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第一話 光影逆転

 雨宮ソラミは、大の甘党であった。

 好きなお菓子はどら焼きとミルフィーユ。正月のお節料理は母にねだって栗きんとんを大量に作ってもらう。甘いものを食べている間は脳がとろけそうになる程幸福で、頬の筋肉は仕事を止め、唾液分泌腺は大忙しになる……とにかく甘いものが好きな女の子であった。

 しかし、裏を返すと、甘いもの以外はとことん苦手であった。酸い味や苦味はお菓子に付き物なのでまだ平気だったが、辛味……特に唐辛子系の辛味だけは本当に駄目だった。口にするや否や顔が真っ赤になり、汗と涙が顎を伝い落ち、舌が空回りを始める。からくて、つらくて、何も考えられなくなる。小学校の頃、この状態をソラミは「辛の境地」と名付けた。

 そんなソラミであるから、十四年のこれまでの人生において、好き好んで辛いものを食べたことなど一度も無かった。ソラミの家族や友人たちも彼女の味覚を知っているので、敢えて辛味を勧めたりはしなかった。なのでソラミは、お小遣いで買う様々な甘いお菓子と、和食派の母が作るあっさりした味の料理と共に、日々をゆるりと過ごしていた。

 しかし、虫の声がちらほら響き始めた秋の、とある木曜日の夜に事件は起きた。

 深夜2時を回った頃、自室のベッドで寝ていたソラミは、突如として口腔内を襲った刺激に目を見開いて飛び起きた。

「ン~~~~~~~ッ!?」

 反射的に抑えた口から、叫びとも嗚咽ともつかぬ声が漏れる。状況を全く理解できぬままソラミの体はのたうち、ベッドから転げ落ちた。

 辛い。

 猛烈に辛いのだ。

 舌にじんじんと響く痛み、口の中から喉の奥までを支配する、味とも風味ともつかぬ香辛料独特の感覚。間違いなく、約十年ぶりの「辛味」を、ソラミは味わっていた。しかも、これまで食べたどんなものよりも辛い。まさに火を噴かんばかりである。

(何これ……何これ……)

 しこたま打った肘の痛みに少し辛さが紛れたが、それでも「辛の境地」にある頭は思うように働かない。一体何故、自分が今こんな目に遭っているのか。辛いものなど食べる筈もないのに、何故口の中がこんなに辛いのか。何もかもがわからなかった。

(なんでこんなに辛いの……わからないけど、今はそれどころじゃない。このままじゃ死ぬ、辛くて死んじゃう……)

 甚だ大袈裟であるが、久しぶりに味わった大刺激に命の危険さえ感じたソラミは、手を突いて立ち上がり、枕元の眼鏡をかけると、突進するように部屋のドアを開けた。思考が断たれた今、それは最早本能に裏付けられた行動であった。ソラミは廊下の明かりも点けずに階段を駆け下り、一階にあるキッチンへと飛び込んだ。向かった先は、ドアをくぐって右斜め前方にある、冷蔵庫であった。明かりの確保のために冷蔵室の扉を開けたが、そこに並ぶ水には手を出さない。下手に水を飲むと口の中の辛さが強調されてしまうことを、ソラミは知っていたからだ。本命はその下の冷凍室の中。十月になってもまだまだ暑いからと、夕方に買っておいたアイスもなかである。ソラミは冷凍室の引き出しを乱暴に開け、アイスもなかを引っ掴んで包みを引き裂くと、大口を開けて勢いよくもなかにかぶりついた。

 もなかの割れるパリという音に次いで、ゆっくりとした咀嚼音が続いた後、ほぅ、と小さな嘆息が洩らされた。冷蔵室の明かりに照らされたソラミの顔は、汗だくでありながらも安心しきって緩んでいた。

「助かったぁ……」

 思わず体から力が抜け、ソラミはぺたんと床に尻餅をついた。もういっそのことと思い、そのままごろんと床に寝そべり、もなかをぱりぱりとかじる。あんな散々な目に遭っても、もなかアイスの肉厚な甘さをもってすれば、すぐにこんなにも安らかな気持ちになれる。やっぱり甘いものって凄いなぁ、ソラミはそう思った。

 やがて、物音に目を覚ました母がキッチンにやって来て、ソラミは深夜につまみ食いをしたとして大いに叱られた。切羽詰まっていたとはいえ言い逃れのできない状況であったから、ソラミは眠そうな母に平謝りをした。しかしその一方で、どうしても先程の不可解な出来事についての疑問が頭を離れなかった。


 一夜明けて金曜日。

 結局朝まで考え込んでいたソラミは、寝不足の目を擦りながら通学路を歩いていた。何故、身に覚えのない辛味を、それも突如深夜に感じたのか。それについて結局何も答えは出ず、疑問と疲れと眠気だけが持ち越された形である。多大な割損感を覚えながらソラミが本日何度目かの大あくびをすると、背後から聞き慣れた声がした。

「おはよー」

 そう言いながらソラミの左側に並んだ少女は、ソラミの幼馴染の環晴子であった。ソラミは晴子に「おはよう」と返しながら、自分と対照的に目覚めすっきり気分爽快であろう彼女の顔を眩しく思った。気弱でインドア派のソラミと違い活発でスポーティな彼女だが、今朝の肌つやと声の張りは格別である。

「なんか眠そうね。夜更かしでもした?」

まぶたの落ちかけているソラミの顔を不思議そうに覗き込みながら、晴子は尋ねた。

「ああ、それがね……ちょっと聞いて欲しいんだ」

 ソラミは、昨夜起こった不可解で散々な事件について、晴子に話した。混乱した様子で話すソラミの言葉を、晴子は一言一言興味深そうに頷きながら聞いていたが、話が終わるとこう言った。

「ごめん、全然わかんない」

「だよね……わたしもわからないもん」

 そう言ってソラミは肩を落としたが、晴子の潔ささえ感じる言い切りには安心感すら覚えた。晴子は続けた。

「話を整理すると……っていうか整理する程のことでもないか。辛いものなんか食べる筈無いのに、辛かった。うん、わかんないわ。なぞなぞかしら」

「なぞなぞみたいに答えがあるなら教えて欲しいくらいだよ。何が何だか」

「何者かが深夜にソラミの部屋に忍び込み、ソラミに辛ぁいのを食べさせたとでもいうのかしら。それか、寝惚けてたってことはないの? 夢で唐辛子でも口に突っ込まれてさ」

「わたしも、最初はそう思ったんだ。でも、そうじゃないの。あの後、ゲップまで出たんだから。辛い味のするゲップ」

「……知った仲だけど、女の子があんまりゲップゲップ言うもんじゃないわよ」

「あ、そっか。ごめん気をつけるよ」

 付き合いの長い晴子には充分知られていることだが、ソラミは女の子としての建て前、所謂女子力というものには甚だ疎い。飾らない性格と言えなくもないが、甘党であることといい、とかく精神面が子供じみていると言われても仕方のない性格なのだ。

「それでね、折角もなかアイス食べて回復したのに、その所為で口の中にまた辛いのが戻って来ちゃったんだよね。もう本当に嫌でさぁ、今度はこっそり下に降りて一口チョコ食べたの。それで何とかなって良かったよ」

 ソラミはそう言って笑顔を見せたが、晴子は「うわぁ」と言って苦笑いをソラミに返した。

「あんた、それ絶対太るやつだからやめた方が良いわよ」

 それを聞いて、ソラミはビクッと体を震わせた。

「や、やめてよそういうの……怖いでしょ」

 女子力に拘らないと言っても、太りたくないという感覚はソラミにもあるようである。それを見て、晴子はふっと笑うとソラミの頭をポンポンと叩いた。

「大丈夫だって、もしソラミが太ったらランニングくらいは付き合ってあげるから」

「もう! やめてって言ってるのに」

 ソラミは憤慨した。しかしその怒り顔はムキになった子供そのもので、晴子を更に笑わせたのであった。


 その後、ソラミは晴子と共に学校に着き教室に入ったは良いのだが、そこから先がいけなかった。昨夜ろくに寝ていなかったソラミには、学校まで歩いて来るまでが体力の限界であり、自分の席に着くや否や机に突っ伏して眠りこけてしまったのだ。元々夜の九時には眠くなり、どんなに遅くとも十時には寝るソラミである。興奮で目が冴えていたとはいえ、深夜二時から朝まで起きている言わば「半徹」など無謀中の無謀だったのだ。授業中は、隣の席の晴子や後ろの席の佳代に肩を叩かれ背中をつつかれ、何とか頭を上げていたので先生に怒られずには済んだが、当然授業の内容等頭に入るわけが無く、結果、一日欠席したのと変わらない状況になってしまった。


「ソラミー、全部終わったよー。釈放だよー釈放―」

 帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが騒がしく帰り支度を始める中、机に額を付けたままピクリともしないソラミの頭を、晴子はベシベシと叩いていた。その様子を、佳代はソラミの後ろの席で微笑ましげに見ていた。

「本当、ちっちゃい子とその保護者って風情ね」

 飯村佳代。ソラミと晴子にとっては、中学校に入ってからの友人である。成績はそれなりに良い方だが、おっとりゆるゆるとした性格で、ソラミの背中に落ちる目は今日も細い。

「風情って言うにはちょっと気が抜けなさ過ぎるわよ。今日だって始終ハラハラものだったんだから」

 晴子がそう言いながらソラミのはねた髪の毛を一筋引っ張ると、佳代は「そうね」と言いながらソラミの脇腹をつんつんつついた。

「でも、構わずには居られないのよね。今日だって、ソラミちゃんが先生に当てられないように自分から手を上げたりして。甘いんだぁ」

「……ばれてた?」

「大ばれよ。今日の分のノートだって、写させてあげるんでしょ。いつもより字が綺麗だわ」

「あたしの字はいつだって綺麗よ」

「あら失礼」

 ウフフと笑う佳代を見て、晴子はいつもながら敵わないなぁと感じた。ソラミと晴子の幼馴染としての間柄を、佳代が見て楽しんでいることは、去年から晴子はなんとなく知っていた。

「まあそれはそれとして、あたしそんなに甘いかなぁ」

 晴子が装尋ねると、佳代はウーンと考え込む仕草を見せた。

「ソラミちゃんの親御さんでもあるまいし、気にすることも無いと思うけどねぇ。ソラミちゃんの為を思うなら何が最善なのかっていう問題もあるけど……あっ」

「どうしたの?」

「これ、もうちょっと軽い答えの方が良かったかしら」

 晴子はずっこけそうになった。

「知らん!」

「ごめんなさい真面目に答えちゃって。もっとこう、大甘よぉ~、仲睦まじくて羨ましいわぁ~とかの方が良かったわね。空気読めなかったわ」

「うるさいわよもう……真面目に考えてくれても良かったのに」

「ソラミちゃんと晴子ちゃんは、変わらない限りそのままで良いというのがわたしのスタンスだもの。ほら、ソラミちゃん起きたみたいよ」

 そう言った佳代の視線を晴子が追うと、ソラミが机から顔を上げて惚けた顔をしていた。

「おはようソラミちゃん」

 佳代がそう言って席を立ちソラミの前に回ると、ソラミはにへっと笑って手を振った。

「あー、佳代ちゃんおはよー」

 涎の垂れた口でそう返すソラミ。それを見て、佳代は口元を抑えて悶絶した。笑いをこらえてプルプル震えるその肩を横目に、晴子はため息をつくと、ポケットからハンカチを取り出してソラミに手渡した。

「ほら、口元拭きなさい。涎まみれよ」

「んー、あ、晴子もおはよー」

「はいはい、おはようおはよう」

 ソラミが寝惚け眼で口元をハンカチでぐしぐし拭うのを確認すると、晴子は鞄からノートを数冊取り出した。

「これ、今日のノート。土日前だし、貸したげるから写すと良いわ。返すのは月曜で良いから」

「……ごめんねぇ、ありがとう。ハンカチも月曜で良いかな。洗って返すよ」

「いやいや、それぐらい良いから。ほら、ここにも付いてる」

 晴子はソラミの手からハンカチを奪うと、ソラミの口元を念入りに拭き取った。佳代はまだ悶絶していた。

「あ、そうだ。帰りのホームで先生が言ってたんだけど、文化祭の出し物、月曜に時間取って決めるんだって」

「えっ」

 晴子のなすがままになっていたソラミだったが、ここで目を見開いて晴子の方を見た。

「ん?」

「どうしたのソラミちゃん」

 晴子と佳代が不思議そうにソラミの顔を見た。ソラミは数秒固まっていたが、やがてはっと気づいたように頭をぶんぶんと振った。

「ううん、何でもない。大丈夫大丈夫」

「本当に?」

 佳代がそう聞きながら、ソラミの赤くなったおでこを軽く撫ぜた。

「あう……本当本当」

「まだ寝惚けてるんでしょ。危ないから、しっかり目覚ましてから帰るのよ。あたしはソフト部行ってくるから」

 晴子が立ち上がりざまにそう言って鞄を掴み、ソラミと佳代に軽く手を振った。

「晴子行ってらっしゃーい」

「キャプテン頑張ってねー」

「はいよ!」

 晴子が教室から去ると、佳代も鞄を肩に掛けた。もう教室には二人を覗いて誰も居ない。

「わたしも塾があるからそろそろ行こうかな。ソラミちゃん、途中まで一緒に帰る?」

「うん、そうする」


 学校を出てから、ソラミは佳代と最近のテレビの話だとか美味しいお菓子の話だとかをしていたが、塾へ行く佳代と曲がり角で別れてからは一人になった。

 ようやく頭も冴えてきたところで、ソラミは先程頭に浮かんだ一件を思い出していた。

 晴子が文化祭の話題を出した時にソラミが露骨に反応したのには、理由がある。文化祭の出し物についてであるが、やはり王道を行くということで、喫茶店にするのが良いだろうという話が、早いうちからクラス内でちらほら出ていた。やはり可愛い衣装で接客したりお菓子を作ったりということへの憧れは皆強いようで、最早喫茶店、いやメイド喫茶で決まりで良いだろうという空気がクラス内に満ちつつあるのが現状である。

 ソラミとて、女の子として可愛い服に魅力を感じないわけではなく、メイド喫茶も悪くないなとは思っていた。しかし、本音を言うと、ソラミの一番やりたいことは別にあった。ソラミは文化祭で演劇をやりたいとかねてから思っているのだ。昨年の文化祭で、先輩の演じる創作演劇を見て以来、自分も来年はと憧れ続け、密かにシナリオまで温めてきた。しかし、クラスのムードを壊すのはソラミにとって本意ではなかったし、また自分の書いた稚拙極まりないお話を演じてくれと皆に頼むのも気が引けた。なので、あわよくば実現して欲しいが、実現しなくて当たり前、あのシナリオは自らの黒歴史としてお蔵入り決定……既にソラミは演劇についてはそう割り切っていた。決して未練が無いわけではなく、出し物が月曜に決定すると聞いて咄嗟に反応してしまったが、とっくに諦めはついている。ソラミはそういう面ではあっさりした性格であった。

 今はそれよりも、寝不足に次ぐ寝過ぎで疲労した頭に栄養分を補給したいという気持ちの方が強い。小腹も減っている。ソラミは行きつけの喫茶店へと進路を取った。中学生のお小遣いでそう頻繁に喫茶店でお茶などできる筈も無いので、ここに行くのは土日のどちらかだけと決めているのだが、昨日の晩は散々な目に遭ったのだから、少し前倒しにしても罰は当たらないだろう。そう思い、ソラミは歩きながら財布の中身を確認した。

「……あれ?」

 小銭の枚数を数えていたソラミは、明らかな違和感を覚えた。

「こんなに少なかったっけ?」

 七百円はあったと記憶していた小銭が、二百数十円しか残っていなかったのだ。勘違いしているだけで、何かお菓子でも買ったのだろうか。しかし、そこは大甘党のソラミのこと、買ったり食べたりした甘いものは全て胸に刻み込んでいる。ならば、これは一体どういうことなのか……。

《食べた覚えのない辛いもの》《使った覚えの無いお金》

 不意に、ソラミの中で昨夜の事件と今起こった事件が繋がったような気がした。けれど、繋がるにしても全く理解不能な出来事である。甘いものの食べ過ぎで脳が馬鹿になり、記憶障害を起こしているとでもいうのだろうか。そんな馬鹿なことってあるのだろうか。ソラミにはわからないことずくめであった。

(ええい、わからないことは考えないことにしよう。糖分の無駄だよね)

 そう割り切り、ソラミは角を曲がると見えた喫茶店に向かって歩みを速めた。お札も合わせればお茶とケーキを頼むには充分だったことだし、何より今は無性に甘いものが食べたい。ソラミは「喫茶七色仮面」の札がかかったドアを押し、店に入った。

 昭和歌謡が流れる、茶系の色合いをした店内は、今日もソラミ好みのゆったりとしてムードを醸し出している。金曜の夕方ということもあってか先客は何人か居たが、幸いお気に入りの窓際の席は空いていた。

「いらっしゃい」

 カウンター越しに髭面のマスターから声をかけられ、ソラミは会釈を返すと、少し照れて赤くなりながらこう言った。

「……マスター、いつもの」

「あるよ」

 ノリの良い返事を返してくれたマスターの顔は、可笑しくて仕方が無いというようだった。他のお客の中にも、クスリと笑う人がちらほら。ソラミは、小さい頃からのちょっとした憧れのやり取りに今日も付き合ってくれたマスターにペコリとお辞儀をすると、速足で窓際まで行き、席に座った。

 今日も頼んだソラミの「いつもの」は、マスター自慢のレアチーズケーキと、ソラミの個人的好みのアーモンドキャラメルラテ。因みにマスター自慢のドリンクはブルーマウンテンである。大変甘々な、そして濃厚なコンビを毎度ソラミは頼むのであるが、ここまで甘さを追究してこそ、週一の楽しみに来る甲斐があるのだと彼女は常々思っている。「いつもの」が来るのを今か今かと待っているこの時さえ、ソラミにとっては至福の時間だ。先週食べた、そしてこれから食べるあの甘い味を思い浮かべるだけで、ひとつ歌でも歌いたくなるような良い気分になる。

 こんな幸せな気分に浸れるのだ、喫茶店は実に良いものじゃないか。文化祭の出し物だって、皆で喫茶店をやってこんな風に幸せになれば良い。そうだそれが良い。そう思うと、ソラミの表情は無意識に緩み、締まりの無い笑みがひとつ漏らされた。

 その時だった。

 出し抜けに入口のカウベルが鳴り、お客が一人入って来た。その人は、常連のソラミからしても初めて見る人で、白黒のエプロンドレス……所謂メイド服らしき衣服に身を包んだ女性であった。すらりとした長身で、挙動もきびきびとしている。つやのある黒髪を後ろで一つにまとめ、切れ長の目に縁無し眼鏡をかけたその姿は、知的で美人なお姉さんという風情だ。しかし、その顔は無表情でピクリとも動かず、何やら能面のような印象を与える。

 明らかに雰囲気の違うお客の来店に、店中の視線は一時その女性に注がれたが、すぐにまた、皆それぞれの時間に戻っていった。しかし、ソラミにだけはそれができなかった。何故か。

それは、女性がソラミの座る席に向かって一直線に歩いてきたからである。

 まさか、いやまさかと思っているうちに、あっと言う間に目の前にまで接近され、ソラミは当惑した。すると女性は無表情のままソラミを見下ろすと、低音の利いた声で言った。

「相席、宜しいですか?」

「えっ……」

 ここまで接近してきたのだから、つまりはそういうことなのだろうと納得はしたが、ソラミとて自分だけの至福のティータイムを過ごしにここに来たのだ。他の席も空いているのに、見ず知らずの他人と相席など嫌に決まっている。

「えっと……いや、あの、そのぉ……」

 しかし、そこは身内に対しても気弱なソラミのこと、知らない人にはなかなか強気に出ることができない。ごにょごにょとどもっているうちに、

「宜しいですか?」

「……はい」

 女性に押し切られてしまった。

 女性がソラミの向かいに座ると、丁度ソラミの「いつもの」が運ばれてきた。ウエイターのお姉さんは、「いつもの」をテーブルに置くと、ソラミに「知り合いの方?」と尋ねた。

「え……いや、その」

多分知り合いではないし、この女性が何者なのかソラミにも皆目見当がつかない。何と答えたら良いものかもわからない。

「そんな所です。ひとかたならぬご縁がありまして」

 すると、向かいの女性が口を挟んだ。お姉さんは「そうでしたか。ではごゆっくり」と納得したが、無論そんな所であるわけが無い。ひとかたならぬご縁も無い。目の前でコーヒーを注文するこの女性を、ソラミは今まで一度も見たことが無いのだから。

 お姉さんが去ってから、ソラミは遠慮がちにレアチーズケーキに手をつけ始めたが、頭が混乱して味わうものも味わえなかった。女性はケーキを頬張るソラミを無言、無表情で見つめているだけで、微動だにしない。ソラミがアーモンドキャラメルラテを飲む時に緊張のあまり大きな音を立ててしまっても、眉一つ動かさない。

(何これ。落ち着かない。折角のティータイムが台無しだよ……)

 ソラミは何だか泣きたくなってきた。

「ところで」

 その時、突然女性がソラミに話しかけてきた。

「随分と甘そうですね。よく頼まれるのですか?」

 女性の視線がソラミの「いつもの」に落とされていることに気付いたソラミは、慌てて「は、はい」と答えた。女性は続けて質問した。

「これが好物?」

「……はい」

「あなたは甘党?」

「……そうです」

「それも大の?」

「……そうですけど、あの、すみません、なんでそんなことが気になるんですか?」

 ソラミは女性の質問に答えながら、勇気を振り絞って何とかそれだけ聞いた。

「別に、ただ聞いただけです」

 しかし、女性の答えは気の無いものだった。

(何なんだこの人―っ!)

 勘弁してくれ。ソラミはそう叫びたくてならなかった。人のティータイムを邪魔したかと思えば、何の用があるのかもはっきりしない。このままこの女性がこの席に居座るつもりならば、いっそケーキを食べかけのままにしてでも、今すぐここから立ち去りたい。ソラミがそう思った時だった。女性がこう言った。

「辛いものに興味はおありですか?」

 ソラミは思わずケーキから顔を上げた。見ると、女性の口元はにやりと薄ら笑いを浮かべており、先程までの知的なイメージとは打って変わって、何やら妖しい雰囲気を漂わせていた。

 女性はどこからともなく赤い袋を……見たところスナック菓子の袋を取り出すと、その場で開封し、中から細長い棒状のスナックを取り出した。その行動の意味をソラミが考える間も無く、女性はそのスナックをソラミの眼前に突き付けた。そして言った。

「まだ寝起きのようですが、これはお忘れですか?」

 突き付けられた棒からソラミが反射的に目を逸らすと、女性の持つ袋に印字してある文字が目に入った。そこには「ポテトスナック ハバネロンガァ」とあった。その脇に「激辛注意」とも。

(なっ……!)

 自分の天敵じゃないか。ソラミがそう思うより速く、女性は「ポテトスナック ハバネロンガァ」をソラミの口に突っ込んだ。

「んんっ!? ん~~~~~~っ」

 唇、そして舌から伝わるヒリヒリとした刺激に、ソラミは思わず大声を上げそうになる。しかし、女性がその口を手で塞ぐ。そして、ソラミにこう囁く。

「思い出しませんか? 昨夜、あなたはこれが大変お気に召されました」

 唐辛子を練り込んだポテトスティックをカリッと揚げ、胡椒やハバネロパウダー等辛い粉をこれでもかと言う程まぶしたメーカーこだわりの一品。それを口に入れられたソラミの意識は瞬時に「辛の境地」に達し、女性の声が届いているかどうかも怪しかった。しかし、その代わりにソラミの意識の最奥の最奥、無意識の部分が外に向かって一気に盛り上がり、表の意識を押しのけていった。まるで、頭という袋の底を掴んで裏返すかのように。その衝撃にソラミは気が遠くなり、あっけなく失神した。


 どれくらい経っただろうか。まさか数時間もは経っていまいが、数十分、数分……もしかすると数秒だったのかもしれない。とにかく、しばらくの昏睡状態から、ソラミは目覚めた。

(さっきの、何だったんだろう……頭がズキズキする。あ、でも口の中はもう辛くないや。良かった……)

 そんなことを思いながら、目を開く。大きなファンが羽根をゆっくり回転させているのが見えるため、ここは「喫茶・七色仮面」の中なのだろう……そうソラミは悟った。そして、同時に、自分が天井を見上げていることを疑問に思った。

(まさか、眩暈でも起こして倒れたのかな。参ったな……マスターに迷惑かけちゃった)

 そこまで考え、ソラミが自分の右手を顔に持って行こうとした時だった。とてつもない違和感がソラミを襲ったのである。

(手が……無い?)

 まさかそんな、とソラミは思ったが、顔に持って行こうとした自分の右手に感覚は少しも無く、視界に手が映ることも無かった。慌てて左手を動かそうとしたが、これまた何も感じなかった。手だけではない、両の足もまた、何の存在感もソラミには感じられなかった。

(わたしの体……一体どうなっちゃったの……)

 怖くなったソラミは自分の腕を、足を、体を見ようと首を動かした。しかし、それも駄目だった。首もまた自由には動かず、ソラミはただ天井を真っ直ぐ見上げるだけであった。そこまでを実感した時、ソラミは気付いた。

 今の自分には、肉体が無いのだ。

 ソラミ自身にも信じられないことだったが、信じざるを得なかった。手足などの部分部分に限らず、まぶたも、口も、鼻も、耳も、肺や心臓さえも、何一つソラミには存在を感じられなかった。何一つ思うままに動かず、何一つ気配が無い。声さえ上げられない。

(わたし、今どうなってるの? 死んでる……にしては、意識がはっきりしてるし、まさか、幽霊にでもなっちゃった……?)

 ソラミが困惑しきって、無い頭を無い腕で抱えた時だった。

「幽霊にしては凄味が足りていないな」

 突然、聞き慣れた、そう、物凄く聞き慣れた声をソラミは聞いた。ソラミの遥か上空から聞こえてくるようでもあり、内から響いてくるようでもある声だった。

声の主が再び言葉を発した。

「まあ、ひとまず落ち着くが良い。貴様は死んだわけでは無い。今は自分の置かれた状況がわからず困っているだろうが、安心しろ、俺が一切を説明してやろう」

 長めの言葉を聞き、ソラミは気付いた。そして、驚愕した。ソラミに語りかけるその声は、あろうことかソラミ自身の声だったのである。

(わたし「俺」って言った……? でも、確かにわたしの声だ。聞き慣れてるわけだよ。でも、わたしは今ここに居るでしょ、多分だけど。だったらどうして……)

「あー、そこからは見えていないのか。少し待て。椅子を近づけよう」

 ソラミの声が、ソラミの思考を読んだかのようにそう答えたかと思うと、ガタンと椅子を動かす音がした。「喫茶七色仮面」の椅子の音だとソラミは悟った。

「これで良いだろう」

 ソラミの声がそう言うと同時に、ソラミの視界に何者かの顔が入って来た。ソラミを覗き込むようにして見下ろすその何者かの顔は、照明が逆光になっていたので一瞬わからなかった。しかし、目を凝らしてその正体を見極めた時、ソラミは無い口でアッと叫びそうになった。

 声だけではなかった。ソラミに語りかけ、今ソラミを見下ろしている人物のその顔は、紛れも無くソラミのものだったのである。

(わたしが……二人?)

「いや、一人だ。そして、どちらかというと雨宮ソラミはここに居る」

そう言って〝目の前のソラミ〟は自分の胸を親指で指した。その仕草には余裕が見られ、口角をぐいと吊り上げて笑うその表情にも、普段のソラミでは考えられぬ獰猛さが満ち満ちていた。そして、特に目だ。普段のソラミの三割増しには見開かれたその目は妖しくギラギラと光っており、底知れぬ迫力を持っていた。

これは自分ではない……そう、ソラミではない。ソラミと同じ顔をしているが、言うなれば〝ギラミ〟だ。ギラギラとした〝ギラミ〟だ。子供じみているが、ソラミには直感でそう思えた。

(どういうこと……? だってわたしは現にここに居て、目の前に居るのもわたしで……でもこんなの絶対わたしじゃない……)

 ソラミが余計にわけがわからなくなったその時、

「何を一人でブツブツ仰っているのかと思えば……こういうことですか」

 先程のメイド服の女性の声がした。少し遅れて椅子に座る音がし、ソラミの視界に女性の顔が入ってくる。〝目の前のソラミ〟……ギラミと同じくソラミのことを見下ろす女性からは、先程の妖しげな雰囲気は消え、無表情な顔に戻っていた。

「どういうおつもりですか? 主の悪趣味は知っていましたが、これには少々呆れざるを得ません。付け加えますと、人の手間を何だと思っているのかと」

 女性がギラミに対して厳しい目つきでそう述べる。ギラミはそれを煩そうな顔で聞き、「はいはい」と返した。

「説教したくなる気持ちもわからんではない。だがな、思ったより力の消耗が激しかったのだ。そう厳しいことを言ってくれるな」

「そういうことならば、お早く回復するよう努めて下さい。私も手は尽くしましたが、あまり猶予はありませんよ」

「ほう、お前が焦るか。これは一大事のようだな」

 そう言って楽しそうに笑うギラミを見て、女性は軽くため息をついた。

「焦っているという程でもありませんが、そう見えたのだとすれば、一体どなたの所為なのかを良くお考えになって下さいね」

 ソラミは二人(片方は自分の姿をしているが)のやり取りを聞きながら考えていた。会話から二人は主従関係にあることは窺えるが、会話の内容はどこか浮世離れしている。一体何者なのだろうか、そう考えていた。

「それはそうとだな、こうなってしまったからには、こいつに一応の説明はしておこうと思うのだ。俺の為にも、こいつにはつつがなく日々を過ごしてもらわんと困るからな。手鏡か何か無いか」

 〝こいつ〟のところで下のソラミを指差しながら、ギラミは女性に向かってそう言った。女性はそれを聞くとエプロンドレスのポケットから、シックなデザインのコンパクトを取り出し、「これで宜しければ」とギラミに差し出した。

「さて、と……貴様だ。本題に入るぞ」

ギラミは、再びソラミを見下ろしてそう言うと、コンパクトを開き、中の鏡をソラミに突き付けた。

「これが今の貴様だ」

(……え?)

 ソラミは、鏡に映った自分の姿をまじまじと見たが、それが何なのか今一つ理解できなかった。すぐわかったことは二つ。一つは、一応自分は今までと変わらぬ人間の輪郭をしているということ。もう一つは、自分は黒いということだ。それから少し間を空けて、ソラミの中に疑問が生じた。何故、自分はこんなにも真っ黒なのか。

(黒、い……? 真っ黒……?……あああっ!)

 大分遅れて、ソラミはようやく気付いた。

〝影〟だった。今のソラミは、他ならぬソラミ自身の影法師と化していたのであった。今目の前にいるギラミは、影法師となったソラミから見たソラミの肉体だったのだ。天井を見上げたまま動けなかったのは、自分がテーブルに落ちる影法師そのものだったから。ただの像である影法師に、手も足も動かせるわけが無かったのだ。

しかし、ここで新たな疑問がソラミの中に生じた。自分が「雨宮ソラミ」の影法師になっているなら、その影法師の主たる「雨宮ソラミ」の肉体……つまり、今の〝ギラミ〟は一体誰の意思で動いているのであろうか。

 そんなソラミの心を見透かしてか、ギラミは口の端をニヤリと吊り上げ、影法師になったソラミの額を人差し指でぐりぐりとやりながら言った。

「状況を理解したようだな。まあ一つ話をしようじゃないか。今のお前に口は無いが、普通に喋る感覚をイメージしろ。それで俺には伝わる」

 額を押される感触こそ無いものの、文字通り見下した扱いを受けているソラミは、決して気分は良くなかった。しかしそれ以上に、この不思議と言っても余りある状況をもっと良く知るため、目の前に居る「自分の体に宿る者」と話をしなければならないと思い、会話に応じることにした。

『わ、わかりました。これで……聞こえますか?』

「ああ、上々だ。それに、言われなくとも敬語が使える子供は嫌いではないぞ」

 実際のところは気弱なだけなのだが、ソラミは余計なことは言わないことにした。ギラミは言葉を続けた。

「さて、掻い摘んで説明するぞ。今、俺は貴様の肉体を一時的に借りている。それによって貴様の意識は肉体から追いやられ、己の影法師に宿っているというわけだ」

『影に、意識が宿るって……そんなことがあるんですか?』

「あくまで〝影法師〟の話だ。影法師が人の似姿である以上、俺の力を以てすれば人の意識が宿ることもあるさ。現に、それを応用してさっきまでは俺が貴様の影法師になっていたのだ。今はこうして表に現れているがな」

 影に意識が宿り、それが表に現れる……それを聞いて、ソラミはハッとして、思い出した。昨夜の奇妙な事件のことを。食べた覚えの無いもの、使った覚えの無いお金……全てが今繋がった。

『まさか、昨日の夜は、あなたがわたしの体を今みたいに乗っ取って……』

「ああそうだ。一走り店に行って、ポテトスナック・ハバネロンガァとやらを買わせてもらった。悪いとは思ったが、何しろ辛味に飢えていたんでな。許せよ」

 そう言うギラミの顔は、許せよという台詞には似合わず、全く悪びれていなかった。むしろカンラカンラと笑っていた。それを見て、ソラミは無性に怒りが込み上げてきた。真っ黒な影法師でなければ茹だこさながらであろう顔をして、ソラミは言い返した。

『なんでよりにもよってあんな辛いのを買うんですか! わたしの大切なお小遣いを辛いのなんかのために……信じられません! そもそもあなたは誰なんですか! 何のためにこんなひどいことを! こんな……っ!』

「…………」

 ギラミは、ソラミの剣幕に少し驚いたようだった。しかし、やがてフッと表情を綻ばせ、遂にはハッハッハと高笑いを始めた。ソラミの肉体には似合わない、あまりに豪快な笑い声だったので、他のお客やマスターたちが思わず振り返り、不思議そうにしていた。

その時、それを察したか、メイド服の女性がチッと舌打ちをし、眼鏡のつるの部分を指でトンと叩いた。

するとどうだろう、ソラミたちの方を見て何やらヒソヒソ話していたお客たちや、仕事に戻りかけていたマスターたちの動きが、ピタリと止まったのである。人だけではない。天井で回っているファンや、窓の外の往来……見える世界の全てがたちまち動きを止めてしまった。

(なっ……何これ……。こんなことまでできるの? この人たちって一体……)

ソラミは、短い間に驚きが重なり過ぎて既に頭がパンクしそうだった。しかしメイド服の女性は冷静そのもので、自分たちを見る者が誰も居なくなったのを確認すると、ギラミをじろりと睨んだ。

「ぎゃあぎゃあと餓鬼のように騒ぐおつもりなら先に仰っておいて下さい。このように時間を止めて人目を避けておきますので。宜しいですね」

「ハッハッハッハ……! いやすまんすまん、こいつがな、剣幕の割にはあまりに子供っぽくてだな。何というかやはり凄味の無さが可笑しいのなんの……まあそう怖い顔をするな」

 〝こいつ〟のところでまた下のソラミを指差し弁明するギラミ。ひとしきり笑い終わると、「さあ」と言ってソラミを真っ直ぐ見下ろした。そして、こう言った。

「丁度俺たちの力の程もわかったようだし、教えてやろう。俺たちは、世界に満ち満ちる負の概念が意思を持ったもの……貴様たち人間が〝悪魔〟と呼んでいる存在だ」


 悪魔。人の世に災厄をもたらす者、人を惑わし道を誤らせる者、神に仇なす魔なる者……。現代の人間世界においては空想の産物とされている彼らとの出会いが、ソラミの運命を大きく変えていくことになる。幼いソラミにとっては味覚上の苦痛とお小遣いの損失でしかなかったこの事件こそ、彼女の「悪魔憑き」としての受難、または冒険の始まりであった。



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