目覚め
◆
――息が、熱い。
水面へ浮かび上がるような感覚の中、メアはゆっくりとまぶたを持ち上げた。
視界は白く滲み、額には冷たい汗が張りついている。頭の奥で鈍痛が脈打ち、喉は砂を噛んだみたいにからからだった。
ぼやけた天井を見上げた瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
(……みんな、大丈夫……?)
声にした途端、掠れた空気が漏れた。それでも上体を起こそうとしたメアの肩を、近くにいた医療スタッフが慌てて押さえつける。
「動かないで。生命反応は安定してるけど……負荷が大きかったのよ」
言葉だけでは実感が追いつかない。だが、生きているという確かさが肌の下でじわじわと温度を取り戻していくのを感じる。
(レン……あの感覚……夢じゃなかった。なのに……)
手を伸ばしても、掴める気がしない。
あの存在は、現実のどこにも気配を残していなかった。
◆
検査がひととおり終わった頃、スタッフが厳しい表情で告げた。
「睡眠不全症の患者が、立て続けに搬送されてきています。あなたのご家族――妹さんも入院先の病院に連絡がつきました」
世界が一瞬、音を失った。
「……サキ? 行きます、今すぐ!」
まだふらつく足に力を込め、メアは廊下へ飛び出した。
◆
病院の空気は、外の夕陽とは対照的に重く冷たかった。
消毒液の匂いの奥に、泣き声や押し殺した呻きが漂っている。
メアは扉の前で呼吸を一度整えた。だが、待つことができず、そのまま勢いよくドアを開いた。
「サキ!」
ベッドの上、かすかにまつげが震えた。
「……お姉ちゃん……?」
その一言で、胸の奥につっかえていた何かが音を立てて崩れ、メアはベッドの縁に手をついて崩れ落ちた。
「よかった……よかった……」
母が涙をにじませながら言葉を継ぐ。
「まだ完全じゃないけれど、意識は戻ってるわ。でも……周りには、いまだに目覚めない子がたくさんいて」
メアはサキの小さな手を握りしめ、静かに答えた。
「大丈夫。――わたし、必ず終わらせるから」
その声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
「……ふぅ」
病室の扉を閉めた瞬間、静寂が押し寄せた。
廊下の蛍光灯が無機質に光り、さっきまで感じていた母の震える声も、サキのかすかな呼吸の音も遠くなっていく。
そのとき――手首のSOMNIが震えた。
画面には「ヒカリ」の名前。
通話を押すと、すぐに声が飛び込んできた。
「妹さん……大丈夫だった?」
「はい、なんとか意識はあるみたいです」
「良かった……まだ目覚めない人がいるから、手放しで喜べないのは残念だけれど」
少し間を置いて、ヒカリは改まった声で続ける。
「途絶えていた筈の睡眠不全症の発生数が急激に増えた。あの半漠の影響だとしたら、彼らの存在は私たちの予測を軽く超えてる。――このままじゃ、いつか“本当に”止まらなくなる」
ぞくり、と背筋が震えた。
サキの病室で見た光景がよみがえる。
同じ年頃の子たちが、家族に手を握られたまま、返事をしないまま、静かに横たわっていた。
あの沈黙と空気の重さが、再び胸にのしかかる。
「それでね……メアちゃん」
呼びかけは、まるで何かを決意した声だった。
「正式に“SOMNI”として動いてほしい。あなたが必要なの。――他の誰でもなく、メアちゃんが」
言葉の意味は分かっていた。
逃げられない線を、ヒカリ自身が引いたのだと。
メアの心は、意外なほど揺れた。
(わたしで……本当にいいの? 夢の中でだって怖くて……ユウタ達や、レンがいなかったらどうなってたか分からないくらい弱かったのに)
胸の奥がひりつく。
怖い。
夢の中の世界はあまりにも広く、深く、そして――底知れなかった。
「もちろん……メアちゃんにだって恐怖があるのは分かってる。でも……」
ヒカリの声が震えた。
「助けたいの。私はもう、誰も溢したくない……。本当なら私が悪夢で戦いたかった。でも、私にはその資格が無かった。戦う力を持ってるあなたなら、特別な存在かも知れないあなたなら……」
(……わたしが?)
サキの手の温度が思い出された。
あれは奇跡なんかじゃない。
“戻ってこられた人間”がどれほど貴重か、メアは身をもって知った。
(サキだけじゃない。病院のあの子も。あの家族も。誰かが行かないと……誰かが、あの世界に踏み込まないと)
声が震えそうになるのを堪え、メアはゆっくりと息を吸った。
「……ヒカリさん」
震えが止まった。
「わたし、怖いよ。正直、どれだけ力になれるかも分からない。でも……」
言葉は自然と続いた。
「助けたい。サキみたいな子が……あんなふうに泣いてる家族が……これ以上増えるの、耐えられない」
その瞬間、胸の奥の迷いがひとつ、音を立てて消えた。
「だから――やる。わたしにしかできないなら、なおさら」
短い沈黙のあと、ヒカリが小さく息を吸う音が聞こえた。
「……ありがとう、メアちゃん」
数秒の間を置き、ヒカリは声を整えた。
「……早速で悪いけれど、すぐに召集がかかったわ。SOMNIとして、本格的に悪夢での半漠の調査に取り掛かるそうよ」
「ジェイルと……ラミア」
「ええ。それに他の個体もいるかも知れない。最悪を想定しつつ、持てる戦力は充分にしておきたいの」
「わかりました。すぐに向かいます」
通話が切れても、メアの心拍はしばらく落ち着かなかった。
恐怖もある。
不安もある。
それでも――確かな思いが、胸の中心に熱く灯っていた。
(もう、逃げない。わたしは……行く)
◆
病院を出ると、夕風が頬にひんやりと触れた。
沈みかけの陽が街を赤く染め、どこか終わりと始まりの匂いを含んでいる。
「――メア?」
振り向けば、そこには松葉杖を手にしたアオイが立っていた。
汗で乱れた前髪、格好は学校のまま。それでも無事であることが一目で分かった。
「アオイ!」
メアが駆け寄ると、アオイはほっと表情を緩めた。
「よかった……メアは無事だったんだね」
「アオイこそ。怪我とか……ない?」
「私は平気。でも、ね……」
アオイは息をのみ、メアを真正面から見つめた。
「メア。……もしかしてだけど、何か危ない事に巻き込まれてるんじゃないの?」
「え?」
「いや、なんて言うか……勘、みたいなものなんだけどさ……メアって嘘とか隠し事する時、分かりやすいから」
その目は、責めるでも疑うでもない。ただ、怖れていた。
大切なものが離れていく気配を。
メアは唇を噛んだ。
「……巻き込まれてるよ。でも、これはわたしにしかできない。だから、大丈夫。必ず戻るから」
「メア……」
アオイは何か言いかけて、結局飲み込んだ。
夕陽が二人の影を伸ばしていく。
メアは背を向け、歩き出した。
「……無事でいなさいよ、私の親友」
――その背中を見送るアオイの後ろから、穏やかな声が落ちる。
「……こんばんは、良い夜ですね」
振り返った先で、知らない女の影が静かに微笑んでいた。




