第二章 2 本間雫
目の前をトラックが通り過ぎていく。
車体には、大きく『呉藍食肉センター』の文字。
荷台には、無数のブタの姿。
泥だらけで狭い空間に押し込められ、盛んに鳴き声を発している。少し離れた所に立っている私にまで、悪臭が漂ってくる。このトラックは、どこへ向かうのだろう。別の厩舎に搬入されるだけなのだろうか。それとも――
――やめよう。
見れば見るだけ、陰鬱な気持ちになってくる。もっとも、私が顔を背けるまでもなく、トラックはもう遙か向こうまで行ってしまっているのだけど。
この呉藍町は、ブタの畜産と共に発展してきた。それを象徴する食肉センターができてから半世紀近く経つが、産業をブタに依存している部分は、今でも変わらない。食肉センターは何度も増改築を繰り返し、町のど真ん中に屹立している。というより、呉藍町そのものが食肉センターの企業城下町と言った方が正確かもしれない。
だからかどうか、ブタに関するトラブルも多い。センターからの脱走騒ぎはその最たるモノだ。捕獲用の落とし穴を設置したりと、対策を講じているが、それでも数年に一度は起きているのが現状だ。最近も、二頭のブタが脱走したばかりで、まだ発見には至っていないらしい。
また、最近では海外の環境保護団体・守護者の動向も話題にあがることが多い。ブタ脱走には彼らが一枚噛んでいる――などという、噂も囁かれているらしい。
――いずれにせよ、刑事である自分には関係ない話だけれど。
顔を上げ、歩みを進める。止まっている時間などない。コンビニの袋を提げながら、私は呉藍署の門をくぐった。
「あ、先輩、昼飯これからですか?」
捜査一課の机についた途端、後輩の滝山が声をかけてくる。
「……これからだよ。私の昼は、コレ」
言いながら、コンビニで買ってきた総菜パンを持ち上げる。
「それだけですかぁ? さすが、細いだけあって食細いですねぇ」
「滝山クン……後輩でも、それはセクハラだからね?」
「えぇ!? 今の何がセクハラなんですかぁ!?」
「体型、体重、恋愛経験や異性関係を尋ねるのは、全部セクハラ。覚えておいて」
「はぁ……すみませんでした」
素直に謝る滝山。実際、私自身はそういったことはほとんど気にしないのだけど、この素直で律儀な後輩を相手にすると、思わずいじめたくなってしまう。我ながら、Sっ気が強いと思う。
「いいって。それより、滝山君はどうするの? 今日も出前?」
「ええ。カツ丼の美味い店を見つけたんで」
またカツ丼か。
焼き肉、串焼き、豚丼、しょうが焼き、カツカレーにカツサンド――この後輩刑事、体育会系だからか、やたらと肉を好む傾向にある。それも、ブタ肉を、だ。世間一般では、それはただの嗜好であって、特筆すべき点ではないのかもしれないのだけど――私にしてみれば、それこそ軽い嫌がらせである。
「よければ、今度先輩も一緒にどうですか?」
「絶対に嫌」
「……そこまで露骨に拒絶しなくても……」
「私なんかじゃなくって、誰か別の、若くて可愛い女の子でも誘いなさいって言ってるの。私みたいなオバサンと一緒にご飯食べたって、楽しくないでしょ?」
「それもそうですね」
滝山の言葉を受け、私はメガネのフレームに指をかけながら、顔を近づける。
「……うん。滝山君。そう言うときは、嘘でも『先輩だって若くて可愛いですよ』とか言うものなんだよ?」
「あああっ! すみませんっ! 別に悪気があった訳じゃ! すみませんっ! 先輩も若くて可愛いですっ!」
「そんなに必死に謝らなくてもいいってば。滝山君に悪気がないのは分かってるから」
むしろ、悪気があるのは私の方。真面目で実直で、だけど少し鈍感でデリカシーがないことを見越して、わざとああいうことを言ったのだ。結果、滝山は見事に思い通りの反応を示してくれた。表面的にはムスッとした態度をしているが、心の中では大笑い。
冷房の効いた署内で、素直な後輩をからかう午後。
現実は、それほど呑気にしていられない状況なのだけど。
『呉藍町住宅街男性殴打殺人事件』は、昨日のうちに捜査本部が置かれ、今は県警が主体となって捜査を行っている。所轄署の人間である私たちは、当然のように現場周辺の聞き込みにあたったのだが、未だに有用な情報にありつけていない。昼間の住宅街というのは、逆に人の目がないものらしい。
被害者の本原繁周辺も調べられているが、こちらも収穫はゼロ。三年前まで食品会社の部長を務めていたらしいが、定年退職した今は、散歩と家庭菜園、時々遊びに来る孫と戯れるくらいが生き甲斐らしく、至って人畜無害と言っていい。相続トラブルを起こす程の財産がある訳でもなく、恨みを買うこともない。怨恨の線は捨ててしまってよさそうだ。
昨日確認した通り、財布や携帯などは手つかずのまま。遺族にも確認してもらったが、遺品にも、なくなったモノや不審なモノはなかったらしい。つまり、物盗りでもないということだ。
やはり、通り魔なのだろうか。
白昼堂々と、住宅街で――という点が気になるといえば気になるが、過去にそういった事件がなかった訳でもない。人生に絶望し、自棄になった人間は、時として大通りで凶刃を振るう。今回も、その種の事件なのだろうか……。
否。
今回犯行に使われたのは、ナイフや包丁ではない。被害者は、ブロック塀に頭を叩きつけられて殺害されていたのだ。……もしかすると、通り魔云々ではなく、喧嘩の延長線上で、このような惨劇になってしまったのかもしれない。散歩中の被害者と何らかのトラブルがあって、頭に血が上った犯人が、力任せに被害者をブロック塀に叩きつけた――そうは、考えられないだろうか? もっとも、性格温厚、人畜無害な小市民にしかすぎない被害者が、そこまでのトラブルを引き起こすとも思えないのだけど……。
「――先輩、本当に怒ってないんですか?」
「え?」
「いや、急に黙り込んじゃったから、どうしたのかなって……」
まだ気にしていたらしい。
「違う違う。事件のことを考えてただけよ」
「ならよかったですけど――って、よくないか。今回の事件、訳分かんないですもんね……」
軽口を叩く場面ではないと判断したのか、滝山は不意に真顔に戻る。精悍な顔立ちをしているのだから、普段からもっとしゃんとしていればいいのに、と思う。決して口には出さないけど。
「まあ、私ら所轄は、地道に聞き込みするだけよ」
そうなのだ。こちらは所轄署の一捜査員にすぎない。事件の全貌を解き明かすのは、上の人間の仕事だ。
「取り敢えず、ご飯食べたら駅前の方に行きましょうか……」
「そっすね」
話が一段落したところで、ようやく私は今日の昼食にありつける。総菜パンと、ペットボトルの日本茶。質素というか、シンプルな昼食である。
――食が細い、か……。
私は、人知れず含み笑いをこぼす。
この人が良さそうな後輩刑事は、私の過去を知ったら、どのようなリアクションをするのだろう。それが知られることは、未来永劫ないのだろうけど。