侵食の始まり
訓練を終え、メアは帰宅すると倒れ込むように布団にもぐり込んだ。
桎梏の制御に成功した安堵と、まだ残る微かな疲労が身体を重くしていく。
意識が沈む。
――しばらくは穏やかな眠りが続くはずだった。
◆
朝。
鳥の声。カーテン越しに差し込む白い光。
当たり前の日常のはずだった。
――ピピピピピッ!
甲高いアラートが、家の静けさを破壊した。
「……え?」
メアは寝ぼけた頭のまま飛び起き、音の方向へ駆け出す。
妹・サキの部屋だ。
「サキ? 起きてる……?」
返事はない。
ベッドに近づき、メアは凍りついた。
サキは目を閉じたまま、呼吸はあるが――揺すっても微動だにしない。
枕元のSOMNI端末が赤く点滅し続けていた。
《異常睡眠パターン検知》
《覚醒不可状態を確認》
「……そんな……!」
膝が震える。
その時、リビングのテレビが自動で緊急速報へ切り替わった。
『――速報です。現在、全国的に“睡眠不全症”と呼ばれる症状が急速に発生しています。SOMNI装着者の一部が覚醒できず、昏睡状態に――』
心臓がつかまれたように痛んだ。
『潜夢局は広域アラートを発令。治療班とエージェントの緊急招集が――』
もう迷う余裕はなかった。
「お母さん……サキをお願い。わたし、SOMNIに行く!」
「メア!?」
玄関を飛び出す。
走る。息が切れても走る。
妹の名前を呼びたくなるのを噛み殺しながら。
◆
潜夢局――SOMNI本部に入ると、空気が変わった。
いつもは穏やかな受付フロアに、スタッフが走り回り、モニターが赤い警告で埋め尽くされている。
「メアちゃん!」
声がして振り向くと、ユウタとアリサが待機エリアで立っていた。
二人とも顔に緊張を張り付けている。
「遅れてごめん……妹が……」
「メアちゃんの所もか……とにかく、今は中枢を抑えなきゃどうにもならない」
ユウタの声は低いが震えてはいない。
アリサも唇を噛んでいる。
「被害が……全国規模なの……?」
「そう。マジで“全域侵食”レベル」
アリサが言う“侵食”という言葉が、やけに重く響いた。
そこへ、ヒカリが現れた。
白衣のまま、髪も整える時間がなかったのか乱れている。
普段の柔らかな雰囲気とは違い、表情には鋭い焦りが宿っていた。
「三人とも、こっちへ」
「ヒカリさん……! サキが……妹が……」
メアは言葉を詰まらせながら訴えた。
だがヒカリは、その声に過剰に反応せず、しかし決して冷たくもなく――暖かな眼差しで頷いた。
「大丈夫。必ず助ける。でも今は――あなたにしか出来ない役目がある」
「役目……?」
後ろから黒瀬シドウが歩いてきた。
長身で、黒いコートを羽織り、静かに周囲の職員へ指示を飛ばす姿は、まるで戦場の司令官だった。
「一つの悪夢に、多数の意識が吸い寄せられている。まるで“呼ばれている”みたいにな」
「呼ばれて……?」
「だから、君達にしか任せられない任務だ。特に――内藤メア、君に」
メアは息をのむ。
シドウの視線は、真っ直ぐで、重くて、怖いほど静かだった。
「見させてもらったよ、君の睡眠データ……異常に高い潜在値を示していた。本来“悪夢そのもの”に選ばれやすい器の反応だ」
ヒカリが小さく睨むようにシドウを横目で見る。
「脅さないで。――でも、事実よ。だからこそ、あなたにしか頼めない。“導かれている者”だけが、最短ルートで中枢に辿りつける」
メアは手を握りしめた。震えている。
でも、もう迷ってはいられない。
「……行きます」
シドウが頷く。
「目標は、反応が大きい悪夢の中心部。原因不明――いや、原因が“分からないほど異質”だというべきか。見つけ出してーーーー破壊しろ」
「了解!」
ユウタとアリサが並び立つ。
ヒカリはメアの肩に手を置いた。
「メア。あなたの妹さんも……たくさんの人も、あなたを待ってるわ。どうか無事に戻ってきて」
その声には、恐ろしく強い祈りのような、願いのような、震えるほどの切実さがあった。
メアは小さく頷く。
「必ず……助ける」
そして三人は潜行装置へ歩き出す。
無数の警告音が鳴り響く中、
街の光は遠ざかり、意識は夢の深層へと沈み込んでいった。
――そこで何が待つのか、誰もまだ知らなかった。




