突然の来訪者①
玄関の扉を開くや否や、家中を満たす甘く優しい香り。
濃厚な卵をふんだんに使用したスポンジの匂いと、同時にハンドミキサーで生クリームを泡立てる音も聞こえてくる。
(これはもう、絶対にシフォンケーキで決まり!)
フィオナは居ても立ってもいられなくなり、慌てて洗面台へ向かい手を洗うと、一目散に母の待つキッチンへ駆けて行った。
「ただいま!お母さん、今日のおやつってシフォンケーキでしょ?」
息を切らし気味にキッチンを覗くと、そこには今しがた完成をしたホイップを冷蔵庫へ仕舞おうとする女性の姿。
フィオナと同じオレンジブラウンの長い髪をパールフラワーのバレッタで一つに束ね、モカベージュのエプロンを身に着けている。
女性はフィオナの声にすぐさま振り向くと、淡いピンク色の瞳を穏やかに細め、ふわりと笑みを浮かべた。
「ふふっ、お帰りなさいフィオナ。そうよ。だって約束してたもんね。……もう、手は洗った?」
「うん!」
「そう。なら手伝ってくれる?」
「はーい!」
娘の元気な返事に頬を緩めた≪マリー・ベルンシュタイン≫は、手に持っていたボウルを調理台に戻すと、ケトルに水を注ぎ、お茶の準備を始めた。
この一連の流れはいつも見ているから分かる。
次は紅茶葉とティーカップの用意だ。
フィオナはキッチンの隅に置かれていた踏み台を持ってくると、食器棚の前で上り、中から紅茶葉の入った缶を取り出した。
「ただいま」
やや間を置いて、玄関から聞こえたルーカスの声。
土埃で汚れたリルを洗うからと、後から帰宅をしたルーカス達だったが、それにしてもあの汚れに対し少々早い気がする。
(さてはリル、逃げたな)
フェンリスヴォルフは綺麗好きだと本で読んだことはあったけれど、我が家の子はまるで正反対。
外に行けば地面に体をこすり付け、お風呂に入れようものなら全力で逃走を図る。
(だからきっと今回も……)
フィオナが人知れず想像をしている間に、足音は次第に大きくなり、やがてルーカスがひょいとキッチンに顔を出した。
「美味そうな匂いだな」
「お帰りなさい、ルーカス」
そんなことなどつゆも知らないマリーは、穏やかに笑みを浮かべ迎え入れると、ゆっくりとルーカスの傍へ歩み寄った。
それはまるで自然な流れのように、ルーカスもまた軽く両手を広げ優しく抱き寄せると、ピンク色に染まる頬に、優しく触れるような口づけを落とした。
(私は空気……私は空気……)
見ているこちらが照れてしまうようなこの甘いひと時。
物心ついた頃からおこなわれている両親の日常的な挨拶だけれど、やはり年々気恥ずかしくて目のやり場に困ってしまう。
しかしながらいつまでも変わらず仲睦まじいということは、この上なく幸せなことだと思う。
そしてこの二人が出会えたことこそ、運命であり、神に感謝すべきだと、フィオナは常々思った。
(いいなぁ……。いつか私にもそんな人、現れるのかなぁ……)
まだ見ぬ将来の伴侶を想像し、うっとりと恍惚をするも、不意に視線の先に現れたリルの姿に、思わず我に返る。
項垂れ、すごすごとソファへ向かう姿は、見るからに気落ちしている様子が手に取るように分かる。
お風呂が苦手であることは重々承知していたのだけれど、今日は逃げる間もなく洗われたのだろう。
ただ、乾かしている最中に最後の悪あがきをしたのか、若干湿ったままの白銀の毛並みがしゅんと垂れ下がり、なんだか泣いているように見える。
(今夜はぎゅって抱き締めて寝てあげよう)
ソファで丸くなり、ふぅと溜め息すら聞こえてきそうなリルの姿に苦笑する。
すると突如、「あっ!」という小さな悲鳴が耳に届き、慌てて視線を両親へ戻す。
「貴方、これ……」
「あぁ、少しばかり深追いし過ぎてな。その甲斐あって捕らえた賊は無事、国境警備隊に引き渡し済みだ」
ルーカスは案の定、大したことはないと言わんばかりに平然と、淡々と説明を始めた。
けれどマリーはみるみるうちに顔を青ざめさせる。
「そうじゃなくて!」
「ん?」
「怪我は、大丈夫なの?」
瞳を潤ませ、かたかたと震える手でそっと傷口に触れるマリーに、ルーカスは軽く笑いながら服をめくって見せる。
「あぁ、はは……。実はフィオナにも、今の君のように心配されてな。だから帰る前に治癒を施してもらった。もちろん周囲の状況も確認済みだから安心してくれ」
そう言うと、ルーカスは何事もなかったように平然と服を整え始めた。
しかしマリーは安堵の表情を浮かべるどころか、途端、むっと不満げな表情を浮かべる。
どうやら先程の言葉が機嫌を損ねてしまったらしく、マリーは無言のままルーカスから離れると、ふいと背を向け、調理台の上で冷ましておいたシフォンケーキを切り分け始めた。
(あー……お母さん、怒っちゃった……)
フィオナがちらっと視線を向けると、そこには理由が分からずに困惑し、首をかしげるルーカスの姿。
普段あれほど強く凛々しい父なのだが、どうも母にだけはすこぶる弱いらしい。
「マリー……あー……すまない。俺はまた何か間違えたことを言ったのか?」
「別に?ただ貴方が無茶をするのは、あの頃からちっとも変わってないなって思っただけ」
微塵も視線を合わせることなく、黙々とケーキを切り分け続けるマリーに、ルーカスは益々困惑した表情で立ち尽くし、仕舞いには沈黙が居たたまれないのか頭をポリポリと掻き始める。
そのタイミングで沸騰したケトルが鳴り、この微妙な空気を打開してくれるかと思いきや、マリーはすぐさま火を止めると、気不味そうな夫には目もくれず、手早く紅茶葉が入ったティーポットに湯を注ぎ入れた。
「……お父さん、謝るなら早い方がいいと思うよ」
いつもここぞという時に言葉が足りない父親だけれど、この状況は少々不憫かもしれない。
マリーもまたルーカスの前ではまるで子どものように感情を露わにするものだから、まさに似たもの夫婦というのか、互いに心を許している故に、甘えているというのか。
「……だな」
やがてルーカスは困惑した表情のまま小声で返事をすると、マリーに向かいすぐさま平謝りを始めた。
それこそ雨降って地固まればいい。
フィオナはやれやれと吐息を漏らすと、二人の横でデザート皿を並べ、切り分けられたケーキを次々に盛り付け始めた。
ボウルからフワフワのホイップをすくい、ケーキの隣に添え、その上からココアパウダーを振りかける。
そして最後に庭で採れたミントを飾れば出来上がり。
(甘いものを食べれば、きっとお母さんの機嫌もよくなるんじゃないかな)
「ねぇ二人共、早く食べようよ」
仲直りを早めたいという気持ちは言うまでもなく、この美味しそうな匂いを前に、お預けというのはもう我慢できない。
「早く早く」と急かすフィオナを前に、マリーとルーカスは互いに顔を見合わせると、やがて穏やかに表情を和らげた。
「はいはい、待たせてごめんね。……ほら、貴方も手洗い、まだでしょ?」
「あ、あぁ」
エプロンで手を拭きながらルーカスに微笑みかけるマリーに、ルーカスはやっと安堵の表情を浮かべると、弾かれたように洗面所へと走って行った。
その様子にフィオナはほっと胸を撫で下ろすと、綺麗に盛り付けられたケーキをダイニングへ運んだ。
「いただきまーす」
大きな声で食べ物への感謝を述べ、待ってましたと言わんばかりにケーキを口に含む。
すぐさま広がる濃厚な卵の風味と優しい甘み、加えてしゅわっと口の中で溶けていく食感。
この絶妙なバランスは村の養鶏場で採れる新鮮な卵もさることながら、長年お菓子作りを極めてきた母の腕あってのこと。
「ん~!なにこれ美味しすぎる!やっぱりお母さんのケーキは世界一だね!」
「ふふっ。お褒めに預かり光栄だわ」
マリーは嬉しそうに笑みを浮かべると、対面に座るルーカスの前に一通の封筒とペーパーナイフを差し出した。
「これ、さっき届いたみたいなんだけど、差出人の名前が書かれてないの。ただ封蝋の紋章が、私の記憶違いじゃなければシュヴァイツァー家のものだと思うんだけど……」
「なに?」
ルーカスは眉をしかめ封筒を受け取ると、すぐさま裏面を確認し始めた。
「この封蝋……確かにシュヴァイツァー家のもので間違いないな」
手慣れた所作で丁寧に開封し、中から一枚の便箋を取り出すと、すぐさま目を通す。
「……あぁ、やはり。この手紙の主はシュヴァイツァー閣下だ。久しくお会いしていなかったが、急に何用だ?……ん?我が家へ、訪問予定……?」
「え?いつ?」
「ちょっと待て……日付は……本日、午後二時」
「え?」
「は?」
同時に声を上げた二人が慌てて向けた視線の先には、ちょうど午後二時を指す壁掛け時計。
その瞬間マリーは勢いよく席を立ち、弾かれたようにキッチンへ向かうと、ルーカスもまた慌てた様子でリビングへ向かい、注意深く窓の外を確認し始めた。
(二人とも、どうしたんだろう?)
焦りを滲ませた両親に小首を傾げながらも、目の前の誘惑に勝てるわけもなく、フィオナは我関せずにケーキを堪能し続けた。
挙句、ケーキ皿に残された一欠片に、今日はおかわりをしてもいいのだろうか、などと呑気に構える。
すると突如、ドォンと言う凄まじい衝撃音が外から響き渡り、間を置かず地響きのような振動がガタガタと家具を揺らし始めた。
その尋常ではない物音に、ソファでうたた寝をしていたリルが飛び起きると、すぐさまフィオナの元へ駆け寄り、体を寄せ、唸り声を上げ始める。
「……なに、今の!?」
驚きのあまり、一瞬言葉を呑み込み、無意識に駆け寄ったリルを抱き締め、身を縮める。
どくんどくんと次第に早まる鼓動が耳元で鳴り響き、合わせて呼吸も苦しくなる。
隣国との国境故に辺境であるこの地が戦場になることはフィオナも知っている。
けれどこれまで村のすぐ傍が戦場と化したことはない。
「おとうさ……」
「ったく、またあの人は……」
恐怖で震える声を打ち消すように聞こえてきたのは、焦燥に駆られたというよりは、呆れたような溜め息混じりの声。
「もういらっしゃったの?」
「あぁ、みたいだな」
「もう少しでお湯が沸くから、少し外でお話をして繋いでて」
「分かった」
恐怖に駆られるフィオナを他所に、両親は淡々と会話を続けると、やがて踵を返したルーカスが穏やかな笑みを浮かべ、フィオナの待つダイニングへと戻って来た。
「お父さん……」
「あぁ、ごめん、怖かったな。今の音はお父さんの友達が転移に失敗して派手に転んだ音だ。今から迎えに行ってくるから、フィオナはお母さんと一緒に準備を進めてもらえるか?」
ルーカスは先程よりも落ち着いた面持ちでフィオナの頭に優しく手を添えると、「困った人だよな」と笑みを浮かべた。
それは普段フィオナが見慣れているものとは異なり、心なしか無邪気な、例えるならば青年を彷彿とさせるような、そんな笑みだった。
「うん、分かった」
「良い子だ。……さて、リル。すまないがお前は少しの間、フィオナの部屋で待機をしていて欲しい」
ルーカスはフィオナから手を離し、代わりにリルを抱き上げると、バタバタと抵抗をするリルに構うことなく、颯爽と奥の部屋へ連れて行ってしまった。
父の背中越しに、リルの寂しそうな鳴き声が虚しく響き渡る。
「お母さん、どうしてリルはここにいちゃダメなの?魔獣だから?」
テーブルを拭き始めたマリーのエプロンを引っ張り、小首を傾げる。
するとどういうわけかマリーは視線を逸らし、言葉を発することなくテーブルを拭き続けるも、やがてカウンタークロスを手に姿勢を戻すと、ふっと吐息を漏らした。
「今から来る方は、帝国の偉い人だから……」
マリーは視線を重ね、それだけを言い残すと、落ち着かない様子でキッチンへ戻っていった。