監視対象
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
蹲っていた森の地面が沈むように溶け、足元の闇が引き戻していく感覚――その強い浮遊感とともに、メアの意識は現実へと押し上げられた。
◆
がばっ、と上半身を起こす。
天井は白い。
先ほど眠りについた研究室のベッドだ。
胸がまだ、暴れるように脈打っている。
「……っ、は……っ、は……!」
肩が細かく震え、夢の残滓が頭にこびりついたままだった。黒い森、鎖、漠徒。
そして、響くユウタの声。
「大丈夫。メアちゃん」
すぐ横の椅子にユウタが腰掛けていた。出会った時から見せている飄々とした笑み。だがこちらを見る瞳だけは、わずかに警戒を含んでいた。
「うるさい……来ないで……っ」
「いや、来ないでって言われてもさ。メアちゃん、さっきのは――」
「やめて!!」
メアは反射的に叫んだ。
胸の奥にまだ熱が残っている。夢の中で暴れた鎖が、皮膚の下から動き出そうとするような感覚。
ユウタは両手を軽く挙げて宥めようとした。
「分かるよ、気持ちは。でもさ、あれは必要だって――」
「違う! わたしは……あんな……また誰かを傷つけるなんて……!」
激しい拒絶。
その叫びに呼応するように、空気がぶるっと震えた。
――カシャン。
金属音。
ほんの一瞬、メアの手首あたりの空間が黒く捻れ、そこから細い鎖の“影”がはねた。
「っ……!!」
ユウタの右手の甲に裂傷が走った。
赤い線が浮かび、血が滲む。
「っと……やっぱ出たか……!」
驚きはしているが、彼の声は怒鳴り声でも責める色でもない。
だがメアの方は、もはや自分が何をしたのか理解できないまま硬直した。
「……ち、違う……わたし、そんなつもりじゃ……!」
「知ってるよ。でもメアちゃん、落ち着ーーーー」
「触らないで!!」
メアはベッドから転がるように降り、足をもつれさせながら部屋の外へ走った。
背後でユウタが呼ぶ声がする。
「メアちゃん!」
しかし振り返れない。
肺が焼けるように苦しい。
けれど走らないと、自分の中の何かがもっと壊れてしまう気がした。
施設の白い廊下が、涙でぼやける。
(わたしなんて……わたしなんて……!)
足音が遠ざかる。
曲がり角の先、研究員たちが驚いた顔を向けたが構わず駆け抜ける。
自動扉が空気のように開き、その向こうの薄暗い通路へ突っ込んだ。
◆
その背中を、モニター越しに静かに見据える者がいた。
一ノ瀬ヒカリ。
端末に映るメアの脳波は荒れたまま正常値に戻らず、微弱な異常波がずっと点滅している。
「……やはり、“現実への干渉”が出てしまいましたね」
呟く声は落ち着いているが、その瞳の奥で計算が高速に動いているようだった。
背後から、メアの追走を諦めたユウタが戻ってくる。まだ手の甲から血が滲んでいた。
「いや〜……あれ、完全に抑えきれてないよ。現実で出ちゃうのはマズいでしょヒカリさん」
一ノ瀬は彼の怪我を一瞥し、淡く眉を寄せた。
「応急処置を受けてください。……ここまで顕著に現れるとは予想外でした」
「まぁ、予想外なのは同感だけどさ。で? これからどうすんの?」
一ノ瀬は端末の画面をひとつ切り替えた。
そこには走るメアの姿を映す監視カメラ映像。
「芦原くん。引き続き、彼女の監視を強化してください」
「やっぱそうなるよねぇ」
「突き放してはいけません。……彼女は“鍵”です。過剰干渉を起こす前に、確実に管理範囲に置いてください。これは彼女を守る為に必要な処置です」
ユウタは小さくため息をつきつつも、真面目な表情で頷いた。
「了解。……ったく、メアちゃん心細いだろうに。あんま追い詰めたくないんだけどな」
一ノ瀬の瞳は静かに揺れた。
「優しくするのは構いません。ただし甘やかしすぎないこと。彼女の状況は――“放置すると非常に危険”ですから」
ユウタは傷ついた手をポケットに突っ込み、モニターに映る逃げる小さな背中を見つめた。
「……分かってるよ。あれは、このままだと確実に壊れちまう」
そう呟き、走り去るメアのあとを追うように部屋を後にした。
ユウタの背が見えなくなると、一ノ瀬ヒカリは椅子に背を預け、珈琲を一口飲んで天井を仰いだ。
「拒絶と具現化……そして吸収ですか。あの鎖はまさに……顕現とカテゴライズするに相応しい能力ですね」




