第一章 1 宿木明日香
あらゆるモノには、相応しい場所がある。
いわゆる一つの、『居場所』ってヤツだ。
パンダは上野動物園にいるべきだし、ヒーローは漫画や映画の中で活躍していればいい。どんなモノにも、必ず居場所はある。
私――宿木明日香にとっての居場所は、この店だった。
平凡な地方都市・呉藍町――そこに存在する平凡な商店街の一番奥に位置する、落ち着いた雰囲気の喫茶店――『喫茶 宿木』。
事故で死んだ両親が遺していった、小さな店。今は、年の離れた兄・宿木翔が二代目マスターとして店を切り盛りしている。
私は、昔からこの店が好きだった。
昼下がり、客足が落ち着いた店内――カウンターの端で、ゆっくりとカプチーノを飲む――その一瞬が、私にとっての至福の時間なのだ。路地奥に位置しているためか、店の前を歩く人間は少なく、平日の昼ということもあってか、辺りは驚くほど静かだ。自己主張の強い蝉時雨だけが、季節を感じさせるBGMとして鳴り響いている。そして、その静けさが私は嫌いではなかった。カップを片手に、カバーをかけた文庫本を開く。カプチーノと、お気に入りの本と、蝉の声だけが響く静かな店内と――ここには、私の一番好きなモノが揃っていた。
揃っていた、のに。
……どこからか、轟音が響いてくる。
大型エンジンがアイドリングしているような、獰猛な獣が唸っているような――聞く者を、不快にさせ、不安にさせる、その音。音の正体は、最初から分かっている。私は大きく溜息を吐き、わざと音を立てて、カップをソーサーに置く。
今、店には私を含めて四人の人間がいる。
カウンターの内側では、店のマスターであり、私の実の兄でもある翔がグラスを磨いている。目が合うと、いつも通りの何を考えているのか分からない笑顔で、そっと肩をすくめてみせる。気障な所作だ。そこそこ顔が整っていて物腰が柔和なせいか、今の代になってから女性客が増えたという噂だが――私には、その魅力がさっぱり分からない。こんな変人の、どこがいいのだろう。
……と、今はとりあえず、この人は関係ない。
首を動かすと、ウェイトレスの礼子さんが水差しにお冷やを補充しているところだった。ちょうどいい。
「これ、借りますね」
「えっ……?」
礼子さんの返答を待たず、私は彼女から水差しを取り上げ、店の端に向かってずんずんと歩き始める。テーブル席の一つ――轟音は、そこから鳴り響いている。覗いてみれば、案の定だった。
大鷹大輔が、大の字になって寝ている。
黒のTシャツにジーンズという、いつも通りの服装で、テーブル席の椅子四つを豪快に占拠して大イビキをかいている。先程からの轟音の正体は、この男のイビキだったのだ。
私は改めて溜息を一つこぼし――大鷹の鼻目掛けて、極めて丁寧に、そっと水を注いでいった。
「――ごはっ!」
数瞬後、大量の水を吐き出しながら、大袈裟にむせる大鷹の姿が、そこにあった。
「大丈夫?」カウンターから、マスターがさして心配してなさそうな口調で、そう尋ねる。「だい、だいじょ、大丈夫じゃ、ねーっての……おぼ、溺れるかと思った……」
「喫茶店で溺死なんて、そうそうできることじゃないよ? 残念だなぁ。その奇跡の瞬間、ちょっと見てみたかったんだけどなぁ」
クスクスと笑いながら、爽やかに黒いことを言っている。身内の前でしか見せない、この男の本性である。
「アスカてめェこのやろォ! なにしやがんでェ!」
江戸っ子?
しかし、そのことを律儀に突っ込んでやる程、私も親切ではない。
「寝てるトコ、いきなり鼻に水入れられたら、さすがのオレだって溺れンだからなッ!」
『さすがのオレ』って、どこのどなたが『さすが』なんだろう――などという野暮なツッコミは、しない。しかし、私が黙っているのをいいことに、大鷹はさらにボルテージを高めていく。
「こっちは夜勤明けなんだよッ! 一晩必死に働き続けて、やっと睡眠時間がとれたってのに、オメーは何でそれを邪魔すンだッ!? そんな権利、誰にもねェ筈だろうーがッ! それとも何か、オレがオメーらに、何か迷惑かけたっってのかよ!?」
私の我慢も、ここまでが限界だった。
「イビキがうるさいのよッ!」
私の叫びが、店内に反響する。
「こっちは静かに読書したいのに、アンタのイビキがうるさすぎて集中できないのッ!」
「読書だったら家でやれやッ!」
私の正論に対し、大鷹は屁理屈で対抗してくる。
「ここは図書館じゃねェんだよッ!」
「だったら、アンタこそ家で寝なさいってのッ!」
「オレん家、エアコンないから暑ィんだよッ!」
「知るかッ! ここはネカフェでもカプセルホテルでもないんだからねッ! 涼しいトコで寝たいのなら、そっちに行きなさいッ!」
ダン、と足を踏み出し、真っ正面から論破してやる。
「第一、『何しやがんでェ』ってリアクションは何な訳!? アンタはいつから江戸っ子になったのよ? 地元民でしょーが! あと、『さすがのオレ』ってのは何? アンタのどこら辺が『さすが』なんだってのッ! 畜生道に落ちろッ!」
勢い任せに、呑み込んだ筈の台詞を全て吐き出してしまう。思っていたより、私は律儀で親切で野暮な性格だったらしい。
「……ギャアギャアと、うるさい女だなァ……」
私の剣幕に押されたのか、反論らしい反論もなしに、大鷹はそのまま、テーブル席に腰を下ろす。
「アンタだって、さっきは充分、ギャアギャア言ってたでしょーが――ねえ、マスターからも、何か言ってやってよ」
「ん? 僕?」
叫び疲れた私は、ずっと黙っているマスターに話を振ってしまう。
「……僕は別に、会長が店で何をしようと、文句なんてないけど?」
しまった――話を振った後で、私は自分の失敗を思い知る。
「いいじゃない。イビキの一つや二つくらい。幸か不幸か、この
時間帯はお客さんもほとんどいないんだし? 会長に寝床を提供できるのなら、僕としても喜ばしい限りだよ」
ニコニコと目を細めながら、マスターはそんなことを言う。
そう。そうなのだ。
『喫茶 宿木』の店長にして私の実兄でもあるマスター・宿木翔は、この十年来の親友に対して、滅法、甘いのだ。余談だが、マスターが大鷹のことを『会長』と呼称しているのは、高校時代、大鷹が生徒会長を務めていたことに由来している。そして、私も大鷹も、店内では一貫して翔のことを『マスター』と呼び続けている。別に強制された訳ではないが、いつの間にか暗黙の了解として定着してしまっている。まあ、そんなことはどうでもよくて。
「……マスター、甘やかしすぎ」
私は溜息混じりに苦言を呈する。
「別に甘やかしているつもりはないよ? 僕がそうしたいから、そうしているだけ。会長とアスカがギャアギャア言い合ってるの、端から見ていて面白いし?」
――この、腹黒糸目が。
「ね、礼子ちゃんもそう思うでしょ?」
私の気持ちを知ってか知らずか、今まで黙って拭き掃除に勤しんでいたウェイトレスの礼子さんに話を振るマスター。
「えっ!? あ、私は――」
いきなり振られて、露骨に狼狽している。それはそうだろう。マスターと私は実の兄妹、マスターと大鷹は高校時代からの親友。ここの三人は古くからの腐れ縁であって、こうやって喧嘩めかしたじゃれ合いは日常茶飯事のことだ。一介の従業員である礼子さんに入り込める訳がない。そういうことを分かっていて敢えて振るのだから、このマスターは本当に人が悪い。
「……あの、大鷹さんがいると、店内が賑やかになるんで、私は迷惑だと思ったことは、その、一度もないんですけど……」
何という優しさ。
私は感動していた。
高崎礼子さんは、私より五つ年上のフリーターである。つまり、今年で二十五になる筈だ。生真面目で熱心なうえに、頭が良く優秀なので、私たちの間での評価は高い。
ただ、彼女のメイクはナチュラル以下で、どうにも地味だ。ちゃんと化粧をすれば結構な美人になると思うのだけど。ファッションにも興味がないらしく、どうにもパッとしないのが残念。首から下げた十字架のペンダントだけが、唯一のオシャレだろうか。
大人しく、少し控えめすぎる性格だが――自己主張の強すぎる面子ばかりが揃っているこの店では、むしろ、それも美点として歓迎されている。この店で働き始めて二年以上になるが、私は未だに、この人が怒ったり不機嫌になったりするのを見たことがない。
「まいったな。礼子ちゃん、オレのこと好きだってさ」
「そんなこと、一言も言ってないでしょうが……」
脱力しつつも、私はツッコミという己の責務を果たす。
大鷹大輔――その字面からも分かる通り、大味で大雑把な人間である。体格も立派で、優に一八〇センチは楽に越えている。余計な脂肪はほとんどついていないのだけど、骨太のせいか、実際以上に横幅があるように見えてしまう。初対面の人間からは、ほぼ確実に何らかのスポーツをやっていたように見られるようだが、スポーツ経験は皆無である。
……いや、皆無と言ってしまうと、語弊があるだろうか。彼は十年ほど前まで、ある分野においてその名を知らぬ者がいない程の有名人ではあったのだけど――それが『スポーツ』と言えるのかどうかが問題だ。今となっては、どうでもいいことなのだけど。
顔立ちは美男子ともブ男とも違うが、かと言って凡庸な面相からも程遠い――そんな容貌をしている。髪は短髪、眉が濃く、目鼻立ちがはっきりしていて、特に目と口が大きい。
はっきり言って、濃い。
一回会ったら、忘れられないだろう。似顔絵に描きやすいこと、請け合いだ。きっと、逃亡犯には向いていない。
外見と同様、内面も派手で雑で大作りだ。思慮は浅く、思考は単純、発言は適当で、常に行き当たりばったり。さして根性がある訳でもないくせにすぐ精神論を持ち出すし、責任感は乏しいし、どうにも幼稚な印象が拭えない。
有り体に言えば――馬鹿なのだ。
それなのに、人望だけはあるから不思議だ。いつも、彼の周りには人が集まってくる。高校時代、成績は悪かったくせに生徒会長になれたのも、その人望故だろう。
では、その親友であるマスター・宿木翔はどうかと言えば――その個性は、驚くほど好対照と言える。髪は肩までの長髪で、目は一重で細く、常態でも笑っている印象を抱かせる。背も、男性にしては低い方で、体格も華奢――いわゆる、優男である。近隣ではイケメンマスターとして話題になっているらしい。……私は、全くそうは思わないのだけれど。
内面も、また、大鷹とは正反対だ。頭は、相当に切れる方だと思う。発想は柔軟だし、回転が速いうえに、妙なところで博識でもある。それは、妹の贔屓目を抜きにしても、そう思う。話術も巧みで、情報収集、情報操作にも長けている。その一方で、何らかの物事が起きた時に、すぐには矢面に立たず、一歩退いた所で傍観する悪癖が、この男にはある。思っていることは口にせず、安全なポジションから情報だけを抜き取り、そのくせ自分の持っている情報はほとんど開示せず、ここぞという段になってオイシイトコだけかすめ取っていくような――卑怯と言うか、狡猾と言うか――要するに、腹黒いのである。喰えない男なのだ。悪人ではないのだが、決して信用はできない。一番身近にいる人間だからこそ、余計にそう思う。もっとも、単純馬鹿である大鷹は、この親友のことを信頼しきっているようだが……。
「――まあ、僕の方は一向に構わないんだけどサ、会長はいいの? 今日、バイトは?」
「だから、今は夜勤だっての」
「ビルの警備員だっけ」
「そ。だから、しばらくはゆっくりできるって訳」
数分後、頼んだアイスコーヒーを啜りながら――さすがに何も頼まないでいるのは悪いと思ったらしい――大鷹はそう答える。
「今度のバイトは、長く続くといいね」
笑顔を固定したまま、マスターがそう言う。
大鷹は、地元の二流大学を中退した後、定職にもつかずにバイト先を転々と変えるという、根無し草のような生活を続けている。三十路間近だと言うのに、大した人生設計である。
「その時は、この店で雇ってくれよ」
「あー、今、人手は足りてるんだよねー。会長を雇いたいのは山々なんだけどサ」
大鷹を雇う気など一切ない癖に、涼しい顔で心にもないことを言っている。『腹黒く白々しく』というキャッチコピーが思い浮かぶ。死んだら墓石にそう彫ってやろう。
「だから、まあ、オレは夜までフリーなんだけどさ――でも、マスターだって、夕方までは店、暇なんだろ?」
この店のピーク時まで正確に把握しているらしい。毎日、店に入り浸っているせいだ。常連客と言えば聞こえはいいが、私にすれば、ただただ鬱陶しい。
「んー、それがそうでもないんだよねー。四時から、商店街の会合があるんだよ。ほら、毎年恒例の、納涼祭」
毎年この時期には商店街主催のイベントが行われる。客寄せを目的として行われる、地味な地方興行だ。しかし、いつまでも地味な出し物ばかりでは住民に飽きられてしまう。シャッター街を阻止するためにも、ここらで一つ、派手な花火を打ち上げたいところではあるのだけど――
「去年やったブタの解体ショーは、みんなドン引きだったしねぇ」
少し眉間に皺を寄せ、マスターが呟く。去年、肉屋メインで行われた、悪夢のイベントである。生きたブタを観客の目の前で締め、解体――ブタの断末魔、飛ぶ血飛沫、目に見えて引いていくギャラリーたち――何故、企画段階で誰も止めなかったのかが、未だに謎である。去年の納涼祭の時には、マスターも会合に出ていた筈だが――何故、止めなかったのだろう。この人のことだから、案外楽しんでいたのかもしれないけど。
「……で、まあ、今年は去年の教訓を活かして、もっと、子供からお年寄りまで楽しめて、派手で、かつ独創的なイベントをやろうと思ってるんだけど」
「欲張りすぎじゃね?」
珍しく、大鷹と意見が合う。マスターの口ぶりからは結構な余裕が感じられるが……何がしかのアイデアがあるのだろうか。仮にあったとしても、教えてはもらえないのだろうけれども。
「そういう訳だから、決して暇ってことはないんだよ」
「でもさ、別に、ここ貸し切りにするって訳でもねェんだろ?」
その時間までここに居座るつもりらしい。いつものことなので、驚くには値しないが。
「もちろんさ。と言うか、むしろいてもらいたいかなー。会長の意見も参考にしたいしさ」
耳を疑った。大鷹の意見を参考する? 商店街の未来を担うイベントの、会合なのだぞ? こんな駄目男の意見など聞いて、どうすると言うのだろう……。
「あの、マスター……」
今までのやり取りを黙って聞いていた礼子さんが、おずおず、といった感じで口を開く。
「会合の前に……その……」
何やらもじもじしている。どうやら、商店街の会合とは別に、何か大切な用事が控えているらしい。しかし、それを言うのを躊躇っている様子。チラチラと大鷹の方を見ているところから察するに、彼の前では言いにくいことなのだろう。
私は、その答えを知っている。
知っているけど、敢えて言わない。私も大概、悪趣味だ。この辺り、やはり兄妹だろうか。
「ああ、あれか――もちろん、分かってるよ。礼子ちゃん、準備お願いね」
「あ、はい、分かりました……」
言われるがままに、バックルームに下がっていく礼子さん。
「おい、あれって何だよ? 何かあンのか?」
「うん? まあ、会長には関係ないことだよ?」
「関係なくても、オレは聞きたいんだよ。礼子ちゃんは何をしに行ったんだ?」
「大事なお仕事さ」
怪訝そうな大鷹を相手に、マスターはどこまでも言葉を濁し続ける。こうなると、この人はもう絶対に口を割らない。ならば――私が、ネタばらしするしかあるまい。この後に訪れる展開を予想し、私は僅かに口元を綻ばせる。
「多分、新しい制服を取りに行ったんじゃない?」
「……新しい、制服?」
言葉の意味が理解できなかったらしい。無理もない。私は尚も言葉を紡ぐ。
「だからさ、新しく来るウェイトレスさんの、制服だってば。今日から、新人さんが入るんでしょう?」
「…………」
「…………」
店内の時間が止まる。
大鷹はじっとりとした視線をマスターに送っているが、当の本人は涼しい顔。明後日の方向を向いてグラスを磨いている。
「……おい、ヤドカリ」
「その渾名はやめてよ。僕はいいけど、明日香が嫌がるでしょう?」
露骨に嫌悪感を表に出しながら、人をダシにして抗議をするマスター。確かに、私もその渾名は嫌いだけれども。私たちの苗字をもじっただけの、ひねりのないネーミング。発案者は、他でもない大鷹だったりすのだが。
「店ではマスターって呼んでって言ってるじゃない」
「うるせえよ。そんなことよりオメェ、ついさっき、人手は足りてるって言ってなかったか? だから、俺は雇えないって、そういう話だったよな? 新しいウェイトレスってのは、どういうことだよ? 騙したのか?」
テーブル席を立ち、ツカツカとカウンターに近寄る大鷹。置いてあった水差しと空のグラスを手に取って、乱暴に水を注ぐ。この辺り、やたら手慣れている。
「騙した訳ではないよ」と、マスターは動じない。
「考えてもみてよ。喫茶店のウェイターだよ? 会長がやるような仕事じゃないでしょ。そんな器に収まってほしくないんだよ。会長は、僕にとってのヒーローなんだからさ」
よくもまあ、そこまで適当な台詞が吐けるものだ。そんな言葉で誤魔化せるのは、余程の馬鹿だけだろう。
「――確かに、マスターの言う通りだな。喫茶店のウェイターなんて、俺のやる仕事じゃねェよな」
余程の馬鹿だったらしい。マスターの言葉を真に受けて、大鷹は得意になっている。
「あ、会長、あまり入り口近くでウロウロしない方がいいよ。ドアが開くと危ないから」
「って言うかよ、今思ったんだけど――」
マスターの忠告を無視して、入り口付近をうろつく大鷹。馬鹿はどうして人の話が聞けないのだろう。……いや、人の話が聞けないから馬鹿、なのだろうか。
「俺の話は横に置いてもさ、わざわざ新しく募集することなんてなかったンじゃね? 人手は、充分足りてるだろ」
「いや、礼子ちゃんがウチとは別に新しいバイトを始めることになったから、交代制にしようかと思って――」
「そうじゃなくて。一番身近な所に、一番暇そうにしてる人間がいるだろ、って話」
言いながら、その視線をこちらに向ける。
「え……あ、私!?」
「オメェしかいねェだろ。何でオメェは働かねェんだよ。高校卒業してから、バイトもせずにフラフラしてるだけじゃんか」
「フラフラなんかしてないから! 私には、夢があるのッ! つまらない労働なんかに時間割いてる余裕なんてないのよッ!」
そうなのだ。私には夢がある。決して、毎日を無為に過ごしている訳ではない。大鷹のようなフリーターとは違うのだ。ちなみに、その夢と言うのは――
「小説家、だろ? 知ってるよ。でもオメー、毎日この店で本読んでるだけで、何も仕上げてねェじゃんか。毎度毎度、何か理屈つけてっけど、働いてないのは事実だろ? そういうの、ニートって言うんじゃねェのかよ?」
「に、に――」
一瞬で、全身の血が頭に上った。
「誰がニートよッ! 毎日本読んで、文章修行してるのがアンタには分からないの!? これだから、素養のない単細胞は嫌なのよッ!」
「だからそれが理屈だっつってんだろーがッ! バイトしながらだって文章は書けるし、オメーが言うとこの文章修行だってできンだろがッ! オメーは、マスターに甘えてるだけだっつのッ! マスターからも、何か言ってやれよッ!」
「明日香がやりたいようにやればいいと思うよー?」
ボルテージを上げながら口論を発展させる私たち二人を、マスターの緊張感のない声が弛緩させる。
「明日香の人生なんだし、兄の僕がどうこう口出しするつもりはないよ。夢を追い続けるなら支援するし、ね」
言っている内容は、本当にありがたいけど。確かに、私はマスターに甘えているだけなのかもしれないけど……。
「あと、会長、本当にその辺ウロウロしてると危ないよ?」
「大丈夫だっつの。商店街の会合は四時からだべ? この時間帯なんてロクに客来ねェんだから――」
ゴッ。
鈍い音と共に、大鷹が崩れ落ちる。数瞬遅れて、扉上部に付けられた鐘が、カランコロンと乾いた音を響かせる。どうやら、勢いよく開かれた扉が、大鷹の後頭部を強打したらしい。だから、人の忠告は素直に聞けと言っているのに――。
「おはようございますッ!」
扉の向こうから、張りのある大声が響き渡る。そこに現れた人物に、言葉を失う。金髪碧眼の美女である。背が高く、体は細くて、だけど出るところは出ていて――誇張でも何でもなく、モデルが立っているのかと思った程だ。
「本日からお世話になる。マリア・ヨークですッ! よろしくお願いしますッ!」
その場でペコリと大きくお辞儀している。マスターと、バックルームから段ボール箱を抱えて出てきた礼子さんも、ぽかんとしている。そして、大鷹は未だに頭を抱えて蹲っている。
「あの――ああッ! こちらは如何なさったのですかッ! 発作ですかッ! 誰か、この中にお医者様はいらっしゃいませんかッ!?」
大鷹に駆け寄り、慌てふためいている。どうでもいいが、ずっと声量がマックスだ。
何と言うか。
大鷹とマスターが変人で、私と礼子さんが常識人ポジションだったのだけど――ここに来て、そのバランスが危うくなってきた。
この、金髪碧眼の新人ウェイトレスは、間違いなく変人だ。