選ばれた理由
本当は、ずっと知りたくて仕方がなかった。
言葉を交わしたこともなければ、これまで互いの人生に一度も触れることのなかった彼が、何故自分を選んだのか。
もしかして一目惚れ、なんて夢のような想像をして、ひとり胸をときめかせる日もあった。
もちろん、何度か両親に尋ねたりもした。
けれど、どういうわけか上手くはぐらかされてしまい、明確な理由は分からないまま。
加えて、ジークフリートから届く手紙はいつも淡々とした内容ばかりで、時折不安に感じる日がなかったかといえば嘘になる。
それでも、不思議と彼の愛情を疑うことは一度もなかった。
(だけど……)
問い掛けるや否や、驚いたように目を見張り、そのまましばらく押し黙ってしまったカイ。
その瞬間、フィオナの中にあった僅かな自信は、今にも崩れ落ちそうになった。
ただ単純に驚いただけかもしれない。
そう思いつつも、『実は何となく適当に選んだ』なんて答えが返ってきたら、どうすればいい。
先程まで心地が良いと感じていた静寂も、今は嘘のように重々しく息苦しい。
フィオナはカイが沈黙し続ける間、あれこれと思考を巡らせるも、次第に沈み始める心に吐息を漏らすと、そっと目を伏せた。
「君を初めて見た時に……」
不意に聞こえた囁きに、はっと顔を上げる。
「この人だと思った。運命が味方をしてくれたと思った。……もう決して……離してはいけないと思った」
ひとつひとつ選ぶように、穏やかに紡がれた言葉。
途端、フィオナは大きく目を見張ると、無意識に息を呑んだ。
それは想像をしていた答えとはあまりにもかけ離れ、そして、一目惚れというにはあまりにも軽すぎるものだったからだ。
やがてカイは軽く息を吐き、組んでいた腕をゆっくりと降ろすと、ふっと優し気な笑みを浮かべた。
「そう、彼から聞いている」
「……ジーク、フリート様が……?」
「あぁ。……それで、フィオナは?」
「え?」
「フィオナはジークフリートを見た時、どう感じた?」
間を置くことなく、今度はカイが問い掛ける。
けれどその眼差しは先程までの穏やかなものではなく、僅かに強張りを感じる真剣なもの。
「私は……」
フィオナは一言呟くと、初めて彼を写真で見た当時を思い起こした。
幼心に覚えているのは、端正で綺麗な顔立ち、つまりは単純に格好いい人だと感じたこと。
他には凛々しく剣を構える姿に見惚れたり、どういうわけか写真の大半が不機嫌な面持ちばかりで小首を傾げたりもした。
そして、もう一つ。
それは、ジークフリートを見つめているうちに、心のどこか奥深いところで微かに温かな何かを感じたこと。
もちろんその感覚が彼の言う『運命』と同じかと言われれば、些か大げさで、おこがましいのかもしれない。
(それでも……)
次第に高鳴り始める胸元に、そっと片手を当てる。
「心が温かくなった、かな」
あれこれと、今しがたまで思考を巡らせていた時間は何だったのか。
そう思えるほど、フィオナは素直に心の内をカイに伝えると、ふわりと笑顔をほころばせた。
「それは、君がジークフリートに少なからず好意を抱いていると解釈してもいいのか?」
「え?」
心なしか声を上ずらせたカイが、再び間を置かず問い掛ける。
その唐突で直接的な物言いに、途端、フィオナは頬は染め上げると、胸に当てていた手を下ろし、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
(こ、好意って……もちろん異性としての、ってことよね?)
「えっと、その……。……はい」
目の前にいる相手はジークフリートではないのに、まるで本人に告白をしているように恥ずかしい。
このままでは心臓が口から飛び出してしまい、そのまま息が止まってしまうのではないか。
そう感じてしまうほど、フィオナの胸はどくどくと忙しく早鐘を打ち始めた。
「ふ、はは」
その時、緊張を打ち消すようにカイが笑い声を漏らす。
その上、口元を片手で覆い、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らすものだから、フィオナは頬を紅潮させたまま呆気に取られた。
「どうしてカイが照れるのよ」
「いや……うん」
「聞いてきたの、そっちでしょ」
「そうなんだけど、やっぱり照れるな」
「そ、それはこっちのセリフ!」
気持ちが昂り、まるで子どものように声を立てる。
するとカイは「そうだな」と可笑しそうに笑いながら口元から手を離すと、柔らかな眼差しでフィオナを見つめた。
「けど安心した。杞憂だったな」
「……?杞憂って?」
「いくらこの婚約がフィオナの了承を得たものとはいえ、婚約内定時、君はまだ七歳だっただろ?だから確かめたかったんだよ。君が今も変わらず、ジークフリートのことを想ってくれているのかどうか」
穏やかだけれど、心の奥深い場所に直接語り掛けられているようで、心臓がどくんと跳ね上がる。
確かにきっかけは期せずして始まったことかもしれない。
けれどジークフリートの写真を見た瞬間、胸がじんと熱くなった感覚を今も鮮明に覚えている。
今にして思えば、それが恋に落ちた瞬間だったのだろう。
だから心配をする必要もなければ、カイの言うようにまったくの杞憂なのだ。
そもそも好意を抱いていない相手を、五年もの間一途に待ったりはしない。
フィオナは導かれるように宝石箱に目を向けると、軽く吐息を漏らし、それからほんの僅かな間を置いて再び視線を戻した。
「今のって、ジークフリート様から?」
「ん?あぁ、まぁな」
「……なら、お手紙に書いてくれれば良かったのに……」
例え手紙が苦手であろうと、どうせなら本人から伝えて欲しかった。
そう思った矢先、再びカイから軽い笑い声が漏れる。
「あいつさ、ああ見えて小心者なんだよ。フィオナ限定で」
「え?」
どういう意味だろうと小首を傾げるも、カイは笑みを浮かべたままそれ以上言葉を発することなく、おもむろにティーカップを手に持ち、口元へ運んだ。
ほどなくして流れ始めた柔らかな空気の中、フィオナも自然と欠けたケーキと紅茶に目を落とす。
(それにしても)
ゆらゆらと微かに上る湯気をぼんやりと見つめながら、今しがた交わされた会話を思い起こす。
これまでの五年間、不安など微塵も感じさせることのなかった彼からの手紙。
どちらかと言えば、自分ばかりが懸想し、恋い焦がれていると思っていた。
だからカイから伝えられる言葉はどれも嬉しいものばかりで、ジークフリートの垣間見えた意外な一面を、可愛いとさえ感じてしまう。
(でも、それならどうして……)
先程から聞けば聞くほど実感させられるジークフリートからの想い。
だからこそ、何故会うことができないのか、という疑問だけがフィオナの中に取り残される。
もちろんこれまでも両親に尋ねてみたり、果ては文通仲間であるヴィクトールに手紙をしたためたこともあった。
けれど両親は首を横に振るばかりで、後日届いたヴィクトールからの返事に至っては『息子の準備が整うまで、どうか待ってあげて欲しい』と懇願の内容が記されていたのみ。
(もしかして……カイなら何か知ってるかも……)
フィオナはおずおずと顔を上げると、穏やかな面持ちでこちらを見つめるカイと視線を重ね合わせる。
その時、心の不安もまた表情に出ていたのだろう。
カイは一瞬で浮かべていた笑みを消すと、静かにカップをソーサーへ戻した。
「どうした」
低く落ち着いた声が、しんとした部屋に響く。
同時に、真剣な眼差しを向けられたフィオナは、膝に置いた手のひらをぎゅっと握り締めた。
「あの、ね……。もう一つ、聞いてもいい?」
「あぁ」
無意識に、ごくんと唾を飲み込む。
「カイは……どうして私とジークフリート様が会えないのか、その理由を知ってる?」
「……それは……」
問い掛けるや否や、ぐっと言葉を詰まらせるカイ。
その様子から察するに、やはり彼は知っているのだろう。
けれど、以前ヴィクトールにも同じ質問をし断られている手前、素直に教えてくれるとは限らない。
(それでも……)
刹那、目まぐるしく考えを巡らせたフィオナは、淡い期待を胸にカイからの返事を待った。
静まり返る部屋の窓からは、小鳥の囀りと、時折吹く風の音が聞こえてくる。
やがてその音に紛れるように微かに耳に届いたのは、「はぁ」という深い溜め息。
「やっぱり不安、だよな」
まるで独り言のように、カイがぽつりと呟く。
けれど上手く聞き取ることができなかったフィオナが「え?」と首を傾げると、カイは苦笑し、軽くかぶりを振った。
「ジークフリートも君に会いたくて仕方がないと言っていた。けどな、あいつは今どうしても成し遂げなければならない重要な任務に就いていて、それを終えるまでは君に会うことを許されていないんだ」
「重要な、任務?……会えない?」
その瞬間、ひやりとした感覚がフィオナの中を流れ落ちる。
同時に、手紙に多々綴られていた『エキスパート』と『マスター』、そして『出征』という文字が頭を過る。
エリートと謳われる帝国騎士団の中でも、ジークフリートは群を抜いて優秀らしく、若くして師団長を任されていることは知らされていた。
故に出征の回数が多いことはもちろん、文面から察するに、彼自身がそれを望んでいるようにも受け取れた。
けれどまさか、これまで会うことができなかった理由が騎士団の任務によるもの、そして未だ完遂できずにいるほどの困難な状況に直面しているとは、夢にも思わなかった。
本来であれば大役を担う彼を誇り、敬い、称賛すべきなのかもしれない。
(だけど……私にはそんなことできない)
フィオナは僅かに口を開くも、そこで言葉を詰まらせると、きゅっと固く口を結んだ。
(だって……それって……命に関わることなんじゃないの?)
体中から嫌な汗がじわりと滲み、今こうしている間にもジークフリートの身に何か起こるのではないかと、悪い想像ばかりしてしまう。
「大丈夫だ。ジークフリートは強い」
その時、力強く凛とした声が部屋に響き、フィオナははっと目を見張る。
滲む視界の先に映るのは、瞳に強い意志を宿し、真剣な眼差しでこちらを見つめるカイの姿。
「それに、例え何があろうとジークフリートは決して君を諦めない。だからどうか信じて待っていて欲しい。必ず全てを成し遂げ、そして、迎えに来るその日まで」
「カイ……」
なんて不思議なのだろう。
今しがたまで胸に抱いていたはずの不安、恐怖、悲しみといった重く暗い感情がみるみるうちに溶けてなくなり、まるで光が差したように心が明るくなる。
確かにカイの言う通りだ。
今のフィオナがやるべきことは、うじうじと悩み悲観することではなく、ジークフリートが無事に帰還することを祈り、信じて待つこと。
そもそも婚約者である自分がこのような弱気でどうする。
きっとこれから先も、彼が騎士団に所属している以上、今のような状況が多々あるに決まっている。
ならば例え不安に駆られたとしても、今からその心構えを整えておくことが自分の為、延いては彼の為になるのではないか。
フィオナは今にもこぼれ落ちそうな涙を指で拭うと、カイに向かい、出来る限りの笑みを浮かべた。
「うん……待ってる。ずっとずっと、待ってる。……ただ……」
「ただ?」
「ただ、無理だけはしないでって、お手紙に書いてもいい?」
遠慮がちに小声で尋ねると、途端、カイは可笑しそうに相好を崩す。
「あぁ、もちろん。心配されて嬉しくないわけがないし、あいつは何よりもフィオナの手紙を楽しみにしているからな。……本当に、ジークフリートは果報者だ」
「かほうもの?」
「幸せ者ってこと」
「え?……ふふっ」
「はは」
穏やかな空気が流れ始める中、二人はどちらともなく笑い合うと、欠けたケーキと冷めた紅茶でお茶会を再開させた。