっている。床の端には排水のための溝が掘られていて、その横には緑のホースが繋がれた蛇口がある。また、天井からは太いワイヤーと結びついた大きなフックがぶら下がっていて、それが不気味さに拍車をかけている。
「ああ」何でもないような口調で、新山は答える。
「あれは、解体場だ」
すでに、水の入ったコップと胃腸薬が用意してあって、本人は畳にあぐらをかいてくつろいでいる。
「解体って――ブタの?」
「そりゃそうだよ。牛や鶏なんて、店で解体することなんてないし」
何のストレスも感じさせないフラットな口調で、彼は続ける。
「――人間なんて、尚更だ」
弾かれるように、おれは新山の顔を見る。
新山も、おれの顔を見ていた。
「あの刑事に、何か言われたの……?」
「直接的には、言わない。けど、俺も馬鹿じゃないからさ。アイツらが何を言わんとしているかは、大体察しがつく」
目をそらし、誤魔化すようにして、おれは用意してくれた胃腸薬を水で流し込む。苦い。
「――ふざけんな」吐き捨てるように言う。「ブタを解体できる技術と設備があるからって、それが何だってんだよ。人間なんてバラす訳がないだろうが。俺がそんなこと、する訳が――」
「おれもそう思うよ」
全て言い切るより先に、その言葉に同意する。
「マスターも同じこと言ってた。新山さんはそんなことする人じゃない。絶対に殺人犯なんかじゃないって」
「マスターが――そうか……」
昔はおれと同じように、『翔』と下の名前で呼んでいたのに、今では皆、『マスター』という呼称で統一している。かつての幼なじみは、今では商店主仲間になってしまっているのだ。
「……アイツにそう言ってもらえるのは、嬉しいな。昔っから、頭がよくて鋭い奴だったから……」
そう言って、新山はその時、恐らく初めて――笑った。
「警察に捕まりそうになったら、アイツが助けてくれるのかもな」
「そんな……新山さんは、何もやってないんでしょ? あの刑事達だって、本気で疑ってる訳じゃないみたなこと言ってたし」
「これだけは言っておくぞ」
一瞬、畳に視線を落とした新山だったが、すぐにおれの目を見据えてくる。
「俺は誰も殺してないし、人間の死体を解体したりもしていない」
その目には、一点の曇りもなかった。嘘を言っている人間の目ではない。おれはその言葉を聞いて、身が軽くなった気がしていた。もしかしたら、薬が効いているだけなのかもしれないけど。
「それよりさ、お前――」あぐらをかいた脚をパチンと叩いて、身を乗り出してくる。話題転換のサインだ。
「あの肉、どうだったよ? なかなかいい肉だったろ?」
目を輝かせている。人肉の話の直後に、肉の感想を求めるのか。仕事熱心と言うか――悪く言えば、重度の肉バカだ。
「うん、素人の俺でも、すごいいい肉なんだなってのは、分かった。柔らかかったし、脂も乗ってたし」
間違いなく、今まで食べたブタの中でも一番の肉だった。
「そっかそっか」
「まあ、美味しいって思えたのは二皿目までだけどね」
「だろうな」
アハハ、と快活に笑っている。こういうところは、本当に純粋な少年を思わせる。
「大鷹さんもベタ褒めしてた。あれは凄い、上等なブタ肉だって」
「あれだけガツガツ食って、味が分かるんだから凄えよなあ」
食品や飲食に携わっていると、大食いに対して難色を示す人間が多いと聞くが、少なくとも新山は違うらしい。でなければ、最初から食材の提供なんてしないのだろうけど。
「でもいいの? そんないい肉、大食い大会のシミュレートなんかで出しちゃって」
「ん? ああ、いいんだよ。別に無料提供って訳じゃないし、代金はちゃんと貰うんだし」
店主が納得しているのなら、とやかく口を出すことはない。ただ、「ごちそうさま」と言って手を合わせるだけだ。
「また今度、マスターも誘って、三人で飲もうぜ。最近はみんな仕事が忙しくて、全然遊んでなかっただろ」
「そうだね。今度の定休日にでも――」
と。
おれの言葉を、インターホンの音がかき消す。来客だろうか。
「あ、家の方だな」
腰を浮かし、壁にかけてある受話器を取る新山。インターホンは二階の住居部のモノのようだが、応対だけはここでも出来る仕組みになっているらしい。
「はい――ああ、どうしたの――いや、今は店の方にいるんだけど――え、ちょっと待てって、おい――」
向こうの声は聞き取れないため、会話の内容はよく分からない。しかし、随分と親しい間柄なのは間違いないようだ。
「あ、おれ、そろそろ帰るね」
気を遣ったつもりで、おれは勝手口に向かう。
しかし、タイミングがよくなかった。
扉の前には人が立っていて、思わずぶつかりそうになってしまう。
「わあ――って、え?」
「……松岡さん?」
「え? え?」
そこには、高崎礼子が立っていたのだ。
喫茶店の古株ウェイトレスが、何故ここに……。
「何で――何で、松岡さんが……」
事態が飲み込めないのは、礼子も同様らしい。同じ台詞を譫言のように呟いている。
「健太は大食いで具合が悪くなったから、ここで薬飲んで休んでいただけだ」
新山が状況を簡潔に説明してくれる。
「それより、お前こそどうしたんだよ。こんな時間に」
「私は……あの……」
チラチラと視線がおれの方を向く。邪魔なのは分かりきっていたが、何故かその場を動くことが出来ない。
「……また、あとで電話します」
結局、それだけ言って礼子は走り去ってしまう。新山が呼び止める暇もない。
「えっと……」困ったのはこっちだ。「これは、どういう……」
「分からん。後で電話くれるって言ってたけどな」
溜息混じりに答えるが、聞いているのはそういうことではない。
「そうじゃなくて、新山さんと礼子さんは、どういう関係で……?」
「あれ、言ってなかったけか。隠してた訳じゃないんだけどな」
こめかみを人差し指で掻きながら、新山は言う。
「俺たち、付き合ってるんだよ」
「え――」
驚いた。
色々あった密度の濃い一日の中でも、一番驚いたかもしれない。
「ええ!? 新山さんと礼子さんが!? ええーっ!?」
まともに喋ることも難しくなっている。
「いつから……?」
「半年くらい前かな」何でもないことのように、新山は答える。
「去年、納涼祭でブタの解体ショーやったろ? 大不評だったやつ。アイツもそれ見ててさ、最初は他の人間と同じように、嫌悪感丸出しで近づいてきたんだけど――何か、話してるとお互い居心地よくてさ。気が付いたら、こういう関係になってた」
ざっくりとした馴れ初めまで聞かされてしまった。
幼馴染みの肉屋店主と、行きつけの喫茶店のウェイトレス。二人の職場はまさに目と鼻の先で――と言うか、おれの店は、その間にある訳で。そのくせ、今の今まで二人の関係に気づけなかった訳で。
――鈍感だよな。
そんな風に、思う。
「でもまあ、喫茶店のみんなも、ほとんど気付いてないと思うぞ? 例によって、あのマスターだけは察してるっぽいけどな」
本当に何者なんだ、あの男は。
おれは挨拶もそこそこに、肉屋を後にする。
何だか、ひどく疲れた。店が休みで、夕方近くまで惰眠を貪っていたにも関わらず、心身共に限界を迎えようとしていた。真っ直ぐ自室に向かい、着替えもせずにベッドに倒れ込む。風呂に入ってないが、明日の朝にでもシャワーを浴びればいいだろう。
とにかく、長い一日だった。
犯人と死体が消失する殺人事件が起き、
刑事の聞き込みで無理に叩き起こされ、
明日香からやたらと詳細な概要を聞き、
ブタ喰い大鷹の実力を目の当たりにし、
食べた肉が人の肉ではないかと疑われ、
女刑事・本間の意外な過去を知らされ、
消化不良を起こして新山の店で休憩し、
そこで新山と礼子の関係を初めて知り――
目一杯だ。盛り沢山だ。もう沢山だ。
様々な顔や言葉が泡沫のように浮かんでは消え、何一つ実像を結ぶことなく雲散霧消して――おれは、眠りに落ちた。
やたらと長かった一日が、ようやく終わろうとしていた……。