暖かいココアとバッティングセンター
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悪夢の中で半漠とユウタの激突を目の当たりにし、メアは精神をごっそり削がれていた。
ソムニ施設の白いカウンセリングルームに戻された時、彼女の足はわずかに震え、視線は定まらず、呼吸は浅かった。
ユウタが何か言おうと近づくと、メアは反射的に肩を震わせた。
彼は眉を寄せ、それ以上踏み込まず静かに離れた。今は誰が何を言っても、メアの心は受け止められない――それを本能的に悟ったのだ。
薄いブランケットがメアの肩にかけられ、部屋は小さく暖房が強められた。
メアはベッド脇の椅子に座り、動かない。
ただ、握りしめた両手を膝の上に置いたまま、深い穴のような沈黙に沈んでいた。
黒い森の残滓。
檻の墓場の冷たさ。
半漠の男が告げた「王になれ」という言葉の重み。
そして、逃げても晒される“自分の内側”。
どれもが胸の奥でひしめき、簡単に言葉に出来るものではなかった。
十分ほど経っただろうか。
部屋のドアが控えめにノックされる。
メアは微かに肩を揺らしたが、返事はしなかった。
それでもドアは静かに開く。
入ってきたのは一ノ瀬ヒカリ――だがいつもの冷静沈着な表情ではなかった。
「……大丈夫、メアちゃん。ココア飲む?」
驚くほど柔らかい声だった。
普段の研究者然とした口調とはまるで違う。
メアは反射的に顔を上げ、ぽかんと目を丸くした。
「え……ひ、一ノ瀬さん……? しゃべり方……」
「え? あー、そうね。今の私は仕事モードじゃないから」
ヒカリは小さく笑い、紙コップのココアをメアの手にそっと握らせる。
その微笑みは研究者でも管理官でもなく、ただの“年上の女性”そのものだった。
「仕事のときはね、ああいう喋り方じゃないと部下とかユウタがナメてくるの。……いやほんとに。だから無理矢理スイッチ入れてるの」
「す、スイッチ……」
「そう。今はプライベートっていうか……“お姉さんモード”ってやつかな? だからね――」
ヒカリは椅子を引き、メアと視線の高さを合わせた。
「メアちゃん。私のことは、ヒカリって呼んで」
「えっ……」
「ほんとは距離置かれるのキライなの。堅っ苦しいのもキライ。ほら、今の私こんな喋り方でしょ?」
メアは言葉を飲んだ。
さっきまで悪夢の魘されるような気配に満ちていた胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
震える指先でココアを口に運ぶと、甘さが喉を優しく撫でた。
その温度が心の壁を溶かし始めたのか、ぽつりぽつりと言葉が溢れた。
「……わたし……ヒカリ……さん……夢で……アオイを傷つけて……逃げても、また……怖くて……」
ヒカリは黙って聞いていた。否定も慰めも押し付けない。ただ傍にいて、言葉を受け止め続ける。
メアはゆっくりと、今まで胸に詰め込んできたものを吐き出していった。
親友への罪悪感、自分の体質への嫌悪、そして半漠に告げられた“不吉な未来”の予感。
ヒカリはそっとメアの背中を撫でる。
「……メアちゃん。全部ひとりで抱えなくていいよ」
その一言で、メアは胸が熱くなる。
誰かにこんなふうに言ってもらえるとは思っていなかった。
「……ありが、とう……ヒカリ……さん……」
心の中が少しだけ、柔らかい優しさに包まれた。
◆
潜夢局の簡易ラウンジを後にしたメアの足取りは、まだ不安を引きずっていた。だが、先ほどヒカリと交わした温かな時間が、胸の奥の冷たい部分にゆっくりと染み込んでいるのも確かだった。
そこへ、壁にもたれて待っていたユウタが顔を上げた。
「よし。じゃあ行こうか、メアちゃん」
「……どこに?」
「気分転換。悪夢の世界じゃメンタルが命だからね。落ち込んだままだと、それこそ漠徒に美味しく食べられちゃうよ」
言い方は軽いが、その根っこにある“本気”をメアは感じ取った。
促されるまま施設の外に出ると、まだ夜も深まらない街の空気が冷たく肌を撫でた。
「まずは――ここだね!」
ユウタが歩いて向かった先は、バッティングセンターだった。
「……なんで?」
「頭の中ぐちゃぐちゃな時は、身体動かすのが一番。ほら、ストレス発散にもなるって言うじゃん」
バットを手渡され、メアは戸惑いながらもケージに入った。
機械音が鳴り、白球が射出される。
「わ、きゃっ!」
初球はかすりもせず通り過ぎた。
「ドンマイ! まずは形だけ真似してみよっか。こう、肩開かないようにしてさ」
「言うのは簡単だよ……」
しかしユウタは後ろから軽く構えを直し、丁寧に教える。
その手つきは意外なほど繊細で、メアは思わず頬を赤くした。
二球、三球と空振りしたあと――。
カンッ!
乾いた金属音が天井に反響する。
「っ……当たった!」
「おお、ナイス! 才能あるよ、メアちゃん」
褒められて、ほんの少しだけ心が軽くなった。
そのあと二人はボウリング場へ移動し、真剣勝負を繰り広げた。
メアのガーター連発にはユウタが腹を抱えて笑い、逆にユウタがストライクを外せばメアが小さくガッツポーズを取る。
施設から逃げ出し、悪夢に飲まれかけていた数時間前が嘘のようだった。
ゲームを終えて、メアがドリンクのカップを両手で抱えた頃。
ユウタはふと表情を和らげた。
「ねぇ、メアちゃん。俺ってさ、こう見えて――めっちゃ人見知りなんだよ?」
「……は? 嘘でしょ」
「ほんとほんと。今こうやって話してるのも練習した成果ってだけ。自分から誰かに近づくの、昔は全然できなかった」
彼は自嘲気味に笑い、右の手のひらに視線を落とした。
「だからさ。俺の能力って“壁を生む”だろ? あれって、心のクセみたいなもんなんだと思う。人と距離を取るための壁。自分を守るための壁」
「……」
「で、その壁を壊す方法が見つからなかったから、逆に“壁そのものを切る力”が生まれたんじゃないかって。自分の壁をブッ壊す象徴みたいなさ」
メアはしばし彼を見つめてから、そっと目を伏せた。
「……なんか、わたしだけじゃないんだなって思った」
「そりゃそうだよ。誰だって欠陥だらけ。だから補い合うんだよ」
ユウタの声は軽く聞こえるのに、不思議と芯を持っていた。
メアは深く息を吸った。
夢で犯してしまった罪も、半漠に向けられた言葉の意味も、全部がすぐに割り切れるわけじゃない。
でも――。
少しだけ、明日がマシに思えた。
「ありがとう……ユウタ」
「おっ、初めて名前呼んでくれた!? ねぇもっと呼んで呼んで?」
「うるさい。調子に乗らないの」
そう言っても、メアの声には確かな温度が宿っていた。




