辺境の村の少女
「フィオナ、十六歳の誕生日おめでとう」
夜空を煌々と照らす満月のような白銀の髪。
海の揺らめく水面に浮かぶ夕日のような黄金の瞳。
扉を開けるとそこには、騎士団長総長の制服に身を包み、三十三本のバラの花束を抱え、満面の笑みを浮かべた婚約者≪ジークフリート・シュヴァイツァー≫が立っていた。
穏やかに晴れ渡る淡藍色の空。
薄く棚引くすじ雲は、遠く連なる国境山脈を超えて悠々と流れていく。
うららかな日差しが降り注ぐ大地では、一面に広がる草原が時折吹く風に波打ち、放牧された牛が美味しそうに草を食む風景が微笑ましい。
ここはリヒテンヴェルト帝国の国境付近に位置する農村【フェルネ村】。
肥沃な広い大地と、恵まれた気候を生かした農作と酪農が盛んな、のどかな村である。
「で~きたっ!」
ピーヒョロロと、空高く舞い飛ぶトンビ達に負けじ劣らず弾む声。
燦燦と降り注ぐ陽光の元、今まさに見頃を迎えた満開の花畑の中で、声を高らかに両手を空へ掲げるひとりの少女。
名前を≪フィオナ・ベルンシュタイン≫といい、年齢は七歳。
元帝国騎士団の副団長であった父と、優しく穏やかな性格の母と、生まれた頃からこのフェルネ村で暮らしている。
今日は一日を通して気候が良く、日雇い傭兵である父の仕事が済むまでの間であればと、お気に入りの場所であるこの花畑へと足を運んだところであった。
フィオナは艶やかなオレンジブラウンの長い髪を、春の甘やかな風にふわりとなびかせると、喜びをたたえた美しいエメラルド色の瞳を穏やかに緩めた。
その爛々と輝く視線の先には、色彩豊かな花々で編み込まれ、まさに春を体現する花畑のような可憐な花冠。
「ねぇ、見て、リル!……あれ?リル?」
つい先程まで傍らで寝転がり、花冠の完成を今か今かと待ち侘びていたはずの同行者、もとい子犬の姿が見当たらない。
フィオナは腕を下ろし、小首を傾げると、辺りをきょろきょろと見渡した。
興味津々に匂いを嗅いだり、構って欲しいと前足で催促をされていた記憶はある。
けれど、花冠に集中をしていた手前、その後の記憶がおぼろげだ。
(どこに……あっ!)
刹那、焦燥に駆られるも、間を置かず目に留まったのは、やや離れた場所で楽しそうに蝶を追いかける一匹の子犬の姿。
いつの間にあんな所まで、と思わず目を丸くするも、ほっと胸を撫で下ろし、安堵の吐息を漏らす。
(やっぱり飽きちゃったのね)
「リル!おいで!」
フィオナは頬を緩めると、一呼吸置き、大きな声で子犬の名を呼んだ。
すると子犬はすぐさま立ち止まり、こちらへ視線を向けると、応えるように「わん」と一声上げ、一目散に疾走を始めた。
まだ幼い手足で懸命に走り、時折つまずくその姿は、いつ見ても愛らしく、自然と頬がほころんでしまう。
けれど、本来であれば陽光に照らされ美しく輝く白銀の毛並みが、幼さ故に今は草と土埃に覆われている姿を見た途端、今度は溜め息が漏れ出てしまう。
「あーあ……また真っ黒」
「きゃん、きゃん」
「え?そんなに楽しかったの?」
「わふ」
「そっか〜」
ふわふわの尾を懸命に振り、全身で喜びを体現するこの子の感情は、例え言葉が話せなくても手に取るように分かる。
だから結局のところ、どんなに泥だらけになろうとも、リルが楽しければ良いのか、と思ってしまう。
「帰ったらまずはお風呂ね」
フィオナは目元を緩め、両手を広げると、甘えるように体を寄せるリルを優しく抱き締めた。
途端、ほのかに香るお日様のような芳ばしい匂いが鼻をくすぐる。
(こう見ていると、本当にただの子犬だわ)
人慣れし、懸命に尾を振り甘える姿からは到底想像も付かないけれど、このリルという子犬、実は≪フェンリスヴォルフ≫と言う名の魔獣であり、この帝国では神獣と崇められる尊い存在なのだ。
本来であれば野生に返さなければならないところを、縁あって今は家族の一員として共に暮らしている。
もちろんこの件は内々に決めたことであり、村の住民達には一貫してただの犬として通している。
というのも父親によれば、フェンリスヴォルフは警戒心が強く、遭遇する人間は滅多にいないのだそう。
つまりは誰もこの子がフェンリスヴォルフだと気付くはずがないのだ。
現に今もその言葉の通り、秘密が露呈することなく平穏な日々が続いている。
「ねぇ、それよりも見て。やっと完成したのよ」
ふわふわの温かな体をゆっくりと離し、吸い込まれるような淡藍色の瞳を覗き込みながら、完成した花冠を目の前に差し出す。
「くぅん?」
「そう。あなたの為に作ったのよ」
フィオナが優しく声を掛けると、リルは瞳をぱちぱちと瞬かせ、興味津々にふんふんと香りを嗅ぎ、やがて俯くように頭を下げた。
様々な種が存在する魔獣の中でも、このフェンリスヴォルフという種は特段知能が高く、即座に人の言葉を理解し、意思の疎通が可能なのだそう。
なのでこのような瞬間には、やはり魔獣なのだと驚かされる。
「お利口さんね」
フィオナは花がほころぶように笑みを浮かべると、白・紫・黄・ピンクのコントラストが美しい春の冠をリルの頭にそっと添えた。
暖かな陽光に照らされた白銀と花々の組み合わせ。
途端に、どういうわけか胸がぎゅっと締め付けられ、鼻の奥がつんと痛くなり、そして、ぼんやりと視界が滲み始める。
(……どうして、いつも……)
フィオナはそこでゆっくりと瞳を閉じると、深く息を吐いた。
草原を吹き抜ける爽やかな風、さわさわと揺れる葉の音、小鳥の囀り、花々の甘い香り。
そして、いつも隣にはーーーー。
(思い、出せない……)
フィオナは胸の前で両手を握り締め、すうっと息を吸い込むと、囁くように美しい旋律を歌い始めた。
どこか懐かしく、喜びに満ち溢れ、心が震える旋律。
誰の為の歌なのか、どのような意味が込められているのか、どこで覚えたのか分からない。
ただただ心の奥にぽっかりと空いた寂しさを埋めるように、慰めるように、いつも心のままに歌う。
その透き通る軽やかな歌声はやがて風に乗り、花々や木々の間を吹き抜け、広い空へと舞い上がる。
途端、周囲に自生する花々や木々がみるみるうちに淡く光り始め、先程まで頭を垂れていた草花もまた瑞々しく姿勢を正し、空へ向かい力一杯に葉を広げ始めた。
(いつか、思い出す日が来るのかな……)
やがて歌い終えたフィオナはそっと瞳を開くと、隣で嬉しそうに尾を振るリルに向けて、ふわりと微笑んだ。