第4話 田中さんちという場所
東京の東側――古くから続く商店街と、狭い路地が入り組む下町の一角に、「田中家」はある。
新しいマンションやコンビニが増え、近代化が進んだとはいえ、このあたりだけは昔ながらの風景がまだ息づいている。
駅から少し歩くと、看板の塗装が剥がれかけたクリーニング店、駄菓子屋の名残を残す小さな雑貨屋、そして八百屋の威勢のいい掛け声が響く。
その喧騒を抜けた裏通り、木造の二階建てが立ち並ぶ一角に――田中家はぽつりと建っている。
屋根は瓦葺き、外壁は少し煤けた白。
玄関先には祖母が丹精して育てた鉢植えがずらりと並び、通りすがる人からはよく「花屋さんかと思った」と言われる。
そんな言葉を聞くたびに、祖母の佐登美はうれしそうに笑う。
――“花の世話をしてると、亡くなった息子が喜ぶ気がするのよ”。
彼女がそう言って微笑むたび、家族は誰も反論しなかった。
田中家の家族は、今や四人。
祖母・佐登美。母・麻巳子。長男・圭吾。そして妹・麗奈。
父親の姿は、もう十年近くこの家にはない。
圭吾が小学生のとき、父・浩一は事故で帰らぬ人となった。
大黒柱を失った家は、当時こそ沈黙に包まれたが――母と祖母の逞しさと明るさが、ゆっくりとそれを埋めていった。
母の麻巳子は、近所の診療所で看護助手として働く。
温和だが芯が強く、家計を支えながらも家庭の空気を明るく保つ“太陽のような人”。
料理は得意だが、掃除が苦手。
よく麗奈に「また床に靴下落ちてるよ」とツッコまれている。
祖母・佐登美は、家族の“土台”だ。
いつも笑顔で、たいていのことには驚かない。
戦中を生き抜いた世代らしく、どこか超越した肝の据わり方をしている。
そのため、鎧を着たピンク髪の“地縛霊”が現れても、「まあまあ、珍しいこともあるねえ」と言ってお茶を淹れる余裕があった。
妹の麗奈は高校二年生。
兄の圭吾とは正反対で、明るく社交的、口も達者。
ナナとは出会ってわずか数時間で意気投合し、今では「ナナさん」呼びどころか「ナナちゃん」とフレンドリーに話しかけている。
そして、長男・圭吾。
高校三年。文武両道とまではいかないが、部活に打ち込み、家では一番常識的な存在――のはずだった。
だが今は、家族の中で唯一「幽霊がいる」という現実をまともに受け止められず、孤軍奮闘している。
そんな彼の視点から見れば、この家はまるで異常空間にしか思えないだろう。
――けれど、外から見れば、それはごく普通の家庭。
古びた玄関を開けると、まず土間。
右手に下駄箱、上には花柄の小さな花瓶。
廊下を抜けた先がリビング兼ダイニングで、六畳ほどの畳の部屋にちゃぶ台が置かれている。
隣には台所が続き、棚には味噌や乾物、祖母が漬けた梅干しの瓶が並んでいる。
さらにその奥には風呂場と脱衣所。ここが、かつて圭吾が全裸で事件を起こした“現場”でもある。
二階には圭吾と麗奈の部屋。
南向きで日当たりがよく、窓の外には洗濯物が風に揺れる。
圭吾の部屋には勉強机と本棚、部活のユニフォーム。麗奈の部屋はポスターとメイク道具が散乱していて、兄妹の性格の違いがよく出ている。
そんな、どこにでもある普通の家。
――そこに“ナナ・ローゼンタール・レメディオス”が棲みついた。
彼女は不思議な存在だ。
戦場を駆け抜けた異世界の聖騎士だと言い張りながら、いまは田中家のリビングでお茶を啜っている。
家の外に出ることはできないらしいが、誰もそれを確かめようとはしなかった。
佐登美にとっては、久々にできた“客”。
麻巳子にとっては、“もう一人の娘”。
麗奈にとっては、“友達”。
そして圭吾にとっては……“不審者そのもの”。
家族の誰もが、彼女を恐れなかった。
むしろ自然に受け入れてしまった。
それが、田中家という家の――どこか不思議で、温かいところでもある。
夏の夕暮れ。
商店街からは「焼き鳥半額!」の声が響き、遠くで風鈴が鳴る。
リビングでは、ちゃぶ台を囲んで笑い声が絶えない。
湯呑を片手に、ナナが言う。
「この家は……騒がしいが、悪くない」
それを聞いて、祖母が笑った。
「そうでしょ? うちは昔からにぎやかが一番なんだから」
そして、母がその隣でうなずいた。
「うん、ここはね、みんなが笑ってる方が、きっとお父さんも安心すると思うの」
ナナはしばらく黙り、静かに視線を落とす。
その横顔を、圭吾は複雑な気持ちで見つめていた。
――“異世界の騎士”が、なぜこの家に現れたのか。
それはまだ、誰にもわからない。
ただ一つ、確かなのは。
この下町の片隅で、今日も変わらず“田中さんちの日常”が続いているということ。
少し騒がしくて、どこか懐かしくて。
笑いとツッコミと、ときどき不思議が混ざり合う、そんな毎日だ。




