婚約破棄とガラスの靴
私が八歳の時、お母様が病気で亡くなった。
それから二年後、お父様が再婚して、新しいお義母さまと二人のお義姉さま達が家族になった。
お父様は変わらず私を愛してくれたけど、お義母さま達は私へ意地悪をしてきた。
悲しかったけど、それでもよかった。お父様が幸せならば、それで。
でも、一年後にお父様が事故で亡くなった。
私達は四人で暮らすことになった。
お義母さま達は、変わらず私に冷たくあたった。
私はお義母さま達の言いつけ通り、家の掃除や身の回りのお世話をした。
冬の寒さに凍えながら、冷たい水でお義母さま達のドレスやパジャマを洗ったり。
空腹に耐えながら、お義母さま達の食事を作ったりした。
涙が出るほど辛くて、胸の奥が痛かった。
それでも、お義母さま達は私を家族とは認めてくれなかった。
部屋を取り上げられ、私の物は煙突のそばにある灰まみれのベッドだけになった。
『灰かぶりのエラ』
お義母さま達は私をそう呼んだ。
そんなある日、お城から招待状が届いた。
王子様の婚約者を選ぶため、王国中から令嬢を集めて舞踏会を開くらしい。
いつも通り、私はお義母さま達にドレスと靴を作るよう言いつけられた。
私宛にも招待状は届いていたから、こっそり自分のドレスと靴も作って、ベッドの下に仕舞っておいた。
でも——
「シンデレラ、家の中を全て掃除しておきなさい! 少しでも埃が残っていたらお仕置きだからね!」
舞踏会当日、私は仕事を言いつけられた。
「それと、間違っても舞踏会に行こうなんて思わないことね。まあ、着ていくドレスが無いでしょうけど」
お義母さまの言葉に、お義姉さま達がクスクスと笑う。
その顔に嫌な予感を覚え、慌てて家に戻ってベッドの下見れば、私が作ったドレスも靴もボロボロに引き裂かれていた。
力無くその場にへたり込む。
庭から馬車が走り出す音が聞こえた。
「……お掃除しないと」
それから数十分経った後、自分に言い聞かせるように呟いた。
でも、私は立てなかった。
心が凍りついたように、体を動かす気が起きない。
『自殺』
その言葉が脳裏によぎった。
死んでしまえば、もうお義母さま達にいじめられることもない。
それにお母様とお父様に会える。
それは、一番幸せな選択に思えた。
自然と笑みが浮かぶ。
——その時だった。
「エラ」
どこかから声が聞こえた。
でも、この家には今私しかいないはず。
私は声が聞こえた方向を見上げる。
「初めましてエラ。君に魔法をかけに来た」
目を疑った。
小人が宙に浮かんでいる。
「あ、あなたは?」
「僕は妖精さ。君のために生まれた妖精さ!」
ぷかぷかと浮かぶ妖精さんが、満面の笑みでそう言った。
「私のため……?」
「うん! まあ細かいことは後にして、とりあえずお城に行こう! 舞踏会が始まっちゃう」
妖精さんが宙を泳ぎ、お屋敷の玄関の方へ向かう。
「で、でも、お屋敷の掃除をしないとお仕置きされるし、それにドレスも……」
「そっか、わかった!」
妖精さんが元気よく答え、「パチン」と一度指を鳴らした。
「っ?!」
すると、目の前が光に包まれ私はたまらず目を閉じた。
数秒後、光が収まったのを感じてゆっくりと目を開ける。
「うん! 綺麗な金色の髪によく似合う!」
嬉しそうな妖精さんの言葉に、私は自分の体を見下ろす。
所々擦り切れていた服が、晴わたる空を閉じ込めたような真っ青なドレスに変わっている。
あかぎれていた指は綺麗に治り、ボサボサに乱れていた髪はストレートに戻っていた。
「これは……」
「魔法だよ! それじゃあ行こっか!」
「ちょ、ちょっと待って。お屋敷の掃除は……」
「大丈夫! それも魔法で終わらせたから!」
言うが早いか、妖精さんが私を導くように宙を泳ぐ。
でも、追いかける私のペタペタという足音を聞いて妖精さんが引き返す。
「おっとごめん。靴を履かせるのを忘れてた」
妖精さんがまた指を鳴らすと、私の両足をガラスの靴が包んだ。
「今度こそお城に行こう」
いつの間にか庭にあったカボチャの馬車に乗り、私は妖精さんとお城に向かった。
お城に着くと、王子様が私のもとまで駆け寄ってきた。
ダンスを踊り、お話をした。
そして、零時の鐘が鳴った時。
王子様が私の前に跪き、私の手を取ってプロポーズをした。
「僕と結婚してほしい」
「よかったね、エラ!」
妖精さんの祝福の言葉に背中を押され、私は王子様と婚約した。
それから私は、あしげくお城に通った。
ここにいれば、いじめてくるお義母さま達を魔法にかかったかのように忘れられるから。
でも——
「シンデレラ。君との婚約を破棄する」
私にかかった魔法が解ける。
「運命の相手は君じゃなかった。僕は真実の愛を見つけたんだ」
私は驚かなかった。
なんとなく、こうなる予感はしていたから。
覚悟はしていたはずなのに、またあの日々に戻ると思うと体が勝手に震え出す。
自分の体を抱きしめた私へ、妖精さんが提案した。
「エラ。ここから逃げ出そう」
——その夜、私は逃げ出した。
妖精さんと逃げ出した。
◆ ◆ ◆
夜は、静かだった。
城から離れるにつれ、石畳の道は次第に土へと変わり、街灯の数も減っていく。
私の足は止まらなかった。止めたらきっと――心が、追いついてしまう。
「……エラ」
前を飛ぶ妖精さんが私の名前を呼んだ。
それだけで、胸がきゅっと縮む。
王子様に婚約を破棄された瞬間よりも。
ドレスを引き裂かれた夜よりも。
今のほうが、ずっと苦しかった。
「ごめんね」
唐突に、妖精さんがそう言った。
「どうして謝るの……?」
「君を、あんな場所に連れて行ってしまったから」
私は首を振った。
あれは、私が望んだ夢だった。
あの城で見た光も、音楽も、優しい言葉も、すべてが本物だった。
「……幸せだったよ」
「……うん」
短く答えた妖精さんの声が、少しだけ震えた。
私達は森の縁に辿り着き、そこで足を止めた。
月明かりに照らされた木々は静まり返り、風の音だけが、私達の存在を知っているようだった。
「ここから先は、しばらく歩くよ」
「……うん」
妖精さんは、私の姿を少しだけ変えた。
金色の髪は落ち着いた茶色に、肌の白さも控えめに。
鏡がなくてもわかった。
――もう、舞踏会の夜の私ではない。
「どうして……そこまでしてくれるの?」
問いかけると、妖精さんは私の目線の高さまで降りてきた。
「君が、生きるためだよ」
妖精さんは真剣な、そしてひどく優しげな目で言葉を続ける。
「君は、シンデレラじゃない。エラだ」
その言葉に、涙が滲んだ。
私は、あの名前を憎んでいた。
でも同時に、あの名前に救われたことも否定できない。
灰まみれの私を、世界に連れ出してくれた名前。
「……エラとして、生きてもいいの?」
「当たり前でしょ」
妖精さんは、まるで当然のことのように言った。
「君は、最初からその名前で呼ばれてた。それを忘れたのは、周りの人間の都合だ」
その夜、私達は森を抜け、人気のない小さな納屋で眠った。
干し草の匂いは懐かしく、胸の奥を少しだけ落ち着かせてくれた。
夢は、見なかった。
◆ ◆ ◆
朝、私は鳥の声で目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからず、体を起こして周囲を見渡す。
納屋。干し草。木の隙間から差し込む光。
「……ああ」
思い出して、胸が痛んだ。
「起きた?」
頭上から、妖精さんの声。
「うん……」
「顔、ひどいよ」
「……泣いてた?」
妖精さんは、何も言わずに笑った。
その笑顔が、なぜだか少しだけ遠く感じた。
「これからどうしよう……」
「大丈夫だよエラ。君には手に職がある」
「……裁縫のこと?」
「そう。少し進んだ先に街がある。そこで仕事を見つけよう」
妖精さんの言葉通り、私達はその日のうちに一つの街に辿り着いた。
小さく、古く、それでいて温かい街だった。
私は運良く、広場にある掲示板に街の外れにある裁縫店が従業員を募集しているという貼り紙を見つけた。
縋るような思いでそこへ行けば、足を悪くしたというお婆さんが杖をつきながら出迎えた。
「突然申し訳ありません。私を、ここで働かせてくれませんか」
「……子供じゃないか。一体どうして」
そう言いながらも、お婆さんは私の手を見る。
「……ずいぶん、酷使してるね」
その一言で、胸が詰まった。
誰かにそう言われたのは初めてだった。
「いいだろう。弟子として、ここで働きなさい。でも、私の教え方は厳しいよ」
驚くほどあっさりと、仕事は決まった。
お師匠様は、深くは何も聞いてこなかった。
自分で言ってた通り、お師匠様の教えは厳しかった。
でもそれが、私はとても嬉しかった。
最初の仕事は、針に糸を通すこと。
次に、まっすぐ縫うこと。
私は、何度も失敗した。
縫い目は歪み、指先はすぐに赤くなった。
それでも、不思議と辛くなかった。
誰かに教わることが、こんなに暖かいことだなんて知らなかった。
夜、妖精さんは私の肩に乗り、黙って作業を見ていた。
「……ねえ、妖精さん」
「なに?」
「あの舞踏会の日も、城から逃げ出した日も、今も……どうして、私を助けてくれるの?」
今まで気になっていたことを、不意に尋ねる。
妖精さんは少しだけ視線を逸らした。
「……君のお母さんとお父さんがね」
「……え?」
「――いや。今は、まだいい」
その言葉は、胸に引っかかったまま床へと落ちていった。
◆ ◆ ◆
お師匠様のもとで働き始めて、ひと月が経った。
朝は店の掃除から始まり、昼は針仕事、夕方には仕立てた衣服を届けるため街へ出る。
足の悪いお師匠様に代わって買い出しを任されるようになったのは、自然な流れだった。
「無理はしないんだよ」
「はい」
そう返事をして、私は籠を腕にかける。
街は穏やかだった。
郊外だからか人の波は小さく、忙しなく動く人も少ない。
しかし、人の口は穏やかではない。
「――聞いた? あの噂」
「シンデレラ、って娘の話でしょう」
ビクリと肩が大きく跳ねる。
「王子様に捨てられたとか」
「不貞を働いたって聞いたよ」
「国庫に手をつけたって話もある」
「魔女だったんだって」
歩調がわずかに乱れる。
胸の奥が、冷たい指で掴まれたように強張った。
「……エラ」
肩の上で、妖精さんが囁く。
「大丈夫だよ。君の姿は変えてある」
「……うん」
わかっている。
わかっているはずなのに。
――名前だけが、独り歩きしている。
あの城で、私が何をしたのか。
どうして婚約が破棄されたのか。
誰も、何も知らない。
ただ、「捨てられた」という事実だけが、面白おかしく語られている。
「ねえ、妖精さん」
「なに?」
「……私、本当に悪くなかったのかな」
自分でも、驚くほど弱い声だった。
「当然だよ。君は、何も悪いことなんかしていない」
妖精さんは静かに即答した。
その優し気な声音に、私は涙が溢れそうになるのを堪えるのに必死だった。
◆ ◆ ◆
『シンデレラが王子様に捨てられた』
その噂は、一瞬にして王国中に広まった。
曰く、シンデレラが不貞を働いたらしい。
曰く、シンデレラが国のお金に手をつけたらしい。
曰く、シンデレラは魔女であり、王子様は洗脳されていたらしい。
一目惚れした王子が婚約を破棄したという事実は、「彼女に難があった」という結論を導くのに、あまりにも都合がよかった。
そんな噂を聞き、後悔と罪悪感に苛まれている人物が一人いた。
シンデレラに婚約破棄を突きつけた王子は、執務室で頭を抱えていた。
「……本当に、これでよかったのだろうか」
向かいの椅子に座る、この国の宰相である老爺が静かに答える。
「もちろんです、殿下。あのままでは、彼女の身が危険に晒されていたでしょうから」
王子は、ぎゅっと拳を握った。
——あの夜。
自分の言葉のせいでひどく傷ついた顔を浮かべた彼女の姿が、脳裏から離れない。
「……だが、王国内にあらぬ噂が広まっている」
「それについては、私の配慮が足りませんでした」
宰相は、深く頭を下げる。
だがその口元は、わずかに吊り上がっていた。
「詫びるべきだろうか」
「……殿下が直接会いに行かれては」
王子は顔を上げる。
「迷惑ではないだろうか」
「まさか。殿下がお会いに行って、喜ばぬ者などおりますまい」
宰相は、確信に満ちた声で言った。
——二日後。
王子は密かに城を抜け出した。
彼女に会うために。
◆ ◆ ◆
お師匠様のお店で過ごす時間は、私にとって救いだった。
朝、店の扉を開けると布の匂いがする。
陽に干された麻の匂い、染料の残り香、古い木材の埃っぽさ。
それらが混ざった空気を胸いっぱいに吸い込むと、心が落ち着いた。
「今日はここを直そうか」
「はい」
言葉は少ない。
でも、お師匠様はいつも私の手元をよく見ていた。
縫い目が歪めば、何も言わずに糸切り鋏を差し出す。
布を引っ張りすぎれば、軽く指先を叩く。
叱責ではない。
ただ、「そこだよ」と教えるための合図。
私は、必死だった。
ここで生きるために。
街では相変わらずあの噂が流れていた。
けれど、きっと何か気づいている事はあったはずなのに、お師匠様は私に何も聞かなかった。
その心遣いがとても嬉しくて、でも、とても苦しかった。
お師匠様の優しさに、つけ込んでいるみたいで。
◇ ◇ ◇
ある日の午後、私が仕立て上げたドレスを眺めながら、お師匠様がふと呟いた。
「エラ。あんた、もう人の指示通りに縫うだけの子じゃないね」
「……え?」
「布の声を聞いてる」
意味は、完全にはわからなかった。
それでも、胸がじんわりと温かくなった。
「ドレス、デザインしてみようか」
「私が……ですか?」
「そうさ。自分のために」
「……できるでしょうか」
「それは、やってみないとね。でも、私はあんたならできると思ってるよ」
お師匠様が柔らかく、そしていたずらっぽく笑った。
その夜、私は灯りの下で紙に向かった。
最初は、何も浮かばなかった。
けれど、ひとつだけ心の中から滲んできた色があった。
――青。
あの舞踏会の夜、妖精さんが着せてくれた、空を閉じ込めたような澄んだ青。
「……これだ」
私は、線を引いた。
何度も何度も引き直しながら、形を探る。
「金色の髪に似合ってるって……言ってくれた」
その言葉を思い出すと、胸が少し痛んだ。
でも、不思議と嫌な痛みではなかった。
本当は、ガラスの靴も合わせたかった。
けれど、それはまだ遠い。
……欲張らなくていい。
今の私が、私の手で作れるものだけでいい。
◆ ◆ ◆
数日後。
ドレスのデザインが完成した。
……お師匠様に見せに行く。
そう考えるだけで、緊張して手が震える。
「大丈夫だよ、きっと」
「……うん」
妖精さんの優し気な声に背中を押され、私はお師匠様の元へ向かった。
お師匠様は、私の描いたデザインを見てしばらく黙っていた。
そして——
「……いいね」
そう一言言って、笑った。
「本当ですか」
「嘘は言わないよ」
嬉しかった。嬉しくって、涙が溢れそうだった。
その日は作業が捗った。
針は迷わず、糸は絡まらなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、お師匠様は足をさすりながら言った。
「先に帰るよ」
「送ります」
「いいよ。あんた、もう少し残って作業したいって顔してる」
「……はい」
真剣な表情で頷く私を、お師匠様は慈愛に満ちた目で見つめた。
「無理はしないようにね」
「はい!」
杖をついて帰るお師匠様の背中を見送る。
店に残ったのは、私と妖精さんだけ。
「……綺麗だね」
妖精さんが、私のドレスのデザインを眺めて言った。
「君らしい」
「そうかな」
「うん」
その声はいつもより低く、静かだった。
「エラ、ここでの生活は楽しい?」
「うん。元々、裁縫は好きだったから」
裁縫は、子供の頃に母から教わった数少ない贈り物だ。
裁縫が好きではなかったら、とっくの昔に私の心は折れていただろう。
毎日のように継母達から仕事を言いつけられ、部屋を取り上げられて煙突のそばの灰まみれのベットだけになった、その日にでも。
「そっか。ならよかった」
妖精さんが嬉しそうにそう言った。
——その時。
コンコンと、扉を叩く音が響いた。
……忘れ物?
お師匠様が戻ってきたのかと思った。
でも、それならノックするだろうか……?
「エラ、警戒して」
妖精さんの言葉に不安を覚えながら、私は扉を少しだけ開き隙間から外を覗く。
「……シンデレラ」
そこには、旅装の男が立っていた。
——王子だった。
久しぶりに見た彼は、前よりも少しだけやつれて見えた。
驚いて固まる私をよそに、王子は扉に手をかけて開いた。
その瞬間、私の後ろにいた妖精さんの気配が鋭くなる。
殺気にも似たその空気に気圧されたのか、王子の動きが止まった。
「……いるんだな、妖精が」
王子が確信を持った口調で呟いた。
妖精さんは、何も答えなかった。
ただ一言。
「——エラ、伏せて!」
短くそう叫んだ。
直後——衝撃が、音よりも先に来た。
床が浮き、壁が歪み、次の瞬間、世界が横倒しになる。
私は何が起きたのか理解できないまま、床に叩きつけられた。
「——っ!」
息が詰まり、視界が白く弾ける。
瓦礫の音。
布が裂ける音。
遠くで、誰かが叫ぶ声。
——エラ!
妖精さんの声だけが、薄れそうな意識を繋ぎ止めた。
顔を上げた時、そこにはもう小さな妖精さんの姿はなかった。
代わりに私の目に映っていたのは、大きな背中。
淡い光を帯びた身体。
枝のように伸びる茶色の髪。
その背中は確かに、私を守るためにそこにあった。
「……妖精、さん……?」
呼びかけても、彼の視線は鋭く前を向いたまま振り返らない。
その視線の先には、複数の影があった。
剣を抜いた黒装束の男達。
その中心には、前に城で一度だけ見た事のある宰相が立っていた。
「……これは、どういうことだ」
王子の声は低く、震えていた。
「宰相。私に剣を向けるとはどういうことか、わかってやっているのか?」
苛烈な視線を投げる王子に、しかし、宰相は躊躇なく答えた。
「当然ですよ殿下。そもそも、そこの魔女の血を手に入れればそのようなことは些事に変わる。それに……」
宰相は視線を私から妖精さんへと巡らせる。
その目は狂気に近い光を帯びていた。
「人の姿になれる妖精ですか。素晴らしい」
裂けんばかりに口角を吊り上げ、哄笑すら響かせる。
「魔女の血を飲み干す前に、あなたの魔力を喰らい尽くして差し上げます」
恍惚を滲ませるその声は、ぞっとするほど丁寧な口調で紡がれた。
そしてゆっくりと、黒装束の男達が妖精さんの方へと歩を進める。
「や、やめろ!」
焦った様子で王子が叫ぶ。
けれど、当然誰も止まりなどしない。
——その瞬間。
妖精さんが、ほんのわずかに振り返った。
「……エラ」
ひどく優しい口調で私の名前を呼ぶ。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「目を閉じて?」
私は、首を振った。
「いや……」
「お願い」
その声は、いつもの軽やかさを完全に失っていた。
けれど、いっぱいの優しさが含まれた声だった。
「僕は君に、未来をあげたいんだ」
次の瞬間。
——妖精さんの体から、光が溢れた。
その光は増していき、世界を染め上げるほどになる。
でも、眩しくは感じなかった。
むしろ暖かくて、優しくて。
それでいて、どこか切なくて。
「妖精さん……!」
呼びかけても返事はない。
代わりに、足元で何かが軋む音がした。
瓦礫の隙間から、若い芽が顔を出している。
崩れた床を押しのけるように、木が育っていく。
枝が伸び、葉が茂り、夜空を覆い隠すほどの大樹へと変わるまで、そう時間はかからなかった。
その頃にはもう、あの優しい光は収まっていた。
「……木?」
震える声で呟いた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
——わかってしまったから。
この木は、妖精さんだ。
私を守るために、人の姿を捨てた存在。
「これは……」
慄いた王子の声が、遠くから聞こえる。
振り返ると、彼は膝をつき呆然と大樹を見上げていた。
「……私のために……」
宰相達の姿は、もうない。
光に焼かれたのか、逃げ去ったのか、確かめる余裕はなかった。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
ただ、胸が張り裂けそうなこの感情を、少しでも吐き出したかった。
私は木に触れた。
……暖かい。
まるで、まだそこにいるみたいに、私に熱を伝えてくれた。
「……妖精さん」
……返事はない。
ただ風が葉を揺らすだけだった。
◆ ◆ ◆
——朝が来た。
それだけで、私は少し驚いた。
世界は回り続けている。
壊れた店は片付けられ、芽吹いた木は、まるで初めからそこにあったかのように馴染んでいた。
「今日は、裏の布を整理しようか」
お師匠様がそう言った。
私は返事をして、動いた。
体が動いたことに、安堵した。
◇ ◇ ◇
お昼、私は買い出しに行った。
街はいつも通りだった。
人の波は小さく、忙しなく動く人もいない。
けれど、ひとつだけいつもと違った。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「……あれ? 何の話だっけ」
人々は、噂話をしている「つもり」だった。
でも、肝心の名前が出てこない。
「王子様の……ほら、前の……」
「前の、何?」
会話が途中でほどける。
胸が、ざわついた。
私は、恐る恐る口を開く。
「……あの……シンデレラ、の話ですか」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、相手は首を傾げてこう言った。
「誰のこと? それ」
……地面が、抜け落ちるような感覚。
血の気が引き、呼吸がしづらい。
「知ってる?」
「さあ……」
——『誰?』
街の人は、誰一人としてその名前を覚えていなかった。
怖くなって、私はその場から逃げ出した。
「……ああ」
お店へと駆けながら、私は理解した。
シンデレラという役割。
消費されるための名前。
それを、私から切り離した。
代わりに残ったのは――
「エラ。どうしたんだいそんなに慌てて」
心配そうに、お師匠様が私を呼ぶ声。
「シンデレラ」ではなく「エラ」と、そう呼ぶ声。
妖精さんは、物語そのものを消したのだ。
……自らを代償にして。
◇ ◇ ◇
私は、木の前に立つ。
あの夜、妖精さんが残した場所。
母が植えた木と、父の願いが生んだ存在。
私は、同じ場所に新しい苗を植えた。
——祈るために。
◆ ◆ ◆
毎日、私は祈った。
特別な言葉はない。
ただ木の前に立ち、手を合わせる。
「……ありがとう」
「……ごめんなさい」
その繰り返し。
お師匠様は、何も聞かなかった。
ただ、静かに見守ってくれた。
裁縫の腕は、さらに上達した。
空色のドレスも完成した。
それを誰かに見せることはなかったけれど、不思議と満たされていた。
そして季節は巡り、木は大きくなり……
私も、少しだけ強くなった。
――そんな、ある日。
◆ ◆ ◆
昼下がり。
コンコンと、店の扉を叩く音がした。
「失礼します」
振り返ると、一人の青年が立っていた。
柔らかな笑み。どこか懐かしい気配。
そしてその手には——ガラスの靴。
「この靴に、ぴったりと足のかたちが合う方を探しています」
その声を聞いた瞬間、胸が強く脈打った。
理由はわからない。
でも、涙が溢れた。
私は何も考えずに——彼の胸に、飛び込んでいた。
『シンデレラ』
今その名を知るものは、この世界にはいない。
彼女に恋をした少年も、名付けた女性でさえも。
ここに出会った、たった二人を除いては。




