悪夢の歩き方
◆
足元の大地が砕け、メアは黒い深淵へと滑り落ちた。
重力も感覚も曖昧で、ただ胸の奥でざわつく“不吉な気配”だけが鮮明だった。
――気がつくと、そこは前に見た黒い森。
濃霧が漂い、木々は影のようにうねっている。息を吸うたび、冷たい湿気が肺を刺した。
「ちゃんと落ちたね、メアちゃん」
背後から声。
振り返ると、さっきまで施設にいたはずのユウタが、手をひらひら振って立っていた。
「……え? なんで、ここに……?」
「俺も“向こう側から自我を持って来れる”タイプだから。エージェントはみんなそう。夢の世界でちゃんと起きて動けるってわけ」
くしゃっと笑う気安さに反して、その瞳の奥はどこか鋭い。
ユウタは森の暗がりを指でなぞるように示し、軽く息を吐いた。
「で、ここからは前置き。メアちゃんの初・現場研修〜!」
前置き――と軽く言いながら、その声には芯があった。
「まず、この“悪夢の世界”は固定じゃないんだ。人の思想とか感情で、姿形がガラッと変わる。潜在意識の強さ次第で、世界そのものが“テリトリー”みたいに分かれたりもする。簡単に言えば悪夢はその人間を写し出す鏡ってワケさ」
「テリトリー……それに、鏡」
「うん。そしてね――」
ユウタはこちらの足元を指した。
「ここはメアちゃんが作り出した空間。濃度、密度、パッと見でも分かる、どっちもかなり高いね」
胸がざわついた。
わたしが……作った?
「それと漠徒の性質についてだ。あいつらは、より“深い悪夢”に引き寄せられる。恐怖が濃いほど強くなる。つまり――」
軽く肩をすくめる。
「メアちゃんみたいに、感情の振れ幅が大きい人のところには、すげぇ集まりやすい」
「そんな……」
否定しようとした瞬間。
――ザザ……ザザザ……
霧が裂けた。
黒い影が、いくつも、木々の間から滲み出るように現れた。
空気そのものが重くなる。
漠徒の群れ。
「……っ!」
「お、さっそくお出ましじゃん」
ユウタは怖がる様子もなく、軽く指を鳴らした。
パキン――!
何もない空間に、透明な壁の線が走った。
次の瞬間、漠徒の体が中から裂けるように、滑らかに断たれる。
「……え?」
「これが俺の力ーーーー“断絶”。内部から無色の壁を生み出して、対象を切る能力。まぁ便利だよ」
淡々と説明しながら、二体、三体と斬り伏せていく。
壁は生まれては消え、光の反射にすらならない透明な死線を描いた。
「あとは……一体だけ、っと」
最後の漠徒がわたしの前に残った。
ユウタは目を細め、口角を上げた。
「ねぇメアちゃん。これ、君が倒してみなよ?」
「え……無理……! わたし、もう、あれは……」
アオイの足。
伸びていった鎖。
千切れた肉の感触が、手の中に蘇った気がした。
「嫌……っ」
首を振ったメアを見て、ユウタは小さくため息をついた。
「いやいや、悪夢を知る為に来たんでしょ? 戦闘も覚えなきゃ」
「嫌……イヤ!」
「そっか。じゃあ――ちょっと荒療治だけど、許してね」
ぱん、と軽い音がして。
透明な壁が、突然メアと漠徒を囲んだ。
「なっ……!?」
「逃げられないよ。メアちゃんの能力は“顕現”。形にする力らしいね。ここで使えなきゃ死ぬ。だから、使って」
ユウタの声は優しいのに、突き放すような冷たさがあった。
漠徒が迫る。
呼吸が詰まる。
――だめだ。
――いやだ。
――もう二度と誰も傷つけたくない。
でも。
でも、死にたくない。
殺気がわたしの喉元に触れた瞬間。
胸の奥で、鎖が“音を立てた”気がした。
(……来る……)
見えない何かが、自分の足元から滲み出る。
メアは無意識に手を伸ばしていた。
「――っ!」
漆黒の鎖が、虚空から生まれた。
蛇のようにしなり、漠徒の腕を絡め取り、身体を締め上げる。
ギチ……ギチギチギチ……
影の体が軋み、ひび割れ、黒い霧となって弾けた。
すべて終わった頃、メアは大きく息を吐いた。
それと同時に透明な壁が溶ける。
外で見ていたユウタは肩をすくめ、メアには届かない小声で呟いた。
「……見えてる? ヒカリさん。これ、やっぱマズいよね」
その声に軽さは無く、視線は真っ直ぐに、その場に座り込んで天を仰ぐメアに結ばれていた。
「……く、は……ッ!」
胸は早鐘のように脈打っている。
息が荒い。
手が震える。
けれど同時に――胸の奥に何かが溢れかえり、流れ込んでくる。
恐怖と、痛みと、怒りと……言葉にならないものたち。
(――やだ……これ……止まらない……)
視界の端で、森が揺れた。
悪夢そのものが、メアの心臓の鼓動に同調して脈打つようだった。
ユウタはこちらに歩み寄り、両手を顔の前で合わせた。
「メアちゃんお疲れ様! ごめんねいきなりこんな事して」
言葉に対して、悪びれる様子は薄く見える。
「……最ッ低」
「ごめんごめん! でもこうしないと悪夢じゃ生きてけないからさ」
「…………」
「ほら、俺が見張ってるから少し休んでなよ」
ユウタは再び無色の壁を具現化し、メアの周囲を囲った。
「……なんなのよ、全部……キライ」
それ以上は言葉を発さず、メアは蹲って顔を伏せた。
視界が閉ざされると悪夢の森のざわめきが際立ち、煤けた灰の匂いが濃くなる。
ーー悪夢はその人間を写し出す鏡。
思い知る。
この荒んだ世界は、わたしそのものなんだと。




