第二話 波乱のスパイス
「俺たちは、世界に満ち満ちる負の概念が意思を持ったもの……貴様たち人間が“悪魔”と呼んでいる存在だ」
静止した時間の中で心なしか硬質になった照明の逆光の中、ソラミの肉体を操る“ギラミ”は、そう言って眼を妖しく光らせた。
『悪、魔……?』
物語の中では最早聞き慣れたその呼称を、影法師になったソラミは思わず繰り返した。一般的な会話ではめったに口にしないその二文字は、ソラミにとって新鮮な響きに感じられた。そして、新鮮さの次に驚きがやって来た。あの〝悪魔〟と、自分は今邂逅したのだということへの驚きが、ソラミの頭の中を席巻した。おとぎ話の世界で人々を苦しめ、恐怖と絶望のどん底に陥れ、英雄たちの前に強大な敵として立ちはだかった、あの“悪魔”と。
その驚きを察したか、ギラミは満足気に目を細め、口角をぐいと吊り上げた。
「ふふふ……影法師の癖に良い反応だ。俺の名はメイザード。悪魔の中でも最大級の力を持つ“三大魔王”が一人……泣く子も黙る大悪魔、メイザード様よ」
『メイザード……大悪魔……って、あああああっ!』
ここで、ソラミは事の深刻さをようやく自覚した。状況があまりにも荒唐無稽であったため感覚が麻痺していたが、ギラミ改めメイザードが音に聞く悪魔だというのならば、ソラミは“悪魔に憑りつかれた”ことになる。
『なっ、何てことしてくれたんですか! 返してっ……わたしの体、返して下さいっ!』
「おー、良かった良かった。さっきから貴様が食いもの絡みの文句しか言わんものだから、ひょっとすると子供な上に馬鹿なのかと思っていたところだ」
そう言ってメイザードはカンラカンラと豪快に笑った。しかしソラミにとっては笑い事ではない。
『誰が馬鹿ですか! 甘い辛いの話はわたしにとっては本当に重要な……ってああ違うっ! 違うんです! 今はそんなことどうだって良いんです! どうだって……良くて……! めっ、めめめいざーどさんはわたしの体を……わたしを一体どうするんですか!』
そうやってソラミが涙も流さんばかりに喚き散らしていると、「そのことでしたら」とメイド服の女性が口を挟んだ。
「私からご説明致しましょう」
女性の低く響く声で、ソラミの頭が少し冷える。時の止まった場の空気さえもが、更に静まり返る。
「申し遅れました。私はオロコ。魔王メイザード様にお仕えする悪魔でございます」
『あなたも、悪魔……』
「ええ。そして、昨夜、メイザード様の魂をあなたの体に宿らせたのは、この私です」
メイド服の女性……オロコのその言葉を聞いて、ソラミは先刻、オロコがソラミに強引に相席を求めてきたのを思い出した。オロコは、ソラミにメイザードを憑りつかせた上で、その様子を見に接触してきたのだ。
『そんな、どうしてそんなことを……?』
「それを説明するには、まず私たち悪魔という存在について説明しなくてはなりません。人間が持つ悪魔のイメージには様々なものがあります。宗教上の敵、この世の悪の代名詞、悪戯好きの憎まれっ子、はたまた姦淫の権化……それら全てのイメージは私たち悪魔の一側面であり、様々な性格・性質の悪魔がこの世に数多存在します。同じ悪魔は一人として居ません。しかし皆共通して、人間世界をかき乱し、負の感情を蔓延させるという本能を持っています。ところが不都合なことに、悪魔は単独で人間世界に干渉することはできません。なぜなら、人間世界に蔓延るあらゆる負の概念が具現化した存在で、意識はあれど形ある肉体を持っているわけではないためです。言わば魂だけが漠然と漂っているようなものなのです」
『まさか……だから人間の体を……』
「ご理解が速くて助かります。その通りです。私たち悪魔は人間の肉体に憑依し、これを乗っ取ることで、人間世界において様々な能力を行使できるようになります。それこそ、人間との会話や接触等の日常の些事から、人間の負の感情を煽り不和を引き起こす等の悪魔的行為まで。私が先程から行っている時間停止にしても、人間の肉体を手に入れたからこそ発揮できる超能力です」
無表情で淡々と話すオロコの言葉を聞きながら、ソラミは影法師でありながら動悸が激しくなるのを感じた。目の前のオロコにしても、人間の女性の肉体を乗っ取ってここに居るのだ。ならば、元々その肉体に宿っていた女性の意識は……その命は一体どうなったのであろうか。そして、今ソラミ自身の置かれている状況である。既に、ソラミの意識は悪魔メイザードよって肉体から追いやられている。これから自分はどうなってしまうのか……肉体を乗っ取られた人間にはどんな最期が待っているのか……そう考えると、ソラミはどうしようもなく恐怖に駆られた。
その恐怖心を見透かしたかのように、オロコはソラミにこう告げた。
「さて……もう説明するまでもないかと思いますが、雨宮ソラミさん、あなたにはメイザード様の新たな肉体となっていただきます」
その言葉に、ソラミの動悸は最高潮に達した。人間の体であれば、恐ろしさのあまり全身が震え、涙が顎を伝い落ち、歯の根が噛み合わず音を立てるところである。
『……嫌です…………嫌、です………』
蚊の鳴くような声で、そう繰り返すのがソラミの精一杯であった。オロコはそれを冷たい目で見おろしながら、更に言った。
「嫌だと言われましても、あなたに選ぶ権利などありません。その様子だと既にお察しのようですが、メイザード様の魂があなたの肉体と完全に融合すれば、あなたの命は消えます。全てを理解し、受け入れ、残り少ない人生を有意義に過ごされた方が宜しいかと」
『…………嫌です……っ』
「くどいですね。何と言われようと、あなたの命はあといくばくも……」
オロコがそう言って少し苛立ったように眉をひそめた時だった。
「おいオロコ。俺を置き去りにして話を進めるんじゃない」
黙って話を聞いていたメイザードが、押し殺した声で割り込んできた。鋭さを増したその目はオロコを見据えて逃がさず、背後からは、何やらどす黒い“もや”のようなオーラが噴き出すのが見える。その姿には、先程まで以上の迫力、そして凄味があった。
「……メイザード様?」
オロコは、主の様子が変わったことにに少し狼狽した様子を見せた。メイザードそれを確認してニヤリと口元を歪めると、オーラを引っ込め、影法師のソラミを見下ろして言った。
「安心しろ。貴様の命を取りはせん」
『……え?』
ソラミは、嬉しさよりも先に戸惑いの方が先に立った。悪魔に憑りつかれた人間の末路については、今さっきオロコから説明されたところで、メイザードも当然それに倣うと思っていたのに。予想外の助命宣言に、ソラミは戸惑いを隠せなかった。
メイザードは続けて言った。
「俺は、わけあってここ数百年の間眠りに就いていてな。その間に人間世界も、人間の心根も随分変わったようだ。そう……数百年前には居なかったのよ、貴様のような人間は」
『わたし……みたいな?』
「そうだ。貴様のような甘々の、頭の中に飴でも詰まっていそうな人間はな」
『あ、甘々……』
ソラミは自分が甘々人間であることは認めていたが、メイザードの言葉の意図は全くわからなかった。メイザードもソラミの理解の遅さには薄々気づいていたようで、頭をばりばりと掻くと、こう告げた。
「要するにだな、貴様という人間に興味が湧いたのだ」
『は……はい?』
「しばらく貴様の行動を見ていようと思う。だから命は取らん。そうだな……当分は貴様の影法師にでも居候させてもらうとしよう」
メイザードがそう言い終わるや否や、先程も味わった、あの頭を裏返しにされるような衝撃がソラミを襲った。ソラミは今度も失神してしまった。
次にソラミが目覚めた時、その目に映ったのは天井ではなかった。ソラミは元の通り、「喫茶七色仮面」の椅子に座っていた。そして何より、今のソラミには、手も足も、首も、体の一切をも動かすことができた。ソラミの意識が、肉体に戻ってきたのである。
「わたしの体……ある」
ソラミは自分の手のひらを見つめ、そう呟いた。別段力を入れずとも指が曲げ伸ばしでき、それを感じられるという当たり前のことが、この時ばかりは感動的であった。
しかし、それも束の間、ソラミは気付いた。テーブルを挟んで向かい側の椅子には、まだオロコが座っていたのである。途端にソラミは背筋が寒くなった。
だが、当のオロコはソラミからそっぽを向き、窓の外の往来を眺めていた。気が付けば、止まっていた時間も既に動いている。
「そう固まらずとも大丈夫ですよ。主たるメイザード様があのように仰られたのです。私は別段あなたに何もしません。むしろ、何の興味もありません」
「……そう、ですか」
どこか気怠そうなオロコの言葉を聞き、ソラミが少しホッとしたその時だった。
『お? 何だオロコ。まさか拗ねているのか?』
どこからか、耳慣れぬ声が聞こえてきた。テノール歌手を思わせる、高く澄んだ男性の声。しかし、そこには底知れぬ余裕と、言い知れぬ迫力がこもっている。
「この声……まさか」
ソラミがそう漏らす、オロコが窓の外を見つめたまま、テーブルの上を指差した。ソラミはハッとしてその先を見た。
『言っただろう、貴様の影法師に居候すると』
謎の声は、テーブルに落ちるソラミの影法師から発せられていた。
『大悪魔メイザード様、ここにあり』
そして、声の主は、他ならぬ大悪魔メイザードなのであった。先程影法師になっていたソラミがメイザードに対し使っていた念話のようなものを、今度はメイザードが使っている。しかし、ソラミの場合とは大きく違い、メイザードの宿ったソラミの影法師は、なんと実物のソラミの動きとは別に、元気にくるくると動いていた。
「メイザードさん……動き過ぎだよ」
自分に向かって陽気にピースサインまでして見せる影法師を見て、ソラミは思わずクスリと笑みを漏らした。
「メイザード様……私にはわかりません。あなた様は、最初からこうなさるおつもりで、この娘の意識を残しておいたのですか……?」
オロコが、やはり窓の外を見たまま、そう問いかけた。それを見て、影のメイザードは面倒臭そうに頭をばりばり掻いた。
『最初からというわけでもないさ。実際問題、今の俺の力では人間の体を長く操ることはできんのだしな。……まあ、そうだな、何千年も同じパターンで攻めるのは芸が無いと思っていたところ。良い機会だからたまには切り口を変えてみようと思ったのだ』
「切り口を変えて……ですか。つまり、主のいつもの気まぐれだと」
『ああ、そう考えてもらって構わん』
メイザードがそう言うと、オロコは息を深く吸い、そこから大きな大きな溜息をついた。そして、ゆらりと席を立った。
「そういうことでしたら、私からは何も申し上げることはありません。今まで通り、私は主の意のままに……。主のお気が済むようお手伝いするだけです」
『うむ、良く言った。それでこそ我が数百年来の従者よ』
メイザードの賛辞にオロコは振り返らず、コーヒーの会計を済ませて店から出て行った。
ソラミはオロコの冷ややかな目と言葉が頭から離れず、しばらく怖い気持ちが抜けなかったが、やがてケーキをぱくつき始め、少し元気が戻ったのであった。
「喫茶七色仮面」からの帰り道、ソラミは夕日で長くなった自分の影法師……メイザードの挙動が気になって仕方なく、ずっと見つめていた。悪魔、それも魔王と呼ばれる大悪魔であると自ら称した彼であったが、偉そうながらも明るくフランクな物腰は、ソラミが抱いていた恐ろしい悪魔のイメージとは全くかけ離れたものであった。
(むしろ、あのオロコっていう女の人の方が悪魔っぽくて怖かったな……まあ、あの人だって正真正銘の悪魔らしいから当然かもだけど……)
『確かにオロコは多少の風格はあるが、いちいち融通が利かなくていかん。俺も奴とは付き合いは長いが、奴の堅苦しいところはどうにも煩わしいのだ』
唐突に、メイザードが話しかけてきて、ソラミは何も無い道でつまづきかけた。
「……びっくりするじゃないですか。ていうか、さっきから気になってたんですけど、わたしの心が読めたりするんですか?」
『読めるという程のことでもないが、影法師が足先で肉体に触れている以上、何となくわかるのだよ。尤も、そうでなくとも貴様のような単純な子供の考えることはお見通しだがな』
そう言ってメイザードは『ハッ』と一声で笑った。ソラミはカチンと来て頬を膨らす。
「子供子供言わないで下さいよ」
『十年そこそこしか生きていない人間が何を言う』
「それはそうですけど……」
ソラミは、メイザードと話しながら不思議に思っていた。同じ悪魔でも、オロコと話す時はあんなに緊張したのに、メイザードとは幾分自然に話せる……それは何故なのかと思っていた。単純に性格や物腰のためなのか、それとも、自分の命を救ってくれたためなのか……。
「メイザードさん」
『あー、どうした?』
「さっきは、有難うございました。わたしの命を助けてくれて……」
得体の知れない存在であろうと、恩人は恩人、きちんとお礼は言うものだとソラミは思い、素直にそう言った。そういう面では、ソラミは良い子であった。それに実際、ソラミはメイザードに感謝していた。オロコに死を宣告された時は、本当に怖くて、心が壊れるかと思う程だったからだ。だから、素直に言った。
「本当に、有難うございました……」
だが、
『小娘、貴様は少々勘違いしているようだな』
メイザードの返事は予想外のものであった。
「え?」
『俺は確かに貴様の命を助けた。貴様に興味があるとも言ったな。しかしそれは、あくまで俺の好奇心を満たすためにしたこと。貴様の喜ぶことをしてやるつもりなど俺には無いぞ。毛の先程にもな』
「あの……?」
『俺を誰だと思っている? 天下の大悪魔、魔王メイザード様だぞ。さっきオロコから聞いただろう、俺たち悪魔の本分を。わけあって今は力の大半を失っているが、悪魔として俺は一切妥協しない。俺は貴様を、果ては人間世界をかき回し続けるぞ。例え貴様の肉体が俺のものでなかろうと……なっ!』
メイザードがそう声を張り上げると同時に、軽快な音と共にソラミの尻ぺたを鋭い痛みが襲った。
「いっ……たぁ!」
驚いて飛び上がるソラミだったが、空中でもう一度、尻ぺたに衝撃が走る。パァンという音が、ソラミが着地した後も二度、三度と響く。
「何……これっ……平手で、お尻……叩かれてるみたい……っ!」
抗いがたい痛みに、思わずその場にうずくまってしまうソラミ。しかしどうだろう、ふと地面に目をやると、ソラミの影法師はいまだに直立の姿勢を取っていた。そして、影法師の両手がソラミの肉体の動きに反して振り上げられ……影法師自身の尻ぺたに思い切り振り下ろされた。
パァン!
「あっ……つ~~~っ!」
すると、またも尻ぺたを平手打ちの痛みが走り、ソラミは尻を押さえて悶絶した。道行く人が、ソラミに近寄って心配そうに声をかける。ソラミはそれに「大丈夫です大丈夫です」と答えると、慌てて立ち上がり、何事も無い風を装い歩き出す。
「……ちょっと、どうなってるんですか」
周りを気にして先程より声を小さくし、ソラミはメイザードに聞いた。メイザードはフハハと笑い、『驚いたか』と切り出した。
『他人には認識できんことだが、貴様の影法師が既に俺の意思で動いていることは貴様も気付いているだろう。影法師と肉体は表裏一体……つまり影法師が自らを叩けばその痛みは肉体に伝わるということよ。そして影法師に感覚は無いから俺は痛くも痒くもないというわけだ。影法師だからといって俺が貴様に手出しできないとでも思ったか? だとしたら浅はかだな! ま、そんな間抜けなところも人間の人間たる所以か』
「くぅ……わたしが影だった時はそんなことできなかったのに……反則です!」
『フン! そこが貴様と俺との格の違いという奴よ。若しくは人間風情と悪魔様との力量差とも言えるなぁ』
「そんな偉そうに……聞きましたよ、人間の体が無かったら何もできないって」
『それよ!』
メイザードがそう言うと同時に、ソラミは額に衝撃を感じ、思わず立ち止まった。影法師が自身にデコピンをし、ソラミを押し留めたのだ。メイザードは続ける。
『貴様たちの肉体は、俺たち悪魔が人間世界で好き勝手やるための器だ。道具だ。操縦式ロボットだ。人間の意識を残してやっている貴様の肉体においても、俺が憑りついた以上例外は無いのだ』
「そっ、そんな言い方無いじゃない!」
ソラミは憤慨するあまり敬語が抜けた。
『俺のやり方に文句は言わせん。覚悟しろ、貴様にはこれから俺の興味の赴くまま、俺の気が済むよう、働いてもらうぞ。俺の〝悪魔憑き〟としてな!』
「ええ……そんなぁ」
ソラミは気付いた。命は何とか助かったが、命の恩人はとんでもなく、ろくでもない輩だったのだと。そして改めて自覚した。自分は“悪魔に憑りつかれた”のだと。
メイザードは上機嫌な様子で、再びソラミの尻ぺたを思い切り叩き、言った。
『さぁて、手始めにオロコの奴の言っていたコンビニとやらに寄ってもらおう。そして例のポテトスナック・ハバネロンガァを山程買うのだ! 後で貴様の肉体を使って喰ってくれる!』
「ちょっ! なんであんな辛いの買わなきゃいけないの! それにわたしのお小遣いそんなに無いよ! ……ひんっ!」
ソラミが反論すると、またもメイザードはソラミの尻ぺたを叩く。しかも今度は止め処なく続く連打である。
『だったら金の限界まで買うんだよ。ほぅら言う通りにしないと尻が腫れ上がるぞ』
「ああああ痛い痛い痛いって! わかった、わかったってばぁ……。買えば良いんでしょ、買えば……。コンビニ行くよ、行きますよ!」
既に喫茶店に寄って今週の出費はそれなりなのに、ここで欲しくもない激辛お菓子のために貴重なお小遣いを使ってしまうのかと思うと、それだけでソラミは泣きそうであった。それとは逆にメイザードの声色は面白くて仕方が無いという風であった。ソラミの影法師が小躍りしながら歩いていることからも、その様子はありありとわかる。
『アッハッハ! 俺は叩いてわかる子供は大好きだ。だが、それにしてもだ、貴様は味覚まで甘々でおめでたいから気に入らん。何だあのケーキとナントカラテは! 口をつけるだけで胸やけがしたわ!』
「なっ……まさか食べたの? わたしの体を乗っ取ってる時に? やめてよ! 人の楽しみを勝手に……」
『ペッ! あんな乳臭いものを一口でも喰った俺の方が同情されるべきだ。とにかくわかったろう、口直しが急務なのだ。さっさとコンビニに行くんだよ早くしろよ』
「わかったから叩かないでーーーーーーーっ!」
それからソラミはメイザードに言われるままにコンビニに行き、ポテトスナック・ハバネロンガァ(税込価格:百五十円)を六つ買う羽目になった。ぐずっていると途端に尻叩きが始まるので、ソラミは涙ながらにレジへと走ることとなった。やけになった様子で商品をレジに叩きつけ、時折床に向かってキャンキャン喚く少女の姿は、その時のシフトだった店員たちの間で一週間ほど語り草になったという。
コンビニを出た後、家に帰りついたソラミは、夕食の支度をしていた母とのやり取りもそこそこに自分の部屋に直行。そして制服のままベッドに倒れ込んだ。
学校が終わってからまだ二時間と経っていないというのに、色々なことが起こり過ぎて、ソラミは心も体も疲労していた。具体的に表すと、頭が混乱していて、尻が痛い。
その全ての元凶とも言えるメイザードは、初めて見るこの時代の人間の家に興味津々といった様子で、ソラミと一緒に部屋に入ってからもえらく興奮していた。
『おい小娘、いつまでも寝ているんじゃないぞ。貴様が寝そべっていては影法師が小さい。ろくに物が見えんではないか』
部屋の明かりは上から照らしているから、それはそうなんだろうなと思い、ソラミは渋々起き上がり、ベッドの上に座った。痛みによる調教が有効とされるわけだよと、ソラミは尻の痛みと共に痛感していた。
『小娘、あれは何だ?』
「……あれって?」
『影法師を見ろ影法師を』
ソラミがメイザードの言う通りに自分の影法師を見ると、それはシーツの上で指を差す形を取っていた。メイザードの動きはソラミの影法師にいちいち反映されるのだと何となくわかってきたが、相変わらずどうなっているのかソラミには甚だ疑問であった。ともあれ影法師の指差す方向を見ると、そこは部屋の隅、学習机のある方向だった。
「学習机がそんなに珍しいの?」
『ああ。この部屋にある大体の家具は俺が知っている庶民のものと変わらんが、あんな机はちょっとお目にかかったことはないな。引き出しの数が異様に多いし、鍵も付いている。明かりや本棚も備えられているな。そして何より大きい』
「ふぅん、何百年って昔にはこんなの無かったんだ。わたしもよく知らないけど、一応、学生が勉強するための机だよ」
『ふむ、効率良く勉強ができるように作られているというわけか。快適さを全く犠牲にしているところはいただけないが、まあ人間ごときの発明としてはマシな方だな』
もう一つわかってきたことは、メイザードという悪魔は人間をとことん見下しているということだ。オロコも人の命を何とも思っていないきらいはあったが、メイザードは直接言葉にして人間を馬鹿にしてくるため、人間のソラミとしてはこちらの方が断然腹が立つのであった。
「居候なのに……なんでそんなに偉そうなの?」
『フン! 居候でも食客でも関係無い。貴様がどう思おうと俺は賓客だ。光栄に思えよ、貴様なんぞの影法師に〝居てやっている〟のだからな』
「やだよ……わたしのお小遣いは減らすし」
『そんなもの何だっても良いから、早くハバネロンガァを出せ。どこに仕舞った?』
「そんなものじゃないよ! 中学生にとってお小遣いがどれだけ大事か……」
『良いからさっさとしろ。また尻叩くぞ』
「……はぁい」
ソラミは不本意ながらもメイザードに従い、鞄の中からハバネロンガァで一杯のコンビニ袋を取り出した。メイザードが『ほぉ』と嬉しげに声を漏らす。
『よし。じゃあ体を借りるぞ』
「えっ、ちょっと待っていきなり……」
ソラミはタイムを求めたが、それより先にソラミの頭を例の衝撃が襲った。鈍い頭痛と眩暈にソラミが頭をかかえようとした時、既にソラミとメイザードの意識は入れ替わっていた。
『……待ってって言ったのに。痛いんだからこれ』
再び自身の肉体の影法師となったソラミは、体の感覚が無くなっても尚残る鈍痛に、念話でそう不平を漏らした。
「何、貴様の体も慣れてきている。前よりはマシになっているだろう。気を失っていないのが何よりの証拠だ」
影法師のソラミをそう言って見下ろすメイザードの姿は、喫茶七色仮面でも見た“ギラミ”であった。ソラミよりも目つきが鋭く、声こそソラミと同じだが明らかに荒っぽい。同じ体なのに、宿る意識が変わるだけでこんなにも雰囲気が違ってくるのかと、ソラミは改めて驚いていた。よく見ると、本来垂れ目である筈のソラミの目が、凶悪そうに吊り上っているのである。
ギラミと化したメイザードは、ベッドから立ち上がると、出し抜けに眼鏡を外し、机の上に置いた。更に、額にかかった髪をざらりとかき上げ、その辺にあったヘアピンで止めて額を露出させた。
『何やってるの?』
「眼鏡は異物感があって好かん。あと貴様の髪型では目の前が邪魔くさくて仕方が無い。俺が体を使っている時にはこうするからな」
『そんなに駄目……? まあ良いけど』
『さて、いただくとしよう』
メイザードは早速ハバネロンガァを一袋開封し、赤い粉末のたっぷり付いたポテトスティックをボリボリと食べ始めた。
「ん~~~やはりこの辛さ、堪らんな。しかも辛いだけでなくしっかり美味いところがなかなか素晴らしい。一目惚れよ。これを作った者は有能だな」
手に付いた粉を舐めとりながらご満悦のメイザードだが、ソラミは相当辛そうな真っ赤なスティックを見ているだけで、昨夜の散々な体験を思い出して気分が悪かった。甘いものこそ正義、ふわふわ食感こそ至高と常々思っているソラミにとっては、こんな激辛でざらざら食感のものは敵でしかない。が、メイザードにとっては違うようだ。ソラミは、喫茶七色仮面でオロコが言った「昨夜、あなたはこれが大変お気に召されました」という言葉を思い出した。あれは、恐らくソラミの意識の裏に潜んでいたメイザードに向かって言ったのであろう。
『ねぇ、辛いのが好きなの?』
ソラミは、ハバネロンガァを貪り続けるメイザードを見上げながら、そう聞いた。メイザードは、「ああ好きだね」と答え、一旦スティックを取る手を止めた。
「カリーに担々麺、そしてわさびの利いた江戸前寿司……どれもこれも好物だ。辛味は俺の人生、いや悪魔生そのものよ。あの目の覚めるような刺激、喉の奥まで蹂躙するかのような熱さ、そしてその後に訪れる悦楽、後引く感覚……。貴様のような感性が甘々の子供にはわかるまいな、このある意味の被虐的とも言える魅力は」
『また子供って言ったー。それは関係ないでしょ?』
「フン! 辛さに魅力を感じん奴は総じて子供よ。大人は辛いものをこそ愛すのだ。しかし、だ。辛いという感覚は味覚ではない。痛覚だ。辛味は時に苦しく、甘味や旨味が肉体にとって心地良いことくらい、俺も知っている。貴様が甘いものをひたすら好むのもある面では理解できなくもない。だが、甘さを存分に味わい尽くすためには、苦味や酸い味……そして時には辛味も必要なのだということが、貴様にはわかるか?」
「そんなのわかんないよ。からいって、もうつらいだけじゃない」
辛さが痛みであるという話は、ソラミもどこかで聞いたことがある。まして、ソラミは辛いものを口にする度に死ぬ思いをしているのだから、その感覚は正に痛いほどわかる。だからソラミには理解できなかった。この世間に、辛いものが好きな人が居るということが。その気持ちが。だからこそ、メイザードに辛いものが好きなのかと問うたということもあるが。
メイザードは、ソラミの意見など聞く気も無いという様子で、話を続けた。
「ま、わからんだろうな。貴様は舌と体が絶えず気持ち良ければそれが快楽だと思っているだろうが、それは大間違いだ。快楽という感情はどこから来るか? 生まれつき魂が知っている情報からか? いや違う。魂が感じる感覚は、全て経験と比較から成り立っている。快と不快、安全と危険、そして、甘味と辛味もだ。一方を知らなければ、もう一方をも感じることをもできなくなる。感情とは全て正と負の表裏一体なのだ。ある感情を完全に単独で扱うことなど不可能よ」
『そういうものなの? 難しく考えなくても、甘ければ甘いし、気持ち良ければ気持ち良いと思うけどなぁ』
「フン! だから貴様は子供だというのだ」
『はぁ!?』
「甘いものを食べれば脳が甘いと判断するのは当たり前だ。肉体に刺激を与えれば脳に快感が走るのと同様にな。だが、それは生まれたての赤ん坊の感じ方。経験を積んだ魂で感じる真の快楽とは言えん。それもわからず甘いものばかり食べ続け、短絡的な快楽にふける貴様は、歳に関係無く子供だ。餓鬼だ。いっそのこと猿と言っても良い」
『さ、猿って……そんな言い方……!』
「良いから黙って聞け。快感を絶えず与えられ続けると、肉体はそれに慣れてしまう。貴様が甘い菓子と甘い茶の組み合わせを何とも思わぬのと同様にな。だから肉体のみで感じられる快楽には限界があるのだ。だがどうだ、不快感や苦痛を知り、そこから快感への憧れを増大させた上で感じられる快楽は無限大だ。それは正に、酸いも甘いも……いや、辛きも甘きも舐め尽くした魂で感じる真の快楽よ。貴様とて、昨夜辛味に転げまわった後で心底迫られて口にしたアイスクリィムはとんでもなく甘かっただろう?」
『うむむ……まあ、それはそうだけど』
ソラミはメイザードの言い草には腹が立ったが、昨夜もなかアイスを頬張った時の、全身の力が抜けるような甘味と爽快感は確かに凄かったので、肯定するより他なかった。
「辛味は、味覚による快楽に深みを増す。俺は、適度に加えられたスパイス自体が料理に加える味わいも大好きだし、他の味覚を引き立てる激辛なスパイスも好きで堪らんのだよ」
『ふぅん、変わってるね。わたしにはわかんないや』
「フン! 何とでも言うが良い。貴様には十年早いわ」
メイザードは饒舌になり、さらに話を進めた。
「そして、更に素晴らしいことに、俺の悪魔としてのポリシーにも辛味は良く合う」
『どういうこと?』
「貴様も聞いた通り、俺たち悪魔の本能は、人間世界をかき乱し、負の感情を蔓延させることを常に俺たちに命じている。蔓延した負の感情は形となって新たな悪魔を生み、更に人間世界を波乱に陥れることができるからだ。だが、具体的にどういったことをするのか、わかるか?」
ソラミは思い出した。オロコの言っていたことだ。
『人間の負の感情を煽って、不和を引き起こす……?』
「かぁーっ! これだから餓鬼は。人から聞いたことの受け売りを平気でする」
『む……自分から聞いといて』
「わからずに物を言うなということだ。まあ、今貴様が言ったことは確かに正解だ。悪魔はその身に纏う気で、またはわざとに介入することで、人間の負の感情をかき立てるのだ。怒り、悲しみ、憎しみ、欲望、嫉妬……少しずつだが、とにかく何でも煽る。そういう負の感情の起伏は、時に人間に意欲や活力をもたらすから、良い結果を生むことも多々あるのだぜ。だが、負の感情は積もり積もると時に暴走する。感情が理性を飲み込み、自制が利かなくなるのだ。そんな風に感情を暴走させた人間たちは、当然まともにやっていけなくなるわけだ」
『まともにやっていけなくなるって、どういうこと……?』
メイザードの話に急に不穏な影が差し始め、ソラミは影法師でありながら背筋が寒くなるように感じた。
メイザードはそれを察したか、ニヤリと笑ってこう答えた。
「それは貴様の方がよく知っているんじゃないのか。新聞くらい読むだろう。人間世界で日々起こる悲しい悲しい事件、醜聞、悲劇……。これらのほぼ全てが、俺たち悪魔の日々の活動が絡んで起きたものだと言っても良いだろう。それこそ、夫婦の痴話喧嘩や盗人から、殺人、戦争、テロや虐殺までな」
『……本当、なの?』
ソラミは、新聞やニュースで見聞きした、悲惨な事件の数々を思い出していた。終わらない争い。いつまで経っても慈しみ合えない人と人。そして、時に自分すらも傷つけてしまう程病んでいく哀れな人たち……。それらを文章や映像から想像する度に、ソラミは食べているどら焼きがしょっぱく感じる程悲しい気持ちになるのを思い出していた。こんなこと、誰が望むのだろう、誰しも幸せこそを望んでいる筈なのに、何故こんなことが起こるのだろうと、いつも考えてしまっていた。
しかし、そんな悲劇を望み、自ら引き起こしている者が居るとしたら。そう考えると、ソラミはお腹の底が気持ち悪くなるのを感じた。
「ああ本当だ。これぞ悪魔の本分。オロコの奴の言った“人間の負の感情を煽って不和を引き起こす”を地で行く在り方よ。見ろ、人間世界は乱れに乱れ、負の感情で満ち満ちている。貴様たち人間も自ら認めている通りな」
メイザードは極めてあっけらかんと、そして極めて楽しげに、この恐ろしい事実を話した。
ソラミは戦慄していた。目の前で自分の体を使ってお菓子片手に喋っている者が、正真正銘の“悪魔”なのだと初めて思い知ったような気がしていた。ソラミたち人間とは、価値観が全く違う生き物なのだと。
しかし、ソラミは問いかけずにはいられなかった。
『そんなことをして……自分の所為で人が悲しんで、平気なの?』
「平気も何も、これが悪魔の仕事みたいなものだからな。さっき辛味の話をしただろう。あれと同じよ。人間は、辛味なくしては甘味を噛みしめることはできん。同様に、不幸なくしては真に幸福を感じることはできないのだ。考えてもみろ、貴様たちの大好きな平和や友愛にしても、争いを知っているからこそ成り立つ概念だ。人間が安穏という砂糖菓子を心から味わうことができるように……そのためにこそ、世界を引っ掻き回し、負の感情というスパイスをばらまき波乱を生み出す。それが悪魔だ。楽しい仕事だぞ」
『そんな理屈……通らないよ。あなたたちがやってることで、人が死んじゃうこともあるんだよ? そうならなくても、大勢の人の人生を滅茶苦茶にして……そんなことして良いわけが無いよ』
ソラミが食い下がると、メイザードはやれやれと言う風に口元を歪めた。
「馬鹿か貴様は。俺は悪魔だぞ。人間と同列に語るんじゃない。人間ならそうやって直情的な情けに走るのも致し方無しだが、俺は違う。幸と不幸が表裏一体であり、不幸の最中に噛みしめる幸福が何よりも深いことを知っているからこそ、俺は人間の心に波乱のスパイスを振りかけるのだ。いたずらに幸福のみを貪り続けていては、人間はつまらん動物に成り下がる。波乱のスパイスは人生に深みを与えるのよ。少なくとも俺はそう理解している」
ソラミは、メイザードの言うことを断じて認めたくはなかった。幸せであるために不幸せが必要だなんて、そんなことあって欲しくない。もしそれが真実なら、不幸せの果てに破滅していった大勢の人たちの人生とは何だったのか。だが、そう思えるのは、やはり自分が子供だからなのだろうか。わからない、何もわからない……。そんな思いが頭を渦巻き、ソラミは何も言えなかった。
メイザードは、何も言い返さないソラミの方を暫く不思議そうに見ていたが、やがてフッと微笑むと、影法師のソラミの額の部分を人差し指でぐりぐりとやり始めた。
『なっ……何するのよ』
「特に意味は無い。なぁ、小娘。貴様はどうしようも無く甘々だ。心も体も、そして生き方もだ。人に守られ、自らも人と争おうとはせん。俺は甘味も理解はするが、悪魔として甘すぎる奴を見過ごしておくつもりは無い。俺はこれから貴様の人生に波乱のスパイスを振りかけてゆくつもりでいる。それを、眠りから覚めた俺のリハビリ、そして悪魔活動の第一弾とすることに決めたのだ。貴様を、辛きも甘きも舐め尽くす“できた大人”にしてやろう」
『えぇ……わたしの人生を何だと思ってるのよ』
「案ずるな。波乱とはすなわち起伏。幸と不幸がないまぜとなった、どちらにでも転び得る状態なのだ。人生に深みを増すチャンスと言っても良い。適度にスパイスの利いた逸品となるか、思わず甘さの恋しくなる劇物となるか……人生をどちらに転ばせるかは、人間のやり様次第というわけよ。結局のところ、俺たち悪魔は基本的に上から茶々を入れることしかしないのだからな」
そういうメイザードの表情は、底意地が悪そうなのは言うまでも無かったが、それでいて、どこか我が子を見守る父親を思わせた。ソラミは思った。この自称大悪魔は、何百年、いや何千年もの昔から、こんな風に人間の生涯を見下ろしてきたのだろうか。自ら肥料をやり育てた種が、どのような芽を出し、どのような茎を伸ばし、どのような葉を広げ、どのような花を咲かせ、どのような実を付け……そして、どのような種を残し散って行くのかを、ずっと見守り続けてきたのだろうか。だとすれば、一体どのような気持ちで……。
(どのみち、人間とは本当に視点の違う生き物なんだろうな……悪魔って)
ソラミはそう考え、一度考えを置くことにした。この答えは、今度落ち着いた時にでも考えることしよう。そう決めた。
「いかんいかん、久方ぶりに人間とサシで喋ったものだからつい説教臭くなってしまった。今はこのハバネロンガァが与えてくれるひと時の悦楽に酔いしれる時よ」
メイザードはそう言うと、再びスティックをボリボリと食べ始めた。
『……食べた後でちゃんと歯磨きをうがいしてね。また口の中があんなになるのは嫌だよ?』
ソラミがそう釘を刺すと、メイザードは「へいへい。全く子供は我儘なことで……」と言いながら、続けてスティックに手を付けようとした。しかしその時だった。メイザードは不意に手を止め、指先をカタカタと小刻みに震わせ始めた。露出した額には、忽ち玉のような汗が浮かぶ。
『え、何、どうしたの?』
「あ……こりゃ駄目だ。ちと長く喋り過ぎた」
『喋り過ぎって……あっ、まさか』
ソラミは嫌な予感がした。メイザードはソラミに向かって首肯すると、言った。
「俺は数百年の眠りから覚めたばかりで、力の大半がまだ戻っていない。よって一日のうちに人間の体を操ることができる時間にも限界があるのだ。店で既にある程度の時間操っていたから急いで食べなければと思っていたのだが……思ったより時間が無かったな」
嫌な予感は的中した。ソラミの頭を昨夜の激辛の記憶がフラッシュバックする。
『なんでそんなリスキーな食べ方するの! 早く歯磨き行ってきて! 早く!』
「無理に決まっているだろう。あと二十秒も無いんだぞ。いやー、影法師をひとまずの居所に決めておいて正解だったな。こうなっても咄嗟に戻ることができる」
『呑気なこと言ってないで早くぅーっ!』
「さて、俺は疲れたから暫く寝るぞ。何、大丈夫さ。これも一つの経験だ。俺からくれてやる波乱のスパイス第一弾とでも思え。じゃあな」
これ自体は二回目だろうという突っ込みをさせる間もなく、頭痛と眩暈がソラミを襲った。そしてソラミとメイザードの意識は正常なたちまち場所に戻った……のだが、その瞬間にソラミが口腔内にごってりと残る激辛な味に飛び上がったのは言うまでも無い。
自分の影法師に居候中の悪魔から、清濁併せ呑んだ価値観を説いて聞かされたソラミ。幼いソラミがこの価値観の意味、そして是非について答えを出せるのは、まだまだずっと先になるだろう。むしろ最終的に答えが出るかどうかすらも不明瞭である。何と言っても、大悪魔の俺流思想。人間の理解の及ばない論理を用いていても何らおかしくはない。