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第三章 2 本間雫

 蒸し暑い。

 天気予報では、夕方から一雨くるとのことだった。空には確かな質感を持った黒雲が立ちこめ、町の不快指数を底上げするのに一役買っている。

 こんな日はあまり外に出たくないのだが――そうも言っていられない。私は刑事なのだ。捜査員なのだ。事件解決のために、やれるだけのことはやらなくてはならない。

 朝イチの捜査会議で、ある決定的なことが明らかになった。まだ確証はないが――それが本当だとしたら、大事(おおごと)になる。いや、もちろん、今でも十分に大事(おおごと)なのだろうけど。

「本当に、そんなことがありえるんでしょうか……」

「過去に数例、似たような事件が報告されているみたい。そのどれもが軽傷か、ひどくても重傷で、ここまで酷くなかったけど……」

 モヤモヤしたものを抱え、二人は駅前を進む。今日も今日とて、地道な聞き込み捜査である。しかし、昨日までとは状況が変わっている。目撃証言探しなのは相変わらずだが、その意味がまるで違うのである。いずれにせよ、雲を掴むような話ではあるのだが……。

 駅前のロータリーを抜けてしばらく歩くと大きな通りに出る。右手には急な上り坂が伸びていて、坂を上がりきると住宅地へと続いている。例の事件現場は、そのずっと先だ。

 通りを横断して直進すると、昨日寄ったばかりの駅前商店街に到着。いくつかの商店をすぎると、右側に折れる路地が見えてくる。路地入り口にはコインランドリー、奥には居酒屋が控えている。店の前には二つばかりの机が置かれ、オープンカフェのような形式になっている。そのうちの一つで、アロハシャツを着た三十代くらいの男がビールを飲んでいるのが見える。まだ昼間だと言うのに、いいご身分だ。

「先輩、あれ……」

 滝山が、コインランドリーから出てきた女性を指さす。かなりの細身で、ジーンズにキャミソールというラフな格好である。後ろ姿しか見えないが、肩まで伸びた金髪で、すぐにそれが誰か分かった。

「昨日の喫茶店にいた、外国人のウェイトレスですね」

 滝山も気付いたようだ。あの面子の中では一番インパクトがあったから、覚えていて当然だろう。美人でスタイルのいい外国人というだけでも相当なのに、あまつさえ、ミニのエプロンドレスなどという服を着させられていたのだ。あれだけ見たら、どこぞのパブかキャバクラかと勘違いしてしまいそうである。

 ちなみに、私は彼女よりむしろ、別の人物が気になっていたのだが――それは余談である。

「洗濯していたんですかね」

「コインランドリーから出てきたんだから、そうだろうね」

 手ぶらで、洗濯かごの類が見当たらないのは、まだ洗濯か乾燥の途中だからだろう。今日は午後から天気が崩れると予報では言っていた。それを見越してコインランドリーを利用しているだけの話で、何ら不自然ではない。私はすでに、彼女に対する興味を失いつつあった――のだけど。

 ――バン。

 どこかで、くぐもった音がした。

 重いモノが落下した――いや、木の板か何かが叩き割られたような――最初に反応したのは、前を歩く外国人の彼女だった。俊敏な身のこなしで踵を返し、路地へと駆けだしていく。

「……行ってみよう」

 訳は分からないが、その後を追う。何やら、とてつもなく嫌な予感がする。

 そして、その類の予感は、往々にして、当たる。

 路地への角を曲がった所で、曇天を裂くような盛大な悲鳴が通りにこだまする。見れば、先ほどの彼女が喫茶店の手前にある空き地に向かう形で腰を抜かしていた。

「どうしました!」

 体に染みついた警察官の習性で、全力疾走で彼女のもとへと向かう。天候のせいか時間帯のせいか、路地に他の人影はない。

「そ、そこに、人、人が……」

 彼女の指さす先には、一メートルほどの段差をおいて、ぽっかりと大きな穴が空いていた。そのすぐ後ろには、『注意! 落とし穴あり』の文字。すぐに合点がいった。食肉センターから脱走したブタを捕獲するための落とし穴だ。今の私たちにとっては非常にタイムリーとも言える。

 ――なんて、そんなことはどうでもよくて。

 通常であれば、穴は薄いベニヤ板で蓋がしてあって、その上にブタが好む臭気を発する飼料が乗せてある筈なのだが――今は、それがない。いや、あるにはあるのだが、板は真っ二つに割られ、飼料も穴の縁に飛び散ってしまっている。

 本来、板が覆っている部分には、今、大きな穴が空いていて――私は躊躇することなく、そこを覗き込む。

 中学生ほどの少女が、そこにいた。

 頭が底、足が縁という逆さまの体勢で、穴の内壁に背中をつける形で落ちている。髪は黒のショートヘアで、水色のパジャマを着ている。足は、何故か裸足だ。幼さを感じさせる可愛らしい顔つきで、目は閉じられている。

 絶命しているのは、明らかだった。

 首を真横九〇度に曲げられて生きている人間はいないからだ。

 頭部を底に擦りつけるような形になっている所を見ると、落下の衝撃で首を折ったのか――あるいは、首をへし折られた後に、穴に放り込まれたのか……。

 ひっ――と、息を吸い込む音で我に返る。

 振り向くと、黒髪ショートの、ブラウンのエプロンをした地味目な女性が、口を押さえて立っている。あの喫茶店の従業員だ――と思っている間に、さっきの悲鳴を聞きつけたのか、店主の宿木、その妹、そして大鷹大輔といった面々がゾロゾロと出てきて、皆して穴を覗き込んでくる。

「どうして……」「うわ、ひでえ」「死んでるの?」「…………」

 従業員の女性、大鷹、宿木の妹が、口々に勝手なことを言っているが、やはりショックなのだろう。皆、声が震えている。そんな中で宿木だけが唯一無言なのが、気になると言えば気になる。

「せ、先輩、これって……」

 滝山も同様に、周章狼狽している。

 しかし、私は自分でも驚くほどに冷静だった。

 これは事故なのだろうか――否、中学生にもなろうという子が、決して低くない段差を乗り越え、注意書きの看板を無視してわざわざ穴に落ちていくとは、到底考えられない。

 ならば、後ろから強く突き落とされたのか――それとも、首をへし折られた後で放り込まれたのか――。

 瞬間、怖気(おぞけ)が走った。

 考えるより前に、体が走り出していた。

 何故、今の今まで気が付かなかったのだ。殺人と仮定するなら、犯行は音がした瞬間――つまり、ついさっきではないか。

 ならば、犯人はまだこの近くにいる可能性が高い。

 しかし、その推測は空振りに終わる。

 路地の奥は、花屋と喫茶店が向かい合う形で建っていて、その横には、高さ三メートルはあろうかという塀が高々とそびえていたのである。塀と店との間はほとんど空いておらず、人の通行は不可能。塀自体も、取っ掛かりも凹凸もないのっぺりとしたコンクリートでできており、よじ登ることは恐らく無理。もちろん、梯子や階段の類もない。

 見上げる私の顔に、ポツポツと水滴が当たる。とうとう降り出してきたらしい。慌てて踵を返し、路地の入り口、ランドリーの向かいにある居酒屋へと走る。屋外のテーブルに、すでに人の姿はない。大粒の雨が降り出したことで、店内に避難したらしい。

 店の暖簾をくぐると、やはり先ほどのアロハシャツの男はジョッキ片手にカウンターを陣取っていて、店主の白井と談笑しているところだった。私が駆け込んできたことで、二人揃って怪訝そうな顔をしている。

「あの、この何分かで、この路地から出てきた人間はいなかったですか?」

 前振りを省略し、単刀直入に用件だけを切り出す。

「あぁん? ……ああ、いや、変な音がして、金髪のオネーチャンが走ってって、んでアンタらがその後をついてって――それっきりだよ。それ以降は、誰も出入りしてねえよ」

「本当ですか」

 嘘を言っているようには見えないが、相手は酒を飲んでいるのだ。勘違いや見逃し、ということも充分に考えられる。

「いや、お客さんの言ってることは本当だヨ、刑事さん」

 カウンターから、店主の白井が声をかけてくる。昨日、聞き込みに来たこともあって、お互いに顔を覚えているのだ。

「俺もそこの窓からそれとなく見てたけどよ、マリアちゃんが行って、アンタらが行って、それっきりだよ。間違いない」

 白井の指さす先には、路地に向かう大きな窓がある。なるほど。ここから見ていたのなら、確かに路地の出入りは丸分かりだろう。

「そう、ですか……」

「何だい、血相変えて。また何かあったのかい」

 軽い口調で白井が聞いてくるが、今それに答えている余裕はない。後で詳しくお話しします、とだけ言い残して店を後にした。

 ――どういうことだろう。

 奥は突き当たり、入り口には白井たちの目があって、共に行き来不能。これが殺人だと仮定するなら、犯人は忽然と姿を消してしまったことになる。ならば、やはりこれは事故なのか。それとも、まだこの路地にいるのか――あるいは、路地に面する店のどこかに隠れているのか……。

 被害者が転落した穴の前には、先ほどのメンバーがそのままの格好で残っていた。他に野次馬がいないところを見ると、まだ騒ぎにはなっていないらしい。

「……一旦、署に連絡します。ちょっと、お店で待たせてもらってもよろしいですか?」

「もちろん。どうぞどうぞ」

 柔和な笑顔を見せながら、自店へと招き入れる宿木。他の面子が揃って蒼白な顔色をしているというのに、この男はあまり顔色に変化がない。相変わらず、何を考えているか分からない。

 振り向くと、他の人間たちはその場を動こうとせず、じっと穴の底を見つめている。

「大鷹さん、店に戻ってください」中でも、一番大柄で派手な顔立ちをした男に声をかける。「妹さんも――風邪をひきますから」

「あ……はい」言われるまま、ノロノロと緩慢な足取りで、一行はその場を移動する。

 喫茶店の軒下を借り、署に連絡を入れる。雨は激しさを増し、雨粒が屋根を叩く音が店内にまで響き渡っている。私は滝山と共にテーブルにつき、マスターの煎れてくれたアメリカンに口をつけながら、内心では激しく動揺していた。

 この事件は、何なのだろう。

 殺人なのか、事故なのか。

 殺人なのだとしたら、犯人はどうやって路地から消えたのか。

 事故なのだとしたら、あの子は何故そんな過失を犯したのか。

 そもそも、穴に落ちたあの子は、何故パジャマに裸足なのか。

 この事件は、私達が追っている通り魔事件と関係があるのか。

 いくつもの疑問が一気に噴出し、私の脳蓋を引っ掻いていく。

 本当に、訳が分からない。

 だけど。だけれど。

 そんな混乱など、実は序の口にしかすぎなかったのだと、すぐに思い知らされることになる。

 喫茶宿木に来て、署に連絡を入れ、コーヒーに口をつけて――その間、僅か十分にも満たなかっただろう。

 一息を入れた私は、だいぶ落ち着きを取り戻す。そうすると、遺体の様子が気になってくる。そう言えば、現場がそのままだ。遺体を雨ざらしにしておくのも、マズいだろう。穴に蓋をするような、板かシートを借りる必要があるかもしれない。

 店から傘を借り、土砂降りの路地へと一人踏み出す。店から現場までは徒歩数秒。無駄な思考を垂れ流すことなく穴を覗いた私は――そのまま、傘を落とした。

 遺体が、消えている。

 自前のスーツが濡れるのも構わず、私はいつまでもそのまま、その場に呆けたように突っ立っていた……。

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