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第二章 1 宿木明日香

 駅舎から出た途端に、目眩がした。

 極限まで熱せられた外気と、容赦なく照りつける日差しで、瞬時に全身の毛穴が開く。今年も、暑い。これだから、出来るだけ外出はしたくないのに――時々は、こうして遠出してしまう。

 大鷹に引きこもりのニートと思われたくないから――ではない。それでは、あの馬鹿にどう思われているか、気にしているみたいではないか。それは、あまりにも癪だ。出たいから、出るのだ。私は引きこもりとは絶対に違うのだ。 

 ぐるぐると詮方ない思考を垂れ流しながら、熱気をかき分けるようにして呉藍の駅前通りを歩く。どれだけの灼熱地獄だろうが、実際の移動距離は短い。ロータリーを迂回して、通りを一つ渡ればすぐに商店街。店舗兼住居である喫茶宿木は、その一番奥にある。一番奥と言っても、小さな小さな商店街のことだ。普通に歩けば数分とかからない。

 幾つかの店を通り過ぎると、再び小さな通りに出る。この通りは急な坂道になっていて、右へと上っていくと住宅街に出る。一番手前には築三十年のアパートが鎮座していて、確か、礼子さんはそこに住んでいるのではなかっただろうか――よく覚えてないけど。

 通りを渡って、文房具屋の前を通り、コインランドリーの角を曲がると、割と大きい路地に入る。喫茶宿木は、その一番奥だ。この路地はいわゆる袋小路になっていて、喫茶店のすぐ脇には三メートルはあろうかという塀がそびえている。塀のすぐ上にはフェンスが巡らされていて、その向こうは駐車場。土地に高低差があるために、こういう構造になっているのである。

 それ自体は、別段どうも思わないのだけれど――問題は袋小路ではなく、その逆、店の右手に広がる空き地にある。少し前までは売地となっていて、雑草生え放題、荒れ放題の、誰も見向きもしない空間だったのだけど。

 今は、ぽっかりと大きな穴が空いている。

 比喩ではない。文字通り、大きな穴が掘られているのだ。工事中という訳でもない。これで完成型なのだ。誰が何のために掘った穴なのか――この町に住んでいて、それを知らない人間はいない。

 落とし穴である。

 深さ二メートルはある落とし穴が、そこに掘られているのだ。

 悪質な悪戯などではない。伊達や酔狂でもない。この穴を掘らせたのは、役所なのだ。呉藍町が所属する自治体なのだ。お上が無駄金を遣っている事実を否定はしないが、かと言って、この穴がまるで無意味なモノ、と言い切ることもできない。意味はある。もちろん、住民を落とすための穴ではない。危険防止のために、道路と五十センチ程の段差になるように盛り土がされているし、『注意! 落とし穴あり』などという馬鹿らしい注意書きが、かなり大きく掲げられている。では、何のための落とし穴なのか。

 ブタを捕獲するためである。

 この呉藍町は、古くからブタの畜産をメインに発達してきた。今でも、町の中心にはかなり大きな食肉センターがある。そこで、多くのブタを飼育し、繁殖し、潰し、加工している訳だ。実際、どれだけのブタが飼われているか、見当もつかない。しかし、施設の規模から考えて、数が多いことだけは確実だ。そして――過去数十年に渡って、少なくない数の脱走騒ぎが起きていることもまた、確実である。年を追うごとに厩舎の造りは堅牢になっているのに、それでもブタの脱走はゼロにならない。町の噂では、国内外で暴れ回っている環境保護団体・守護者(ガーディアン)が一枚噛んでいるのでは、とも言われているが――実際の所は、よく分かっていない。

 それよりも、だ。

 問題は、脱走したブタを如何に確保するか、である。この落とし穴はそのために掘られた。空き地の真ん中に深く大きく掘られた落とし穴――普段はその上に薄いベニヤ板で蓋をして、ブタが好む臭いを発する特殊な飼料が置いている。臭いに釣られたブタが飼料に近付き、ブタ自身の重みで穴に落下するという単純な仕掛けである。つまりは、罠だ。昆虫採集で言うところの、ベイクトラップだ。それが、この町の至る所に設置されているのだが――何故、よりによって、それが商店街の真ん中――それも、ウチの隣にあるのだろう。誤って転落する間抜けがいるとも思えないが、それでも、気分がいいモノではない。もう慣れたけど。


 額に滲む汗をハンカチで拭い、店の扉を開ける。

「ただいまー」

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 執事喫茶?

 しかし、メガネをかけたイケメン執事など、どこにもいない。

 いるのは、ニコニコと無駄な笑みをこぼす腹黒マスターだけだ。

「そういうの、いいから」

「『ただいま』とか言うから、つい反応しちゃったんだよね」

「二階部分は家なんだから、『ただいま』はおかしくないでしょ」

「だったら住居専門の玄関から入りなよ」

「私は、ここに客として来ているの。毎回、ちゃんとお金は払ってるでしょう?」

「だったら、やっぱり『ただいま』はおかしいんじゃない?」

 う。綺麗に論破されてしまった。無性に悔しい。気分がささくれ立ったまま、カウンターの隅に腰掛ける。私の指定席だ。

「いらっしゃませ」

 水とおしぼりを持った礼子さんが現れる。身内同然なのに、毎回ちゃんと客として扱ってくれるのが嬉しい。いつもと同じカプチーノを注文し、いつもと同じように文庫本を開く。

 ――妙に、静かだ。

 昼下がりのこの時間、客が少ないのはいつものことだが――ここまで静かなのは珍しい。いつもは、どっかの馬鹿が馬鹿話で騒いでいるか、馬鹿みたいなイビキをかいて爆睡しているかのどちらかで、およそ静けさとは無縁の筈なのに……。

「ううん……」

 振り向くと、どっかの馬鹿が腕組みして唸っていた。テーブルの上には、一枚のプリント用紙。

「――あの人、どうかしたの?」

「昨日、白井さんに頼まれた件で悩んでるみたいだね。明日香も見てたでしょう? 納涼祭で、大食い大会をやるっていう話」

 それなら記憶に新しい。

 昨日は、この店で商店街の会合が行われていた。議題は納涼祭で行われるイベントについて。これといった案が出ず、雲行きがおかしくなりだした頃に、電器屋の須賀さんが現れ――あの動画のお披露目となったのである。

「……懐かしいよね、あれ。十年前だったっけ?」

「そうそう。僕達が十九の時だから、ちょうど十年になるねー。あの頃は、二人ともまだ大学生だった。アスカは小学生だったっけ?」

「十歳だから、小五だね」

 本当に懐かしい。

「大鷹さんって、有名人だったんですね」

 作業が終わった礼子さんが、会話に加わってくる。

「あの当時はね。大食いブームって言うのかな――大食い番組がやたらと多かった時期があったんだよ。番組の常連の実力者だった人間は『フードファイター』なんて呼ばれて、もてはやされたりしてね……。会長も、その一人だったって訳」

 そう、大鷹は(まご)う事なきフードファイターだ。

 最盛期は、八キロもの食材を胃に収めることができた。怪人か。番組には、ブタ肉を得意食材としていたことから、『ブタ喰い』なるのキャッチコピーを付けられていた。

 件の動画は、『Food Fight Grand Prix(フードファイトグランプリ)』という番組での一幕だ。私もマスターにくっついて応援に行っていたので、色々と印象深い。

「家族とか友人、恋人が、二人まで応援に行けることになっててね。僕もアスカ連れてテレビスタジオまで行ったっけ……。いやぁ、青春の一ページだよねー」

 マスターは遠い目をしてそんなことを言っているが、実際はそんな爽やかなモノではなかったように思う。その頃はブームがピークに達していて、参加選手の層も厚く、レベルはインフレーションを起こしていたのだ。体力、気力を限界まで使い果たす、死闘に次ぐ死闘。大部屋の控え室は疲労と緊張、そして限界を超えた満腹のせいで、勝者も敗者も皆ぐったり。膨れた胃袋を抱えた人間がそこら中で横たわり、死屍累々の様相を呈していたように思う。

 ちなみに、マスターはその場でもしっかりと策士、参謀の役割を果たしていた。各ラウンドのレギュレーションや食材、参加選手の癖や弱点などを事前に分析し、確実に勝利に導くであろう戦法を伝授したのは、他でもないこのマスターなのである。

 彼の暗躍が最も顕著に出たのが、準決勝での対戦である。そのラウンドでは一対一の対戦方式となり、幾つか用意された既定個数の食材の中から一つを選択し、どちらがより早く完食するかを競うレギュレーションとなっていた。最初の選択権はクジで決められ、以降、勝負で負けた方が次の食材を選ぶ権利を得ることができる。つまり、如何に自分の得意な食材を引き寄せるかが、ポイントとなる訳である。

 そこで、マスターは、非情な作戦に出た。

 対戦相手である女子高生の苦手食材がブタだと調べ上げ、大鷹に『ポークステーキ三皿』を選ばせたのである。『ブタ喰い』の大鷹が、だ。

 結果は明白だった。

 対戦相手はポークステーキの乗った皿を見つめたまま、微動だにせず、対する大鷹は怒濤の勢いでステーキを腹に収め、快勝。決勝進出を果たした。全ては、マスターの計算通りという訳だ。

 また、その一方で、『大鷹大輔体調不良』だの『大鷹はそばアレルギー』だのといった、ガセやノイズを意図的にばらまき、他の選手の情報収集を妨害することも、平然とやってのけた。その当時はネットが普及し始めた頃で、ネットリテラシーに関してもうるさくなかった時代なので、そういう姑息な作戦もまかり通ったのである。


「僕も会長も、あの頃が一番輝いていたのかもしれないねー」

 礼子さんの目を気にしてか、それとも単に自覚がないのか、涼しい顔をしてまだそんなことを言っている。外は真っ白、中は真っ黒――煮ても焼いても喰えない男。絶対に敵に回したくない。

「……そう言えば、あの動画は途中で終わってましたけど、結局、大鷹さんは優勝したんですか?」

 遠い目をするマスターに対し、礼子さんが質問を続ける。

「いや、優勝は逃したかな。決勝ラウンドまで進んだのはいいんだけど、やっぱり相手も強敵でね。惜しいところまでいったんだけど、結果は準優勝だった」

「と言うか、あれは大鷹さんが水ガブガブ飲んだからでしょ」

 黙っていられなくなって、思わず口を挟んでしまう。

「決勝の食材、熱々のカツ丼だったっけ? マスターがせっかく、『水は最小限に、どんぶりをかき混ぜて空気と触れさせて、冷やしてから口に運ぶ』って基本戦術を伝授したのに、あの人、焦ったのか忘れたのか、初っぱなから水ガブガブ飲んじゃってさ。何のための作戦だっての。『ブタ喰い』とか言われて期待されてたのに、馬鹿みたい。畜生道に落ちればいいのに」

「明日香、言いすぎ言いすぎ」

 マスターが苦笑している。

「それに、会長が馬鹿なのは、全員が知っていることだから」

「うっせえな、さっきからッ!」

 自分の話をされているにも関わらずずっと無言を貫いてきた大鷹が、ここにきてキレだした。今まで聞こえてたけど敢えて無視していたらしい。

「黙って聞いてりゃなんだよ、人のこと馬鹿馬鹿言いやがって! 昔の話だろーがッ! 人が悩んでんだから、少し静かにしてくれよ」

「アンタがそれを言うかな……。ってか、さっきから何をウンウン唸ってるのよ。便秘?」

「ちげぇ。これだよ、これ」

 トントン、とテーブルの上の紙を叩きながら、声を荒げる大鷹。

「昨日、あの場にお前もいたから知ってるだろ? 白井さんっていう、あの居酒屋のオヤジに、正式に頼まれたんだよ」

「あの人、アイデアマンの上に、異様に仕事が早いからねー。昨日の今日で、もう正式な書面を用意したみたいだよ」

 大鷹の後ろから覗き込むと――それは、一枚の企画書らしかった。ある程度のレギュレーションが活字で書き込まれている。参加者数名で予選を行い、勝ち抜いた三人と大鷹一人で大食い対決を行う――昨日、白井が思いつきで言ったままのレギュレーションだ。

「何を悩むことがあるのよ。受ければいいいじゃない」

「簡単に言うなよ。めちゃくちゃキツいんだぞ、あれ。一応、それなりの準備とか、トレーニングとかしなきゃいけないし……」

「大食いのトレーニングって、何するんですか?」

 要所要所で絶妙な合いの手を入れる礼子さん。さすが、この店で長く働いているだけあって、手慣れている。

「バイキングの店行って胃袋広げたり――後は、走り込んでスタミナつけたり、とかかなー。普通に食事するのと違って、大食いってのは、あれで相当体力を消耗するからねー」

「そうそう。考えナシに食べまくってる訳じゃねェんだよ」

「何を威張ってるのよ。トレーニングが必要だって言い出したのは、マスターでしょ。大鷹さんはそれに従っただけじゃない。放っておいたら、考えナシに食べまくるだけのくせに」

「時々、僕が考えた作戦も無視するしねー」

「ほんっとにうるさい兄妹だな! 昔の話を蒸し返すなっての!」

「だから、私は今の話をしてるんでしょう? 商店街の活性化に役立つんだから、受ければいいじゃない」

「アスカは商店街側の人間なのかよ……」

「当ッたり前でしょうが!? 私はこの店の人間で、この店は商店街の一部なんだからさ」

「言うまでもなく、商店主の僕も商店街側の人間だからね」

「くそ。四面楚歌じゃねーかよ……」

「ってか、別に敵ではないでしょうに。大鷹さん、マスターの親友なんでしょ? しんどいのは分かるけど、親友のために一肌脱ぎなさいよ」

「どうすっかな……」

「そこは会長の自由だからねえ。誰も、無理強いはできないよ。一応、商店主全員に通達がきてるから、僕達もある程度のことは把握してるんだけど……そうかー、会長は嫌かー。残念だなー。ちゃんとギャラは支払うのになー。仕方ないから、僕の方から白井さんに断りの電話入れておくかなー」

 言い捨てて踵を返すマスターの腕を、大鷹がカウンター越しに、むんずと掴む。さっきまでテーブルにいたのに、凄いスピードだ。

「待て待て待て待て。は? お前、今何つった?」

「仕方ないから、僕の方から白井さんに断りの――」

「その前だッ!」

「そうかー、会長は嫌かー、ざんね――」

「ヤドカリぃ……テメェ、わざとやってンだろ……」

 大鷹の額に青筋が浮かび、掴む手にも力が入る。

「痛い痛い。痛いってば。会長は相変わらず怪力だなー」

 苦笑しながら、マスターは腕を振り解く。言わずもがなだが、これは全て、分かってやっている。私が律儀に突っ込むのと同じで、マスターは大鷹をからかうのが自分の義務だと思っているのだ。

「だから、商店街からギャランティは出るってば。当たり前でしょ? 正式に依頼するんだから、無償な訳がないじゃない」

「んな話、聞いてねえよ……」

「あれえ? どっかで行き違いがあったみたいだねー」

 アンタが黙ってただけだろう――という言葉を、私は呑み込む。別に、いたずらに話をややこしくする必要はないだろう。……だけど、そんな私のささやかな気遣いなど、まるで不要だったようである。マスター自身が、とんでもないことを言い放ったからだ。

「と言うか、実はもう白井さんの方にはOKの返事出しちゃってあるんだよねー」

「ハァ!?」

 面喰らった表情の大鷹。それはそうだろう。

「大鷹はやる気まんまんですよーって、返しておいた。だから、もう次の段階に進んじゃってるんじゃないかなー」

「ちょ、オレの承諾もなしに、勝手なことすんなや!」

「でも、受けるでしょ?」

「だから、まだ――」

「会長は受けるよ。断る理由がないでしょう? ギャラは支払われるんだし、多少肉体的にキツいって言っても――お前は、大食いが好きだ。あの頃も、キツいキツいって言いながら、楽しんでやってた。だから、あれだけ頑張れた。違う?」

「……それは、違わねェけど……」

 早くもマスターのペースだ。大鷹はすっかり呑まれている。

 喰われている。

「なら、答えは決まったも同然だ。会長は、あの頃の輝きを再び取り戻すんだよ」

「……えっと……」

「――受けて、くれるよね?」

 静かに、だけど力強く、マスターから最終確認がとられる。

「……やるよ。やりゃいいんだろ」

 結局、今回もマスターの手の平の上だったらしい。うんうん悩んでいたものの、最初から大鷹に選択権などなかったのだ。

「そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃない。会長、大食い自体は本当に好きなんでしょう?」

「まぁなぁ――って言うか、そうだ」

 何やら思案気だった大鷹が、不意に何かを思いついたように顔を上げる。

「マスター、お前、今回のイベントのことについて、まだ何か知ってるなら、今のうちに全部教えといてくれよ。何か、当事者のオレより、お前の方が色々把握しているみたいだしよ」

「そりゃ、僕は商店主の一人だからねー」

 いやいや、大鷹のマネーシャーか何かだと思われているのだろう。と言うか、マスター自身が白井にそう思わせているのかもしれない。当時も、大組番組のスタッフは大鷹本人ではなく、マスターと連絡を取り合っていたと聞く。別にマスターが出しゃばっていた訳ではない。大鷹一人では、スケジュール管理などに関して心許なかったからだ。結局、調査、分析、戦術、情報操作、トレーニング指南からスケジュール管理まで、マスターが一人でこなしていたことになる。ブレインであり、トレーナーであり、マネージャーでもあるのだ。事態を本人より把握しているのは当然の話である。

「白井さんから、色々聞いてはいるよ。あの人、本当に仕事が早いって言うか、即断即決って言うか――これは、と思うと、もう面白いくらいにポンポン決めていっちゃうんだよねー」

 去年、それでブタ解体ショーを決行して、結果、大失敗したのだが――そのことに関する反省はあまりないらしい。

「だからさ、小出しにしないで、お前の知ってる情報を教えろって言ってンの」

「いやいや、いくら白井さんが仕事早いって言ったって、昨日の今日だからさ。まだ決まってないことだらけだよ? まあ、場所と食材は、ほぼ確定したみたいだけど」

「それを教えろっつってんだよ!」

 カウンターにダン、と両手を突いて、大鷹が吼える。この男、基本的に気が短いのだ。

「場所はここ。喫茶宿木がイベント会場。で、食材は、会長の得意なブタ肉。今はポークステーキを予定してるらしいよ? 会長にとっては、因縁のメニューだねー」

「マスターにとっても、な」

 動画にもあった、準決勝ラウンドのことを言っているのだろう。『相手が食べられない食材を分かっていて敢えて選択するのは、どうなのか』という批判も、一応あるにはあったのだ。もっとも、因縁に感じているのは、他でもない、微動だにせず敗戦を喫した、対戦相手の女子高生だと思うのだが……。

「あの、そこで使うお肉って、新山さんの所のですか?」

 久しぶりに礼子さんが口を挟む。

「うん? まあ、そうだね。この商店街で精肉店って言ったら、斜向かいの『肉の新山』くらいのもんだし」

 去年、ブタの解体ショーを行った新山守が店主を務める店である。両親とも健在だが、二人とも還暦を迎えたということで、息子に店を任せているらしい。三十路ちょっとの若き店主は実直、真面目を絵に描いたような男で、近所での評判も高い。

「そうですか……」

「礼子ちゃん、気になるの?」

「え? は!? いえ、別に、ただ聞いただけです――」

 視線を逸らし、顔を俯け、慌ててテーブルの拭き掃除を始める。何を動揺しているのだろう……?

 そう言えば。

「あの人、今日は休みなの? ほら、昨日新しく入った――マリアさん、だっけ? やったらテンションの高い人」

「彼女は遅番だよ。出勤は四時から」

「あ、そうなんだ……。あと、ついでに聞くけど……」

 少しぬるくなったカプチーノで唇を湿らせ、質問を重ねる。

「あの人だけ、ユニホーム違うよね? あれ何で? マスターや礼子さんは普通にエプロンつけてるだけなのに、なんであの人だけメイド服なわけ?」

「正確には、メイド服というより、エプロンドレスだね。知り合いの業者さんに言って、特別にオーダーしたんだよ」

「答えになってないって。私は何で、あの人だけ、物凄いミニの、悪趣味なフリルのついた、エプロンドレスを着てるのかって、そう聞いてるんだけど?」

 とぼけるマスターに対し、私は噛んで含めるような口調で、同じ質問を繰り返す。

「何でって――」

 マスターは信じられない、といった風に身を仰け反らせ、大鷹に顔を向ける。

「会長、アスカに説明してあげてよ」

「分かった。あのなあ、お前、よく聞けよ――」

 さっきまでの言い争いが嘘かのようなコンビネーションで、大鷹が私の前に仁王立ちし、顔を覗き込んでくる。

「あんなキレイでスタイルのいい娘に、ミニのエプロンドレス着せるのに、理由がいるか? あんな美人に地味なエプロンをつけるなんて――それはもう、立派な罪だぞ?」

 馬鹿だ、馬鹿がいる。

 私は激しく脱力した。

 馬鹿の大鷹はともかく、マスターまでそっち側の人間だと言うのが、地味にショックだ。私は頭を抱える。

「……アスカ、自分の兄に幻想を持つ気持ちも分かっけどよ、男なんざ、みんなこんなもんだぞ?」

 見透かされた!

 この馬鹿の見本市みたいな男に!

 マスターがスケベ云々より、その方がよっぽど衝撃だ。

「だったら、礼子さんも同じエプロンドレスにしなさいよ! 同じウェイトレスなのに不公平でしょうが!」

 一度に様々なショックが重なって、思わず的外れなキレ方をしてしまっていた。

「あー、明日香の言うことにも一理あるねー。礼子ちゃん――」

「私は絶対に嫌です」拭き掃除をしていた礼子さんから、容赦のない言葉が返ってくる。「あんな格好、私には無理ですから」

「だそうだよ?」

「残念!」

 大鷹が膝を打つ。もう、この世は馬鹿ばっかりだ。

「話戻すけどさ――この店が会場で、食材はブタ――今、決まってるのは、その二つだけなのな? どうせ、これからもお前の方に話が行くんだろうから、何か進展があったら、すぐに教えてくれよ?」

「もちろんだよー」

 マスターの気の抜けた返事を受けながら、大鷹はテーブル席に戻っていく。

「……ああ、一応、会長の今の実力を見たいって言うんでさ、シミュレーションを兼ねて、軽く大食いしてもらうことになってるから」

 着席しようとしていた大鷹が、派手にずっこける。

「……はあ!? お前、それ、いつの話だよ!?」

「明日」

「……だから――」

 直後、大鷹の咆哮が、店を揺らした。

「情報を小出しにするなって言ってンだろうがああッ!」


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