第三章 1 宿木明日香
何だか、私の知らないところで不穏なことが起きているらしい。
もちろん、世で起きている出来事のほとんどは私の知らないところで起きているのだろうけど、問題なのは、その出来事が私の生活圏で起きているということにある。
一つは、ブタの脱走騒ぎ。
もう一つは、この町で起きた二件の殺人事件だ。
前者は、食肉センターの管理体制が問われる事件として、地方紙などを賑わせている。二頭のブタは未だに捕まっていないらしいが、捕獲されるのも時間の問題だろう。
問題は、後者の方だ。
事件そのものは、もちろん私も新聞やテレビ、ネットニュースなどで知っていたが――それはごく近所で起きたというだけの話で、全ては対岸の火事だと思っていた。
昨日、刑事が店に聞き込みに来るまでは。
呉藍署の刑事と名乗る二人の男女が現れたことで、完全に他人事だと思っていた事件が、にわかに現実性を帯びてしまった。
単純な強盗殺人なら、まだいい。だけど、それが狂気を孕んだ通り魔殺人だと思うと――やはり、恐ろしい。フィクションの世界なら何とも思わないが、現実と地続きとなると、話は別だ。
「物騒な世の中になったよねー」
グラスを磨きながら、マスターがそう言う。この人の場合、何を言っても涼しげなので、どこか白々しく聞こえてしまう。
「マスター、本当は興味ないでしょ?」
「興味なくはないさ。二人もの人間を殺めた通り魔がこの町を闊歩しているとなれば、恐ろしくて夜も眠れない。二十歳の妹を持つ身となれば、尚更ね」
……何故だろう。
言っている内容自体はまともなのに、まるで心に響かない。
一番近い肉親なのに、この人の本意が時々分からなくなる。
「大丈夫だろー」後ろの席で、大鷹が緊張感のない声を出している。
「明日香、滅多に外出ないんだからさ。引きこもりの人間なんざ、通り魔だって狙えねェって」
「だから私は引きこもりじゃないって言ってンでしょッ!?」
思わず立ち上がっていた。
「こっちは、割と真剣に怖がってるんですけど!?」
「冗談だよ、本気にするなや。と言うか、水差しを置け。オメェ、その水差しで何するつもりなんだよ」
無意識に水差しを手に取っていたらしい。何故水差しなど手にしたのか、自分でも分からない。
「おっかねェなァ……。もう二度と店で溺れそうになるのなんてゴメンだからな」
そう言って、私から離れた所に水差しを置く。警戒されたものだ。
「まァ、ブタの脱走や通り魔も確かに気になるけどさ……オレは、もっと別の所が気になるかなァ」
間延びした声で、話を強引に戻す大鷹。
「別の所って何よ」
「あの新人ウェイトレスだよ」
「マリアちゃんのこと?」マスターが口を挟む。
「彼女、見た目以上に優秀だよ? 物覚えは早いし、要領もいい。少し賑やかすぎるけど、接客にも向いてるし――ね、礼子ちゃん」
「え!?」
急に話題を振られて、何か作業中だった礼子が慌てて振り返る。その拍子に、胸元のペンダントが揺れる。黒い十字架のロザリオペンダントは彼女のお気に入りだ。
「マリアちゃん、ですか? そうですね……一度言ったら完璧に覚えてくれるし……。お皿割ったりしたのも、最初だけでしたしね。私も、あのテンションはどうかと思いますけど……」
やはり、皆あのハイテンションはどうかと思っているらしい。
「いやいやいや、そうじゃなくてよ。仕事ができるできないとか、テンションが高すぎるとか、んなこたァどうでもいいんだよ」
「じゃあ何よ」
「オメェもその場にいただろ。昨日のことだよ。あの娘、帰ってく新山さんを睨んでたって言うじゃねェか。あの場では何でもないって誤魔化してたけど、オレにはピンときたね」
「と言うと?」絶妙な間でマスターが合いの手を入れる。
「決まってンじゃねェか。あの二人、過去に何かあったんだよ」
「えぇ!?」
礼子が驚嘆の声を上げているが、大鷹は構わず続ける。
「新山さんの方は、忘れてるかトボけるかしてるっぽいけど、彼女の方はそうじゃなかったんだな。みんなの前では、隠していた。隠していたんだけど、ふとした気の緩みで、秘めてた感情が面に出てしまった――」
「言っておくけど、マリアちゃん、日本に来てまだ一ヶ月だからね」
マスターが意外な事実を口にする。あれだけ流暢な日本語を使えるのだから、少なくとも数年は、日本に滞在していたものと思っていたのだが……。
「じゃあ、新山さんが向こうに行った時に二人は出会ったんだよ」
「うん、新山さん、日本から出たことないから。あの二人は、この前の会合が正真正銘の初対面」
「じゃあ、あの娘は会って間もない人間を睨んだりしたのかよッ!? それとも、何か? この短い間に、何かあったってのか!?」
自分の妄想が否定されて、激しく逆ギレする大鷹。だけど、今の話で私の頭には一つの考えが浮上していた。
「……もしかしたら」おずおずと、口にしてみる。
「新山さん――何もしてないのかも」
「は? 何もしてない人間を睨んだりするかよ」
「そう……新山さんが何かした、とかじゃなくて、あの人は多分、新山さんの属性に対して良くない感情を抱いてるんじゃないかな」「ゾクセイ? 何の話だよ」
鈍い大鷹は気が付かない。マスターは恐らく気が付いているが、ニコニコと笑ったままで口を開こうとしない。そんな私たちを、礼子は不安そうに見ている。
「新山さんの職業って、何?」
「肉屋だろ?」
「そう――マリアさんはきっと、肉屋さんが嫌いなんじゃないかな」
「はァ!? ンなヤツいるかよ!?」
「いるのよ。厳密に言うと、『ブタの食用に関わる全ての人』が、許せないってとこかな」
「頼むから、分かるように言ってくれ」
「会長は、『反ブタ食』って言葉、聞いたことない?」
物分かりの悪い大鷹を見かねてか、マスターが助け船を出す。
「反ブタ食――ああ、ニュースで聞いたことあんな。守護者とかのことだろ?」
「それは過激派の最右翼だね。あそこまで極端じゃないにしても、反ブタ食って考えは昔から根強くあって、海外、特にマリアちゃんの本国が主流になってるらしい。まあ、現代になってもブタを日常的に食しているのは日本くらいのモノだからねェ。世界的に見れば異端なんだろうし、向こうの人からすると野蛮に見えるのかもしれないけどね」
「意味分かンねェ。牛や鶏はよくて、何でブタだけ駄目なんだよ」
「ブタは他の家畜に比べるととりわけ知能が高く、大人しくて従順な性格だから、ってのが主な理由だけど――まあ、今ここで反ブタ食の是非を論じるつもりはないよ。とにかく、マリアちゃんは反ブタ食主義者で、肉屋の新山さんに対して敵愾心を抱いているのかもしれない――と、明日香はそう考えてる訳だ」
「違うの?」てっきり、それが正解だと思っていたのだけど。
「さあねえ……」興味なさそうに、マスターは小首を傾げる。
「人にはそれぞれ事情があるし、主義や思想も様々だ。僕は何も強制しないし、禁止もしない。それに、詮索するつもりもないよ」
そうはっきり言われてしまうと、返す言葉もない。マリアに関してああだこうだと詮索していた私たちが馬鹿みたいだ。
「まあ、マリアちゃんと新山さんがかつて恋仲だった、なんて妄想よりかは、明日香の考えの方がいいと思うけどね」
「別にどっちだっていいだろ」
「よくないよ。店のウェイトレスが二人して新山さん相手に恋の鞘当て演じるなんて、ぞっとしないじゃない」
「そりゃそうだろうけどなァ……」
「大鷹さん! 適当な返事しないで! 今この人、割と重要なことをサラリと言ったんだよ!?」
「あ? ん? 店のウェイトレスが二人して――って、は!?」
驚いた声を上げ、素早く視線を彷徨わせる大鷹。そしてその視線は、礼子に向いたところで停止する。
「え!?」
「うるさいなァ、会長は……」
「いやいやいや、何を言ってンだよオメェは。今の言い方だと、礼子ちゃんと新山さんが付き合ってるみたいじゃねェか」
「僕はそう言ってるんだけど?」
何でもないことのように、マスターはそう言う。
「知らなかった?」
知らなかった。
礼子も新山もかなり身近な存在で、身内同然と思っていただけに、今の今まで知らなかったのは、ショックだ。
「マジか……」
大鷹も同様だったらしい。頭を抱えて項垂れている。
「え、礼子ちゃん、本当なのかよ。その、新山さんと付き合ってる、ってのは」
「あ、ハイ……」
「いつから?」
「……半年くらい、前から」
僅かに顔を赤らめながら、礼子は答える。どうやら本当のことらしい。道理で、さっき大鷹が妙な妄想を語った時――二人の過去に何かあったのでは、というアレだ――驚いた声をあげていた訳だ。
「そっか……。マジなのか……。そうか……」
「――そんなに? 会長、礼子ちゃんと新山さんが付き合ってたの、そんなにショックだった?」
「まあなあ……」
「もしかして大鷹さん、礼子さんを狙ってたとか?」
横から茶々を入れてみたものの、何となく、それはないなと思っている。態度を見れば分かる。時々セクハラめいた言動をしたりはするが、本気で惚れている訳ではないように思える。
「いや、そういうんじゃないけどよ……何か、へこむだろうが……」
何やらモゴモゴ言っている。うまく説明のできない感情らしい。
「……あの、何か……すみません」
顔を赤くして、礼子は頭を下げている。
「気にすることないよ、礼子ちゃん。会長は、若くてカワイイ女の子と話がしたいだけなんだから」
キャバクラへ行け。
「人をエロオヤジみたいに言うんじゃねェよ!」
さすがに、今のマスターの発言は聞き逃せなかったらしい。しかし、マスターは怯まない。
「実際その通りじゃない。今は礼子ちゃんのことでショック受けてるけど、すぐマリアちゃんに乗り換えるんだから。第一、礼子ちゃんに彼氏がいたから何だって言うのさ。別に、礼子ちゃんとどうこうなりかたかった訳じゃないんでしょう? 小さい頃から面倒見てもらってるから分かるけど、新山さん、本当にいい男だよ? 礼子ちゃんを憎からず思っているのなら、祝福してあげるくらいの度量を見せられないでどうするのさ。そもそも、会長はね――」
クドクドと説教を始めるマスター。何かスイッチが入ってしまったらしい。大鷹は、嫌そうな顔をしながらも黙って聞いている。
呆れるほど、日常的な光景だ。
通り魔だのブタの脱走だので怯えていたのが、馬鹿らしくなってくる。あと数時間で、大食いのシミュレーションが始まる。今は、その前の束の間の日常時間。きっと、こういう何でもない時こそが一番大切なんだろう。
私は、私の日常を生きるべきなのだ。
頬杖を突き、私は窓の外を見る。今日は朝からやたらと蒸し暑く、空には一面曇り雲。いつ降り出してもおかしくない。まあ、雨で暑さが少しでも和らぐなら、降ってもいいのだけど――。
と。
店の外、奇妙な人物が歩いているのが目に入った。
水色のパジャマを着た、中学生くらいの女の子だ。髪が短いので、遠目だと少年のようにも見える。見たことのない顔だ。
向かって右から左へ、まっすぐと、だけどフラフラとした足取りで歩いている。目も、焦点が合っていない。明らかに不審だ。
私は表を歩く彼女を目で追っていたが、すぐに電柱の影に隠れて見えなくなってしまった。
数秒して。
バンと、何かが割れたような音が、往来に響いた。
皆と顔を見合わせながら、私は非日常の到来を予感していた。




