黒の底
翌朝、メアの足取りは重かった。
ほとんど眠れていない。
布団の中で震え続け、気づけば空が白み始めていた。
夢に落ちるのが怖い……あの黒い森に戻るのが。
学校の昇降口に着いた瞬間、背後から声が飛んだ。
「メア! おはよ!」
アオイだった。
メアは反射的に背筋を伸ばしたが、すぐにその視線が曇っていくのに気づく。
「うわ……ほんとに寝てない顔。クマできてるよ?」
「あ、あは……ちょっとだけ」
「大丈夫なの? なんかあった?」
言われるほど、胸がざわついた。
――なんて説明すればいいの?
黒い森も、漠徒も、レンも。
何を話しても、信じてもらえるはずがない。
「なんでも……ないよ。ただの寝不足」
「そっか……。でも、無理はダメだからね?」
アオイはそう言って笑った。
けれど、その目がほんの少しだけ心配をにじませているのをメアは見逃さなかった。
そして、メアの返事より早く――
ピッ……ピッ……ピッ……!
手首の SOMNI が突然、軽く震えながら点滅した。
「え?」
画面には、一瞬だけ見慣れない赤い表示が走った。
《異常波形……接近……》
その文字はすぐに霧のように消えた。
「いま、光らなかった?」
「……え? あ、ううん。気のせいじゃない?」
メアは慌てて袖を引き下ろし、SOMNI を隠した。
アオイは首を傾げたが、チャイムが鳴ったことで会話は途切れた。
「やば、もう行かなきゃ! またね!」
走り去るアオイの背中を見送りながら、メアは手首を押さえた。
――なに? なんで学校で反応するの?
胸の奥に薄い冷気がたまっていく。
◆
午前の授業は、全く身に入らなかった。
黒板の文字は読めるのに、意味が脳まで届かない。
眠気ではない。
ただ、意識がずっと夢の縁に引っ張られている。
そして――二時間目の途中。
ピ……ピピ……ピッ……!
SOMNI が再び震え、赤い光が袖越しに漏れた。
「っ……!」
机の下でメアは腕を押さえる。
(やばい、やばい……これ、前より強い……!)
胸がざわめき、背筋を凍らせるような気配が背後にまとわりつく。
幻聴のように、黒い森の“ざらり”という音が聞こえた。
――来る。
その確信が、喉を締め付けるように湧き上がった。
「……保健室、行ってきます」
「え、ちょっと内藤さん……」
「すみません」
メアは立ち上がり、授業中の教室を足早に出た。
先生が何か言ったが、耳に入らない。
廊下に出た瞬間、ようやく息が吸えた。
「もう無理……帰る……」
スマホで早退の申請を送り、そのまま正門へ向かう。
校庭のざわめきも、青空も、やけに遠く感じた。
◆
帰り道。
人通りの少ない商店街を抜けようとしたときだった。
ピ――――ッ!!!
「っ!!」
突然、SOMNI が手首を焼くような白光を放った。
痛い。鼓膜の奥が震える。
視界が揺れ、地面が波打つように感じた。
《接近確認》
《覚醒値上昇》
《次回睡眠――強制潜行開始》
「や……やめて……っ!」
足がもつれ、地面が迫る。
息が吸えない。
空気が重くなる。
「だめ……行きたく、ない……!」
だが、光は止まらなかった。
世界が白に浸食されていく。
渦のような耳鳴りが、頭の中で暴れる。
そして――
落ちた。
◆
再び目を開けた場所は、あの黒い森だった。
土の匂い、湿った空気、歪んだ木々。
二度と来たくなかった世界。
呼吸が白く濁り、胸の奥がざわめきを通り越して“痛む”。
「……どうして……また……」
黒い森の奥――
そこで、メアは“聞き覚えのある足音”に気づいた。
タッ、タッ、タッ――
乾いた地面を力強く蹴り、迷いなく進む足音。
次の瞬間、霧の向こうからひとりの少女が駆け抜けてきた。
「アオイ……?」
夢だというのに、現実以上に鮮明だった。
背筋を伸ばし、前を見据え、空気を切り裂くように走る姿――
表情こそ塗りつぶされたように黒に染まってはいるが、それはどう見ても親友の鷲尾アオイの姿だった。
メアにはもう取り戻せない“走る”という行為。
ふいに胸が、ちくりと痛む。
(走ってる……本当に、軽々と……)
アオイはメアに気づくことなく、黒い木々の間をすり抜けるように走り続ける。
羨望。
妬み。
喪失の感覚。
それらが胸の奥でゆっくりと混ざり、澱のように沈殿していく。
(どうして……どうしてあんたは走れて、わたしは……)
その瞬間――
チャリ……
チャリ……
足元で冷たい金属音が鳴った。
「え……?」
地面から、黒い鎖がゆっくりと伸び上がってくる。
自分の意思とは無関係に、メアの影から生えているようだった。
「ちょ、待って……止まって……!」
止まらない。
鎖は意志を持ったように空を走り、疾走するアオイの足へと向かう。
(やめて――!)
心の叫びとは裏腹に、鎖は勢いを増し、アオイの右足首に絡みついた。
「――っ!!」
アオイは地面を掴むように倒れ込み、足を押さえ、小さく呻き声を漏らした。
「やっ……やだ……違う、こんな……!」
鎖はさらに締まり、骨が軋むような不快な音が響く。
(やめて……やめて……でも……)
でも。
胸の奥底で小さな声が囁いた。
(あの足が欲しい……)
その瞬間の自分の心に、メアは心底ぞっとした。
「違う……違う……こんなの、わたしじゃない……!」
そう叫んだとき――世界が大きく歪んだ。
景色が白く弾け、全てがほどけるように消えていった。




