銀の墓場
どれだけ走っただろうか。
施設の外はすっかり日が落ち、空気は重く、ひんやりとしていた。
SOMNIの警告音が耳に刺さり、赤い光が手首からほとばしる。
「……また……止められない……!」
手のひらが汗で滑る。呼吸が荒く、胸が締め付けられるように痛む。
不自然に迫り来る眠気に対し、脳裏に“悪夢”という言葉が広がり、足が震えた。
SOMNIの警告音がさらに鋭く、耳をつんざく。手首の装置から光が迸り、まぶたに赤い光が映る。心臓の鼓動が早鐘のように響き、全身に冷たい汗が流れた。
「いや……やだ……やだ……!」
声に力を込めると、足元が揺れ、膝がふらつく。逃げようとする体に、見えない力が絡みつき、視界が波打つ。
目の前の景色が伸び、揺れ、闇の影がじわじわと迫ってくる。
「……っ!」
胸の奥がざわつき、手が震え、息が詰まる。
自我をはっきりと保とうとすればするほど、重く冷たい“何か”が背中を押すように迫る。思考がぐちゃぐちゃに絡まり、理性が霞んだ。
――足が床を捉えない。
膝から下が宙に浮く感覚に変わり、重力も距離も感覚も曖昧になる。周囲の壁や扉は遠のき、目に映るのはただ、赤く点滅するSOMNIの光だけ。
「……逃げ……なきゃ……!」
叫んでも声は震え、息が続かない。胸の奥でざわつく感覚――それは、黒く、重く、押し潰すような感情だった。
恐怖、不安、怒り、自己嫌悪……そのすべてが渦巻き、逃げ場のない海のように押し寄せる。
――そして、足元の床が粉々に崩れた。
体は制御を失い、背中から深い闇へと滑り落ちていく。耳の奥で電子音が響き、視界が赤黒く滲む。
重力も空間も、手応えも曖昧だ。
体が落ちる感覚だけが、胸の奥で鮮明に脈打つ。
(――悪夢……)
逃げる間も、叫ぶ間もなく、メアの意識は黒い渦に吸い込まれた。深く、冷たい、底知れぬ闇に堕ちた。
◆
気がつくと、メアはこれまでとは違う、異様な景色の中に立っていた。
体が深い闇に吸い込まれ、視界が赤黒く滲む中、足元に冷たい感触が戻ってきた。
地面は確かにあるはずなのに、足を踏みしめる感覚が空間に吸い込まれるようで、何も支えてくれない。胸の奥で鼓動が早鐘のように打ち、逃げ場のない恐怖に体が震えた。
やがて、闇の向こうから、異様な光景が姿を現す。
無数の鉄の檻。
人ひとり分が入るサイズの檻が、荒々しく、山のように積み上げられている。
朽ちた金属の匂い、錆びた軋み、風のない空気に響く金属音。まるで、誰かの意識が押し込められた墓場のようだった。
(……な、なんなの……ここ……)
警戒心が体を支配する。
息をひそめ、視線を巡らせると、檻の頂にひときわ大きな影があった。
それはフードを被った男性だ。鉄の墓場の頂に座り込み、ひときわ異彩を放っていた。
「……やっと会えたな」
声は酷くノイズ掛かっており、得体の知れないものを感じさせる。
メアは目を見開き、身を硬直させた。
「……だれ?」
「まずは自己紹介でもしようか」
彼はゆっくりとフードを外し、佇むメアにその顔を見せた。だが顔は――人間の形をしているのに、瞳も鼻も口も、すべてが闇の渦のように渦巻き、輪郭すら定かでなかった。
「………ッ!?」
言葉が喉を通らない。
しかし男はそんなメアを他所に、言葉を続ける。
「我々はヒュプノス。人と漠徒の境界の者だ」
「人と……漠徒の、境界?」
「そうだな……端的に言えば、我々は世界を恨み、悪夢にこそ価値を見出す存在と認識してくれ」
やがて彼はゆっくりと手を差し伸べる。
手のひらは人間の形だが、光を吸い込むかのような暗黒の力が渦巻いていた。
「……内藤メア、我々の王になれ」
その言葉に心が凍りつく。自然と後ずさる。
「……いきなり、なに?」
「“こちら側”に身を委ねれば解る」
メアの意思を無視するかのように、彼は小さな檻を手に取り、拡張させた。檻の金属がひゅっと伸び、彼女を取り囲もうとする。
「嫌ッ、何よコレ……!」
「大人しくしていろ」
「嫌……嫌ぁああああ!」
刹那。
「――っ!」
透明な壁が、檻の中枢から生まれ、やがてそれを両断する。
「ちょっとちょっと! こんな展開聞いてないんだけど?」
ガラガラと檻の破片が砕け散り、粉塵を振り払いユウタが姿を現した。
「――政府の犬か」
男が呟くと、新たな檻が次々と音もなく動き出した。無数の鉄の檻が、まるで意思を持ったかのようにユウタへ向かって飛来する。
「メアちゃん、下がってろ!」
再び防御壁を形成しつつ、ユウタはタンと地面を蹴った。
宙を舞うユウタを目掛け、無骨な鉄の塊は、彼を撃ち落とさんと巨大な鉄槌と化す。
「奴さん、無茶苦茶すんなよーーっと」
ユウタは片手を軽く振る。瞬間、鉄の塊の中心が瞬き、空中で切断され粉々に散った。
「――俺の断空、イカすだろ?」
声と共に、彼の手から透明な壁が無数に飛び出し、檻を次々と両断していく。
「……少しはやるようだな」
フードの男は細かく指を動かし、数多の鉄の檻を操っていた。
しかしユウタの動きは止まらない。
檻は空中で炸裂し、地面に散らばった金属片が音を立てて軋む。
だが、フードの男も黙ってはいなかった。
彼の操る檻の群れが空中で折り重なり、まるで生き物のようにユウタを捕えようと蠢く。
「――こんなの、倒しきれない……!」
メアは思わず息を呑む。しかしユウタはひとつも動揺しない。
「任せとけ、メアちゃん! ちょっと手荒だけど、俺の力で一掃する」
片手で指を鳴らすと、無色透明の壁が頭上に隙間なく具現化された。
「……まだまだ!」
ユウタは身を翻し、再び両手で新たな壁を展開。それらは等間隔に整列し、フードの男に標準を合わせた。
「落ちろーーーー流星!」
展開した数多の無色の扉は、地上目掛けて凄まじい速度で落下した。
激しい音と光にメアは目を伏せる。
「やった……の?」
「いや」
メアの言葉にユウタは首を横に振った。
ユウタの攻撃は、フードの男の周りを破壊するに留まった。男の足元を境に、攻撃の全ては受け流されている。
「……なるほど、今はこれで十分だ」
その声には、何か計算された余裕と威圧があった。男を囲うように形成された鉄の檻は音もなく床に崩れ落ち、同時に男の姿は霧と消えた。
先程までとは打って変わり、銀の墓場は静寂を取り戻す。
「……なんとかなった……のか?」
ユウタは深く息をつき、メアの方へ向き直った。
「メアちゃん大丈夫か? ビックリしたよな」
メアは力なくうなずくだけだった。胸の奥でまだ震える恐怖が残っている。
「……何なの、もう全部……嫌だよ」
ユウタは小さく肩をすくめ、しかし穏やかな声で諭した。
「とりま無事で良かった。メアちゃんが無事なら、もうそれ以上は望まないさ」
「……でも、わたしはーーーー」
震える手で膝を抱えた。
胸の奥で、まだ黒い霧がざわめき、ある筈のない鎖の感触がわずかに残っていた。
ユウタはそっと肩に手を置き、静かに言った。
「……ゆっくりでいい。メアちゃんは一人じゃない」
一人じゃない。
だけど、わたしは誰かの大切を奪う存在だ。




