第一話 日常の一幕
全三幕のうち、とりあえず第一幕まで毎日投稿するつもりです。
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……
………
……………
──────?
あぁ、そうか。
僕は眠っていたんだ。
稀にその最中に居ても、夢だと気付けるときがある。
今回で言えば、目の前のありえない光景が、四つん這いになりながら泣く、聞き覚えのある男の声がそうさせた。
これは夢だ。
そうか、そうか。
だとしたらこれは、僕は、また自分でも知らないうちに眠ってしまっていたのか。
……あぁ、もう、うるさいな。
声がうるさい。
父親だ。
父親の泣きじゃくる声と姿だ。
父なんて呼びたくもない、僕の嫌いな男だ。
僕は今、それを俯瞰している。
定点観測のようで、自分で視点を変えることもできない。
不愉快だ。
毎日顔を合わせるのだって嫌なのに、夢の中まで侵されねばならないのか。
夢という、現実を忘れられる無二たる場所で、どうしてこんなにも嫌な気分にならなければならないのか。
気に入らない。
心底。
一番気に入らないのは他でもない、男がそれはもう嬉しそうだからだ。
普段の厳しい眼、笑ったことなど一度も見たことのない眼からは想像もつかない喜ばし気な眼だ。
ぼとぼとと流れる大粒の涙を気にもとめないで喜んでいる。
……ぁーあ、早く目が覚めてくれないかな。
何が男にそうさせるのか、気にならないと言えば……うん、ならない。
以前の自分なら或いは、もっとよく観察していたのだろうと思う。
物を隠した、壊した、家出をした、食事を残した、ワガママを言った、怒った、笑った、泣いた、ケガをした、暴れて騒いだ、話そうとした、そして、諦めた。
父親の気を引こうと、思いつく限りの手を尽くしてしまった。
僕にはもうどうでもいいことだ。
この不快感を飲み込んでまで満たしたい好奇心の持ち合わせは、とうの昔に失われてしまった。
割り切れやしない。
俺はまだ、たった13歳の子供なのだ。
……っと、そんなことを考えていたら。
誰かが僕のことを起こそうとしているらしい。
世界がうっすら霞んでいく。
仄白んで──。
─────
…………
……
…
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おはよう。
体が揺れる。
やっと思い出した。
何をして眠ってしまったのか。
僕は、書物庫で読み物をしていた最中だった。
「起きなさいフィル……フィルズ!!」
だから今こうして僕の名を呼びながら体を揺すっているのはここの司書…の娘、レシィことレシッシェだ。
……そろそろ揺すらないでくれないか。
「起きなさい!」
もう起きているから…。
「椅子を引くわよ」
それは勘弁願いたいなぁ。
うーと唸りながら手をひらひらとさせ自らの目覚めを主張する。
次の瞬間、椅子が消えた。
嗚呼、理不尽だ──。
「ぐっ……」
「はい、おはよう。もう閉めるわ。出ていきなさい」
「怒ってる…………ますか?」
恐る恐る顔を見上げると、それはもう、冷たい目をしていた。
絶対零度だ。
彼女の目は雄弁で、「何?わかんないの?」とでも言いたげだ。
わかんないよぅ。
腰をさすりながら立ち上がると自分の使っていた机の上に目をやる。同時に理解した。
「…ごめん」
「は?」
「ごめんなさい」
僕は本を枕にしていたらしい。
開かれたページには額のあぶらでシミができている。
本当に申し訳ないと思う。
「はぁぁぁぁ〜、まっったく。毎回毎回直すこっちの身にもなってほしいものだわ」
「返す言葉もございません……。また後日菓子折りを持ってお詫びしますので何卒お許しください父様キリ様レシィ様…」
深々と頭を下げて謝罪する。
直せると言っても汚損なんてしない方がいいに決まっている。
「なに。物で釣ろうって言うの」
「いえいえ全くそんなつもりは無くてですね……ただ僕のような人間から出せるものなんてそれほど多く無いですし」
「貴方がいるじゃない」
「へ…」
まさか体で払えと…!?
そんな……。
よよよ、変態貴族の家に売り飛ばす気なんだ。
うら若き13の少年になんてことを。
「貴方も一緒に食べるのよ。それを約束してくれたら許すわ」
「あ…はい。食べます」
「ん。だからその話し方はやめてちょうだい。虫酸が走るのよ、気持ち悪い」
そこまで言わなくたっていいじゃないか。
これでも申し訳ないと思っていたのに。
「約束するよ。また明日……は来れないんだった。明後日、適当に見繕って持ってくる」
「ん。くるしゅうないわ」
そう言って彼女は微笑んだ。
安心したような、慈しむような、そんな笑みだった。
「さあさあ、後始末はやっておくから帰りなさい。もう門限近いわよ」
門限、と言われて先ほどの夢が頭を過った。
父だ。
見たことも無いような笑顔を浮かべ、喜び、感情剥き出しで泣いていた。
自分には、そんなもの向けたことも無いくせに。
自分の中に渦巻くこの感情が悲しみなのか?怒りなのか?悔しい?苦しい?ぐちゃぐちゃしていて分からない。
あぁ、帰りたくない。
「あっ、そうそうそう。ちょっと見ていく?直すとこ」
問いかけられたことでハッと我に返るといつの間にか自分の眉間にシワが寄って、口もかたく結ばれていたことに気づいた。
うわ。
くそ、くそ、恥ずかしい。
くそ。
本当に。
本当に、彼女のこういうところが好きだ。
勝手に涙が流れそうになって我慢した。
彼女とは、レシィとの間柄はそういうんじゃない。
彼女のことを僕は、あまり良く知らないのだし。
「いいの?」
「こっちが聞いてんのよ。自分が汚したものがいっつもどうやって元に戻ってるのか、一回くらい見ていきなさい。ま、貴方が良いならね」
僕は無言で頷いた。
彼女もまた何も言わないで、ヒラリと振り返った。その背中はいつもより機嫌良さげに弾んでいるように見えた。
「魔法陣、見たことあるでしょう?」
執務机へ向かうと引き出しから何か紙ペラを取り出しすぐこちらへと戻ってきた。
「馬鹿にするなよ」
もちろんある。
描かれる媒体は異なるものの焜炉や照明、水回りにだって使われているごくありふれたもの。個人の素養を問わず、いわゆる魔法の行使を可能にする革命的な技術だ。
まさにこの国の文明を支える基盤と言えるだろう。
ただ彼女のそれはよく見る魔法陣とは明らかな違いがあった。
描かれた紋様の密度が段違いなのだ。
なんて、綺麗なのだろう。
すっかり見惚れてしまった。
僕は日常的に利用できているから忘れそうになるが、ここは仮にも国の管理する書物庫。
そこいらの物と一線を画する魔法陣の一つや二つ珍しくも無いのだろうか。
「あれ?前に得意な魔法は本を直す魔法って言ってなかったっけ。『魔法陣なんて使わない方が早いし同じくらい綺麗にできるわ!!』って自慢してきたよね」
「したし、得意よ。でも、ま、ちょっとしたお試しで描いてみただけ」
きょとんとした顔でそんなことを言うとすぐに本を手に取り準備を始めてしまった。この程度は珍しくないとでも言いたげだ。
僕が変なのかな。
普通は驚くべきところではないのだろうか。
魔法陣の作製は専門の職人がいるほど高度な技術、のはずだ。
一般的な物だってそれは変わらない。
ただ、僕には陣を自分で描くということがどれほどのものなのか、聞いた話以上には知らない。当の本人もさして誇っているようには見えなかったから、やろうと思えばできる、そういうものなのかもしれない。
陣を起動すると羊皮紙が薄っすら赤く光りだした。
徐々に、僕が盛大に汚したページからシミが抜けていく。
その様子を僕はじっと眺めていた。
すると、
「ねえ」
と、レシィが改まって声をかけてきた。
どうかしたのだろうかと彼女の方に目をやる。
しばし静かな時間が流れた。
「え、何どうしたの」
「その、貴方の眠ってしまう病……?なのかしら。どうにもならないの?」
たぶん、これは物を汚されるのが迷惑だとかそういう苦情、文句の類の話をしたいんじゃない。
事情は知られているとはいえ、レシィとは一度もそんな話はしたことがないものだから何から話したものか迷う。
「いつもすごく苦しそうだから」
僕が何も答えられないでいるとそう付け足した。
「難しい、と思う。むかし父さまが呼んだお医者さまでも治せなかったらしいから」
「そう」
その声音は無機質で、興味を失ったようにも、残念そうにも聞こえた。
レシィは表情が豊かな方ではないからわからない。
またも沈黙。
そのうちに魔法陣から光が消えてしまった。修復が終わったのだ。
先に静寂を破ったのはレシィだった。
ふ~~っと大きく伸びると机に広げていた陣と本を持って執務机へと戻っていく。
「引きとめてしまって悪かったわね。もう書庫も閉めないといけないし、行きましょうか」
さっきの質問は何だったのか。
普段通りの彼女に戻っていた。
呆気に取られている僕を置いて扉の外に出てしまった。
懐かしいな、前にもこうやって彼女が出ていって、そのまま一晩中閉じ込められたことがあったな。
「ぁ、しまった!」
思い耽っている場合ではない。
本当に、彼女はいつも「え?嘘だよね?」と言いたくなることを平然とやる。
閉じ込めるなんて、そんなの子供の頃の悪戯だろうって?
馬鹿言っちゃいけない。ほんの一か月前のことだ。もう13歳なのにまったく淑やかという言葉が似合わない。
そうそう、言い忘れていたがレシィは僕の幼馴染というやつだ。付き合いだけは長く、もう何年になるか。まあ今はそんなことはどうでもいい。今日のことだ。今日だって、普通引くか?寝ている人間の椅子を、あんなにも勢いよく。
まあ……大抵僕が怒らせているのが悪いと言えばそうなのだが。
それでも……!それでもさぁ!!
頭の中でそんな文句を垂れ流しつつ足早に進んだ。
すこしだけ息を上げて追いつくと彼女は涼やかな顔で待っていた。
せめて一声かけてくれよと、小言の一つくらい聞いてもらっても良いかな?
「──約束、忘れないでよ」
「あ、あぁうん、もちろん」
レシィは僕の返事もロクに聞かないうちに指を一振りして施錠した。
まったく、さっきの問答は何だったのかと思うほどにあっさりと別れた。
なんのことはない。いつもと変わらない別れをした。
「ただの雑談……?気にしすぎなのかな」
ポツリとそう呟きながら、僕は帰路についた。
帰りたくないなぁぁ、と思いながら歩いた。
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。