第二章 3 松岡健太
「はい、コーラお待たせ致しましたーっ!」
夕方の喫茶宿木に元気な声が響く。昨日入った新人ウェイトレス、マリアだ。金髪碧眼の外国人だが、日本語は流暢。顔つきも体つきも凹凸がはっきりしていて、マスターの意向なのか、彼女だけミニのエプロンドレスを制服としてあてがわれている。目の保養にちょうどいい。最初は、これでもうちょっと落ち着きがあれば完璧だと思っていたのだけど――慣れると、これかこれで、心地よくなってくるから不思議だ。
時刻は午後五時近く――花屋の店番を母親に任せ、向かいにあるこの店で一時休憩をとるのがおれの日課だ。何もせず、何も考えず、ボーッとするだけの、ただただ非生産的な時間。喫茶宿木は、そんな非生産的な時間をすごすには最適だった。マスターと常連客で紡がれる、居心地のいい日常空間――。
ただ、今日は少しだけ違っていた。
カウンターの内側で、マスターと大鷹大輔、肉屋である新山守の三人が、真剣な面持ちで、何やら話し合っている。
「アンタって、いつもコーラだね」カウンターの隅から、マスターの妹、明日香が話しかけてくる。「飽きないの?」
「いいだろ、別に。好きなんだよ」うるさそうに、おれは答える。「お前こそ、いつもカプチーノじゃん。飽きねえのかよ」
「いいでしょ別に。好きなのよ」
どうでもいいが、人と話す時くらい、文庫本から顔を上げたらいいと思う。中学の時からこうだったから、今更どうとも思わないけれども。
「あの三人、何の話してるんだ?」
「知らない? 昨日、納涼祭で大食い大会やることになったでしょ。だから、大鷹さんがどれだけ食べられるのか、見てみたいんだって」
「シュミレーションってことか」
「シミュレーションね。正しくは」
細かいことにうるさい女だ。
「マスターは場所の提供者で、新山さんは食材の提供者って訳」
「ふうん……」
「アンタも商店主の一人なのに、白井さんから何も聞いてないの?」
「知るかよ。花屋が大食い大会にどう関わるってんだ。せいぜい、会場の飾り付けに協力するくらいのもんだろうが」
「それもそうね」
珍しく素直に引き下がる。おれに興味がないのか、それとも読んでいる本が面白いのか――恐らくは、その両方なのだろうけど。
「んで、その『シミュレーション』ってのは、いつやるんだよ」
わざと強調して言ってやった。反応はないが。
「……明日」
「明日!? 昨日の今日で、もう明日かよ!?」予想外で、思わず大きな声を出してしまう。「急だなー」
「白井さん、いつも急じゃない。せっかちと言うか」
「納涼祭、一ヶ月後だろ? だったら、そんなに急がなくたっていいじゃねえか」
「私に言わないで、白井さんに直接言いなさいよ。早めに準備して、万全の状態で臨みたいんじゃないの?」
慎重なのか慎重でないのか、よく分からない。
居酒屋店主で商店主組合会長の白井は、アイデアマンで仕事が早いのはいいが、仕事が早すぎるのが玉に瑕だ。彼個人は、至って人のいいオヤジではあるのだけれど。
と、大鷹と新山の二人がカウンターから出てくる。おれが明日香と話している間に、段取り決めは終わったらしい。
「新山さん」店の隅で礼子と談笑している新山に声をかける。
「大食い大会って、何を食材として出すんですか?」
「ポークステーキだ」
簡潔に答える新山。落ち着いた口調は、古武士を連想させる。
「一枚二〇〇グラムのやつな」
「二〇〇グラムっスか? 思ったより小さいんですね」
「一枚あたりのグラム数を減らすと、必然的に皿の枚数は増える。完食した皿をテーブルの隅に積み重ねることで、観客に対して視覚的にインパクトを与えられるそうだ」
「それは、マスターの案ですか?」
「もちろん、そうだ」
だと思った。あの人の考えそうなことだ。こういう小細工は大得意なのだ。よく言えば、細かい気配りができる、といったことになるのだろうけど……。
当の本人は、ニコニコと笑いながらグラスを磨いている。相変わらず、底を見せない表情だ。対する大鷹は、ムスッとした顔で、口数も少ない。何か不機嫌になるようなことでもあったのだろうか。「そう言えば、そのステーキの代金って、誰が出すんですか?」
「組合の会費で落ちることになっているらしいな」
つまり、大鷹はタダでステーキ食べ放題、という訳だ。いや、それどころか、組合の要請で大会に参加する訳だから、それ相応の報酬も支払われるのだろう。
――ステーキ食べまくって金貰えるなんて、羨ましい。
心の中で、そんなことを思う。
「……何なら、健太も参加してみる?」
不意にマスターが声をかけてくる。
「は? 俺が? 何で?」
「タダでステーキ食べ放題なんだから、いいじゃない」
……サトリの化け物か、この人は。
「なら、対戦相手っていう設定で、参加すればいいよ。会長を負かすくらいの気持ちでさ」
「勝てる訳ないじゃないスか! 相手はプロのフードファイターですよ!?」
「や、別にプロじゃねーし」ちゃんと聞いていたらしい。後ろのテーブル席で、大鷹が億劫そうに答える。「とっくに引退したしな」
「勝とうとしなくていいのさ。ただ、健太なりに本気を出してくれればいい。それで十分にシミュレーションになるんだからね」
「それなら、まあ……」
結局、マスターに言いくるめられる形で、参加が決定してしまう。大食いなんてやったことないが、タダでポークステーキが食べられるのだ。明日は昼食を抜いておくことにしよう。
また明日、と言い残して、新山が去っていく。店も営業中だし、そこそこに忙しいのだろう。そう言えば、今日明日と、両親が温泉旅行に出かけているのだとか言っていた。店番を母親に任せて喫茶店でサボっている、そこそこに暇なおれとは大違い。
それとなしに新山の背中を目で追っていたおれは、彼を見つめる視線がもう一つあることに気が付く。そして、驚く。
マリアが、強張った顔つきで新山を睨み付けていたからだ。
表情はなく、その目付きは氷のよう。普段の、快活でテンションの高い彼女とのギャップが激しい。
――新山さんに、恨みでもあるのかな……。
心の中で思った、その時。
「ひぃッ」
頓狂な声を上げて、マリアが振り返る。おれの気配を感じたのだろうか。鈍感そうに見えて、なかなか油断ができない。
「なななな、何ですかッ! ワタシに所用ですかッ!?」
妙な言語チョイスで狼狽を表現するマリア。
「いえ、あの――新山さんを睨んでたんで、何かあったのかな、と」
下手に誤魔化しても誤解を招くだけだ。おれは正直に思ったことを口にする。
「……何でも、ありません」
どこか強張った口調で、彼女はそう答える。
「いや、でも、さっきの睨み方は――」
「睨んでなんかいませんってばッ!」
言い捨て、マリアはバックルームに走り去ってしまう。
おれたちが騒いだからか、カウンターの中の礼子も、カウンターから出て大鷹や明日香と何やら話していたマスターも、こちらを見てポカンとしている。
「……どうかされたんですか?」
食器洗いをしていた手を止めて、礼子がおずおずと聞いてくる。しかし、聞かれても答えようがない。
「いや……今、マリアさんが帰っていく新山さんを睨み付けてたように見えたから、どうかしたのかと思ったんですけど……」
「マリアさんが新山さんを? あの二人、知り合いだっけ?」
「どうかな。昨日の会合の時が初対面だったと思うけど?」
マスターも怪訝そうだったが――数瞬後には、いつもの涼しい表情に戻っている。何かを察したらしい。
「まあ、みんな色々あるさ。あまり詮索するべきじゃないんじゃないかな?」
マスターはよくこういう態度をとる。
少ない情報から自分だけ何かを嗅ぎ取り、決してそれを他人に気取らせない。それが誰かの不幸に繋がることなら尚更だ。もちろん、おれだって別に、詮索するつもりはないのだけれど……。
どこか釈然としない気持ちで、おれはすっかり温くなったコーラに口をつけたのだった。
ちょっと休憩するつもりが、随分と長居してしまった。そろそろ帰るか――と腰を浮かせかけたのと、新しい客がやってきたのはほぼ同時だった。
「いらっしゃいませーッ!」
その頃にはマリアも復活していて、いつも通りの元気な挨拶を繰り出している。先程のことなど、まるでなかったかのようなテンションだ。
入ってきたのは、二人組の男女だった。
一人は二十代後半のスマートな女性で、黒のスーツ、ロングヘアーを後ろで束ね、縁なしの眼鏡をかけている。有能なキャリアウーマンといった風情だ。
一方の男はまだ若く、歳は二十代前半だろうか。首回りが太く、スーツを着ていても筋肉質なのがよく分かる。
会社の上司と部下、といった感じだが、何か不思議な緊張感をまとっている。どういう人間なのだろう――というおれの疑問は、すぐに氷解した。自ら名乗ってくれたからだ。
「呉藍署の本間です」
「滝山です」
警察手帳を示しながら、順番にそう言う二人の刑事。
警察が、何故この店に。
咄嗟にマスターを振り向くと、口を開け目を丸くして驚いている。突然刑事が店に来たのだから当然だし、他の面子もほぼ同じような反応だが――このマスターが、ここまで驚いた顔をするのも珍しい。
「先日、近くの住宅地で起きた殺人事件に関して幾つか質問したいのですが――よろしいですか?」
殺人事件。
そう言えば、そんなこともあったか。母親や客が何度も話題に出していたのを思い出す。近所で起きたこととは言え、どうせ強盗か何かだろうと軽く思っていたのだけど……。
「えっと……その事件のことなら知っていますが……お役に立てるような情報は、何も……」
まだ驚きから立ち直ってないらしい。マスターの言葉はどこかしどろもどろで、普段の明晰さがあまり感じられない。
「どんな些細なことでも結構です。この数日、この辺で妙なことが起きたとか、不審な人影を見たとかでもいいのですが」
本間刑事はそう言って食い下がるが、皆、不安そうにお互いの顔を見合わせるばかり。誰一人として有用な情報は持ち合わせていないらしい。
「申し訳ありませんが……」
代表してマスターがそう言う。
「そうですか。何か思い出したら、署の方にご連絡ください。お時間をとらせました。失礼します」
ぺこりと頭を下げ、本間、滝山の両刑事は店を出て行こうとする。恐らく、この辺り一帯、同じことを聞いて回っているのだろう。いわゆる一つの、地道な捜査というヤツだ。仕事とは言え、ご苦労なことだ。
そのまま辞去するかに見えた刑事たちだったが、何かを思い出したように足を止め、振り返る。
「……あと一つ、これはどうでもいいことなんですけど」
本間刑事の、眼鏡の奥の目が光った気がした。
「こちらは、なんというお店ですか?」
店名を聞いているらしい。そんなもの、表の看板を見れば簡単に確認できる筈なのに。
「『喫茶宿木』と言います」
口元に微かな笑みを浮かべながら、マスターが答える。その笑みの意味が分からないが――
「やはりそうですか……。ありがとうございました」
今度こそ本当に店を去っていく刑事達。何だ、今の遣り取りは。何だかひどく釈然としないモノを抱えながら、おれは笑みを残したままでいるマスターの顔を見つめていた。