場所
「何を考えるかよりもどこで考えるかの方がよっぽど大切だ」
「どこで? 」
「そう。どこで」
「ここで考えるより他にあるのか? 」
「どことは場所の話ではないんだ」
「はっ? 」
「具体的な場所。つまり、海の見える小高い丘であったりとか、太陽の光が全く当たらないところであったりとか、そんな空間座標の一点に集約されるような場所ではないんだよ」
「じゃあどこだよ? 」
「……この場合はどこじゃなくて、どのようにかもしれないな」
「えっ? 何で場所の話が手法の話になるんだ? 」
「場所とは方法のことだからだ」
「へっ? 」
「場所ではない場所を思い浮かべることと、やり方を模索することはよく似ている。揚げたてのコロッケと、電柱の上に止まっているカラスみたいに」
「似てないと思うけど……」
「実際に似ているか似ていないかはさておき、そうであるというふうに錯覚すること」
「錯覚って言っちゃっていいの? 」
「君にとっての錯覚が僕にとっての事実であるようにね。認識は歪むんだ。それでもノイズはノイズだけどね」
「ノイズ? 何で? 何で今ノイズの話になった? 話が飛躍しすぎでは? 」
「その通り。でも、そのうち地下トンネルを開通する時みたいに地下の奥深くで繋がるようになるよ。きっと。いわば認識とはどのようなノイズを拾うかであると言える。何を聞いて何を聞かないか、その基準を定めることが必要不可欠なんだ。だからノイズを話をしたんだ。君は蝶の羽ばたきと花火の炸裂音の違いが分かるか? 」
「そりゃあ、分かるさ。だって全然違うだろ? 」
「どのように違うんだ? 私には違いがさっぱり分からない」
「大きさだったり、振動数だったり、音色だったり、波長だったりさ。何もかもが違うだろ? 逆に何が似ているっていうのさ? 」
「大きさだったり、振動数だったり、音色だったり、波長だったりさ」
「……ふざけてる? 」
「全く。至って真面目だ。では改めて聞くが、君は君の癖に従って特定のノイズを拾い集めているということを反証できるか? 」
「出来ないって言いたいのか? 」
「そんなことはない。ひょっとしたら君と2人だったら出来るかもしれない。そうか……ならばどのように考えるかということは、誰が誰と考えるかということにつながる」
「はぁ……」
「誰が、誰と、だ。誰でも良い。こう言うと極めて投げやりなようだが、そうではない。この言葉にこの5文字以上の特別な意味はない。付随する角ばった意味は全て引っ剥がして、地中海の陽光にでも晒しておこう。それには表もなければ裏もない。限りなく薄い絹布だ。無色透明な人称代名詞。何を言っているか分からなくても取り敢えずニュアンスを掴んでくれさえすればそれで良い」
「うーん、何となくは分かるけど。でも、私とか、我々とか、彼らとか、そのような主格を担う名詞を置き去りにしたところで、何も生まないのでは? まるで左手の指で左肘を触ろうとしているみたいだ。起点がなくては空回りするだけなように思える。つるつるとした氷の上で思いっきり踏み込もうとしているようにしか見えないが」
「そこで初めて何かを考え始めるのだ」
「一周しちゃった」
砂漠で重い荷物を引きずったような跡の残る場所で、手段をただ手段として奪還することを目論み、螺旋状に閉じ込められたノイズを理路整然と絨毯の模様のように敷き詰める。そして凍った湖の奥底に火花のような痕跡を発見する。その様子を、雪の重みにたわむ木の枝に止まった一羽のカラスがじっと眺めていた。
どこで? どのように? 誰が、誰と? 何を? 考えたと言うのだろうか。