小さなお茶会
部屋の中央に敷かれている淡いピンク色のラグマットと小さな白いローテーブル。
普段はお気に入りの小説を手に、至福の時間を過ごすこの場所だけれど、今は淹れ立ての紅茶とメープルナッツパウンドケーキが二人分並べられている。
バターの甘い匂いと紅茶の芳ばしく華やかな香りが部屋を満たす中、フィオナとカイはテーブルを中心に座ると、どちらともなく「いただきます」と手を合わせた。
「ん〜〜っ!」
頬がとろけるような美味しさに感動し、つい唸ってしまう。
昨日焼き上げ、一晩寝かせておいたパウンドケーキは、バターの芳醇な香りとコクがしっとりと染み渡り、同時にメープルとナッツの香りが口いっぱいに広がる。
やはり母の作るスイーツは世界一で、どんなお店も敵わない。
あの甘いものが苦手であった父親が、母との出会いを機に甘党へ変わったことは今でも十分頷ける。
「本当に幸せそうな顔して食べるんだな……」
フィオナが笑顔をほころばせ、至福のひと時を味わっていると、不意にカイが可笑しそうに声を漏らした。
ティーカップを手に、穏やかに目元を緩めこちらを見つめる様は、なんだかくすぐったくて落ち着かない。
「だって、本当に美味しいんだもん……。あっ、美味しいです?……ん?」
「タメ口で良いよ。俺もその方が楽だから」
「え?いいんですか?……それじゃあ、カイさんも早く食べてみて?」
「あぁ。それじゃあ俺もご相伴にあずかろうかな」
カイは朗らかな笑みを浮かべ、フォークを持つと、丁寧にケーキを一口大に切り分け、ゆっくりと口へ運んだ。
その一つ一つの所作は、さすが公爵家の護衛騎士と言うべきか、美しく無駄がない。
今思えば、これまでの騎士達も様々なマナーを身につけていたのだろうけれど、それにしても彼の所作は特段洗練されており、つい見惚れてしまう。
「……美味いな」
やや間を置いて、感嘆の吐息と共に紡がれた言葉に、フィオナはぱっと目を輝かせた。
飾らないたった一言の称賛の言葉が、素直に心に響き、まるで自分のことのように嬉しい。
「でしょ!お母さんの作るお菓子は、きっと帝都のどのパティスリーにも負けないくらい美味しいと思うの!」
「あぁ。むしろ、それ以上じゃないか?」
カイはそう言葉を紡ぐと、続けざまに二口目のケーキを口に運び、ゆっくりと頷きながら、再び「美味い」と呟いた。
春の陽気のような温かな空気が流れる中、フィオナは益々嬉しくなり、頬を緩めると、喜色満面にティーカップを手に持った。
束の間漂う、心地の良い静寂。
淹れたての紅茶からは、うっすらと湯気が立ちのぼり、その熱を冷まそうと「ふう」と息を吹きかける。
「そういえば、お礼と言っちゃなんだが、面白いものを見せてやろうか?」
不意に語り掛けられ、こくんと紅茶を一口飲み、小首を傾げる。
するとカイは楽しそうに目元を緩め、にやりと笑みを浮かべると、フィオナの返事を待つことなくフォークを皿へ戻し、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
「え?どうして!?」
その瞬間、フィオナは驚きの余り、自分でも出したことのない大きな声を部屋中に響かせた。
何故ならば、その写真に映し出されていたのが、シフォンケーキを口いっぱいに頬張り、幸せそうに笑みを浮かべる幼少期の自分だったからだ。
懸命に記憶を辿ってみても、まったく身に覚えがないその写真に、フィオナの頬はみるみるうちに真っ赤に染まり上がる。
「どうしてカイさんがそんな写真持ってるの!」
「あぁ、はは。これはな……」
「いいから、返して!」
「ちょっと待て」
「待たない!」
あまりの気恥ずかしさに、やや責め立てるように言葉を投げかけると、写真を取り返すべく咄嗟に手を伸ばす。
けれど目の前でかざされていた写真は、紙一重でひょいと取り上げられてしまい、フィオナの伸ばした手は虚しく空を掴んだ。
「カイさん……私、怒るよ?」
「だから待てって。あのな、フィオナ。残念だけどこの写真の持ち主は俺じゃないんだよ。だから君に渡すことはできない」
「どういうこと?じゃあ誰のものなのよ」
「ジークフリート」
「……ますます意味分かんないっ!」
「分かった、分かった。説明をするから、そう怒るなよ」
むっと頬を膨らませるフィオナとは相反して、カイはどこか楽しそうに肩を揺らすと、写真を机に置き、事の顛末を説明し始めた。
それは五年前、フィオナが七歳を迎え、ヴィクトールが久方ぶりにベルンシュタイン家へ訪れたあの日。
これまで何度もフィオナの写真が欲しいと懇願するも、決してそれを受け入れなかったルーカス。
それに対し、とうとう痺れを切らしたヴィクトールは、ついに隠し撮りという名の強硬手段に出る。
やがてベルンシュタイン家の誰にも知られることなく、ヴィクトールはフィオナの写真を手に入れると、当時結婚に微塵も興味を示さなかったジークフリートへ渡したのだ。
「えー!なにそれーー!私、そんな話全然知らないんだけど!」
「そりゃ誰にも言ってないし、そもそも隠し撮りだからな。多分、君のご両親は今も知らないままなんじゃないか?」
驚きを通り越して、もはや呆気に取られてしまい、空いた口が塞がらない。
(だけど……)
「……と言うことは、この写真を見て、ジークフリート様は私を選んでくれたってこと?」
「まぁ、そうなるのか……」
「この写真一枚で?まだ七歳だった私を見て?」
「……別に、幼女趣味ってわけじゃないからな」
「誰もそんなこと思ってないわよ。……でも、それなら、どうして……」
「ん?」
首を傾げるカイから不安気に視線を逸らしたフィオナは、俯き加減に写真に目を向けた。
どこにでもいる普通の少女が、ケーキを美味しそうに頬張る写真。
それを幸せな瞬間と題すれば、文字通り、幸せで素敵な思い出のひとつになるだろう。
けれどこの写真の本来の意義は、いわばお見合い写真であり、ジークフリートにとっては、フィオナという人間を認識するための大切な判断材料だったはずだ。
もちろん、こちらは意としてその写真を撮られたわけではない。
それでも何の変哲もない、日常風景を写したたった一枚の写真だけで、どうして彼は自分を選んだのだろう。
「カイさんは……」
「ん?」
「カイさんは、ジークフリート様と親しいの?」
写真に目を向けたまま、弱々しく、消え入りそうな声で問い掛ける。
「あぁ」
「どれくらい?」
「どれくらい?……ジークフリートとは、家族同然の仲だから、それなりには」
「え?」
その言葉に、ぱっと顔を上げると、可笑しそうに笑みを浮かべるカイと視線が重なる。
「そういえばまだ教えてなかったな。俺は幼少の頃からシュヴァイツァー家で世話になっていて、ジークフリートとは兄弟も同然に育ってきたんだよ。ちなみに同年。十八な」
「そうだったの?」
フィオナは益々目を丸くする。
これまで何度も手紙のやり取りをしてきたけれど、兄弟に関しては三つ年が離れた兄がひとりいること、そしてその兄がシュヴァイツァーを継ぐという話しか聞かされていない。
そもそも多くを語らない人だから、どこまで踏み込んだ内容を書いていいのかも分からない。
それでも、兄弟も同然に育ったという彼が、今回専属として護衛の任に就いたことは、ある意味好機なのかもしれない。
「それで?何が知りたい」
まるで心の声を見透かすようにカイは言葉を紡ぐと、おもむろに腕を組み、柔らかな笑みを浮かべた。
もしかして彼なら、この五年間、誰にも打ち明けることなく、ずっと悩んできたその答えを知っているかもしれない。
「カイさんは……あの……」
「カイでいい」
「じゃあ、あの……カイは……ジークフリート様とお話しする機会が、多いと思うんだけど……」
「あぁ」
緊張のあまり声が震え、言葉もぎこちない。
長い間、心の内に秘めてきた疑問、そして不安。
その答えを、今、知ることができるかもしれないと思うだけで、胸がどくどくと激しく脈打ち始める。
フィオナは胸に手を当て、一旦「ふぅ」と息を吐くと、意を決して口を開いた。
「どうしてジークフリート様が……私を選んだのか……聞いたこと、ある?」
その問い掛けに、心なしかカイは目を見張るも、彼の口からすぐにその答えが返ってくることはなかった。