第三章 4 宿木明日香
卑怯者――そう言っている気がした。
十年前の話だ。
当時、大食いが一種のブームになっていたこともあって、その世界で実力者として名の通っていた大鷹も、幾度となくその類のテレビ番組に呼ばれていた。その際には必ず、参謀兼トレーナー兼マネージャーであるマスターが付き添うのが恒例で、そのオマケとして、私も何度か後をくっついていったものだった。
中でも印象深いのが、『|Food Fight Grand Prix』という番組の、準決勝――そう、数日前に、皆で見た動画に入っていた一幕だ。
それまで、大鷹は自身の実力とマスターの作戦とで、トントン拍子に勝ち進んでいた。そこで当たったのが、当時新人として出場していた対戦相手だ。ツインテールの黒髪と落ち着いた雰囲気が特徴的な、同じ呉藍町出身の女子高生で、新人とはいえ、その実力は新人勢の中でも頭一つ抜きん出ていた。スリムな体系とは裏腹に胃袋、及びその膨張力が半端ではなく、顎や喉の力も強い。如何なる状況でも冷静で、時にマスターを唸らせるような頭脳プレイを見せたりもする。
はっきり言って、強敵だった。
そこで、マスターは一計を案じ、相手が不得手としているブタ肉で勝負をかけたのだが――これが、予想以上の効果を発揮した。対戦が始まった途端、相手はぴくりとも動かずに硬直してしまったのである。これは後で知ったのだが、彼女は本当にブタ肉が食べられないらしい。チャーシューやハンバーグのように、少量か、加工してあるものならば多少はどうにかなるらしいが、ステーキのような肉塊だと絶対に口にできないとのこと。
ちなみに、この事実は本人は語っていないし、番組側もアナウンスなどはしていなかったのだけど――そこは情報収集のエキスパート。どこからか調べ上げたらしい。全く、いつものことながら、どんな手を使っているのやら……。
結果は、当然大鷹の勝利。
相手は悔しがるでも怒り出すでもなく、ひどく冷めた表情で、じっと大鷹を見つめていた。その時、彼女の唇が、僅かに動いた。
卑怯者――そう言っているように、見えた。
「……もう、こういう作戦はやめような」
スタジオから戻った大鷹が、開口一番に告げる。その時の、何とも言えない表情が、今でも記憶に残っている。
――何で、今頃になって思い出したんだろう。
十年も前の話だ。恐らく、その時と同じ食材で大食いをしている大鷹を見て、無意識に想起してしまったのだろう。全て、昔の話だ。過去は過去。私は、現在に目を向ける。
ゴングが鳴ってから、すでに二十分が経過していた。大鷹は、すでに九皿を完食している。一皿二〇〇グラムだから、すでに一.八キロのステーキを胃に収めている計算になる。長いブランクがあったのに加え、ろくに事前準備をしていなかったことを鑑みれば、まずまずの戦況と言える。
昨日、急遽対戦相手役に決まった健太は、最初こそ余裕を見せていたものの、三皿完食した辺りで急速にペースダウン。四皿目は何とか食べ終えたものの、今は五皿目を前にして完全にフォークが止まってしまっている。首を傾げながら、またブツブツと何か独り言を言っているが――自分では、もっといけると思っていたのだろう。
大食いを、舐めないでもらいたい。
三十分もの間、休みなしで同じ食材だけ食べ続けるのが、いかに辛いか。どうしたって味に飽きるし、食欲も集中力も低下する。ましてや、ステーキのように脂っこいモノなら尚更だ。蓄積した油分は、心身に確実なダメージを与える。かと言って、油分を洗い流そうと水をガブガブ飲むのも、当然よくない。摂取した飲み物の重量は結果にカウントされないのだから、水分の量は極力抑えるべきなのだ。テーブル上に揃えられた各種調味料で味の調整をしながら、ペース配分を考えて食べていく必要がある。ステーキは、無策で突き進もうものなら、玉砕すること請け合いの食材なのだ。
それを踏まえて、視軸を横にスライドする。
そこには、ペース配分もバランスも無視して、水をガブガブ飲みながら肉を頬張る大鷹の姿があった。
「……これだもんなぁ」
横で観戦しているマスターが苦笑している。そう。そうなのだ。この男は、確かに力のあるフードファイターではあるのだけど――その世界では一目置かれる存在ではあったのだけど――
どうしようもない程に、馬鹿なのだ。
何をするにもパワープレイで、何もかもを精神論で乗り切ろうとする。十年も経って成長したかと思いきや、とんでもない。まるで変わっていなかった。二十歳前後の頃と比べて肉体的に劣っている分、戦術やセオリーがより大事になってくるのに……。
呆れて見守るその前で、大鷹は十三皿目を完食する――が、どう見ても、ペースが落ちている。顔も若干青ざめているし、少し苦しそうな感じもする。
「はー、凄ぇ凄ぇと思って見てたけど、さすがに限界だなァ」
斜め後ろで、白井が溜息混じりにそう言っている。十三皿で、二.六キロ。躊躇なく水をガブ飲みしているから、実際には四キロ近い容量が胃に収まっていることになる。さすがに限界。残り時間を五分以上残して、ここでストップ――になんて、なる訳がない。
大鷹大輔が本領を発揮するのは、ここからなのだ。
自分の頬をはたき、上体を起こして、素早く伸びをする。
再びナイフ、フォークを掴んだ大鷹は、先程までの倍近いスピードで肉を切り分け、鬼の形相でぐいぐいと口に押し込んでいく。
最後の最後に、ギアをトップに入れたらしい。
こうなると、もう止められない。
胃袋は極限まで膨張し、妊婦のように大きくせり出している。体内では、小腸、膀胱まで圧迫しているに違いない。瞬く間に積み重なるステーキ皿。ギャラリー達は、その様子を固唾を飲んで見守っている。皆、目が離せなくなっているのだろう。
全く、本当に、成長していない。
いつだって、気合いと根性だけの力任せで押し切って、見苦しい程に必死で、考えなしで、泥臭くて――
「だけど、僕は会長のスタイル、嫌いじゃないよ?」
同感だった。
第一、今回はあくまでシミュレーションなのだから、適当に手を抜けばいいものを、持っている以上の力を出し切って――。
全く、どうしようもない程の――馬鹿だ。
ゴングが鳴る。制限時間が終了したのだ。
結果、松岡健太、四皿。
大鷹大輔、十八皿。
「勝者、大鷹大輔!」
「ッしゃああーッ!」
マスターの声に呼応するように、大鷹は高らかに両腕を上げ、ガッツポーズ。どよめきと嘆息、そして、惜しみない拍手が店内を包み込む。この一体感、この高揚感、この達成感――ああ、やっぱり、自分は大食いが好きだったのだなと、今更ながら実感する。
――と、拍手がいつまで経っても鳴り止まない。
違う。
それは拍手ではなく、パンパンと手を叩いているだけ。
まるで、興奮した場を取りなすように。
まるで、茶番劇を終わらせるかのように。
「ハイハイ。大盛り上がりのところ申し訳ないんですが、ちょっとよろしいですか?」
例の女性刑事だ。相棒の若い刑事も一緒についてきている。
「捜査協力をお願いします」
若干、威圧的とも思える本間刑事の物腰。だけど、その縁なし眼鏡の奥の瞳に、私は何故か既視感を感じたのだった。




