それはとても懐かしく、涙が溢れるような
(どうしよう……)
現在、フィオナは非常に戸惑っていた。
体調が落ち着き、安堵した母親がその場をカイに任せて部屋を後にしたのは、つい先程のこと。
いつまでも毛布に包まったままというわけにもいかず、体を起こしてみるも、すぐ傍らでこちらの様子を伺う彼の視線に、なんだか心が落ち着かない。
チェストに置かれた時計を何度も確認しては、今度は壁にかけているカレンダー、本棚と、きょろきょろと意味もなく視線を泳がせる。
眩しい日差しが差し込む窓の外からは、マリーとリルの楽しそうな笑い声が聞こえ漏れ、相反して、しんと静まり返るこの状況に益々焦りが募る。
(なにか、なにか話さなくちゃ……)
「……フィオナ」
「ひゃい!」
突如、沈黙を破るように名を呼ばれ、思わず驚き、盛大に言葉を噛んでしまう。
途端、体がみるみるうちに熱くなり、フィオナの顔は熟れた林檎のように真っ赤に紅潮してしまった。
「ふ……くく……。ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけどな」
カイは一瞬目を見張るも、すぐさま可笑しそうに肩を揺らすと、やがて安堵の息をひとつ、ほっと吐いた。
「その様子なら、もう体調の心配はなさそうだな」
穏やかに細められた深紫色の瞳と優しい声色。
その包まれるような温かな雰囲気に、フィオナは落ち着きを取り戻すと、自然と笑みをこぼした。
「はい。ご心配をおかけしました」
「いや、いいんだ。……それよりも、一つ聞いても良いか?」
「?」
「君は眠っている間、何か夢でも見ていたのか?」
「……え?」
その問いに、思わず目を見張る。
確かに自分は夢を見ていた。
それも現実との境が恐ろしく曖昧で、それでいてどこか懐かしく、心地の良い夢。
けれど彼は、何故そのことを知っているのだろう。
「どうして――」
「どうして分かったのかって?」
フィオナの心を読んだかのように、カイは言葉を被せ、会話を遮ると、再び可笑しそうに肩を揺らし始めた。
「楽しそうに笑っていたからな」
「楽しそうに笑っ……え?誰が?」
「フィオナが」
「私が?」
「あぁ。それに何度か寝言も呟いていたな。内容までは聞き取れなかったけど」
「え?寝言?誰が?」
「だからフィオナが」
「……は……えぇーーーっ!?」
眠っていたのだから身に覚えがないとは言え、まさかそのような失態をおかしていたなんて。
それにしても今日は本当にどうしてしまったのだろう。
初めて会った男性の前で突然気を失い、助けてもらい、挙句、笑いながら寝言を呟くだなんて。
「あ、うぅ……。それは大変、お見苦しいものを……」
フィオナはドクドクと脈打つ鼓動と一気に上がる体温、そしてあまりの気恥ずかしさに涙をじわりと滲ませると、居たたまれず目を伏せた。
再び部屋に沈黙が流れるも、今はこれ以上、言葉が見つからない。
「……俺としては、もう大丈夫だろうと安堵したけどな」
ふと、息を吐くような囁きと共に、温かな手のひらがふわりと頭に添えられる。
その手はまるで幼子を宥めるように、ゆっくりと、優しく、何度もフィオナの頭を撫でた。
「もちろん、君が目覚めるまで油断するつもりはなかったが……」
そう、言葉を紡ぎ終えると同時に、触れた手のひらも離れていく。
その温もりを追うように、フィオナはゆっくりと顔を上げると、途端、案じ顔のカイと視線が重なった。
その面持ちは、目覚めた瞬間の、壁際で押し黙ったままこちらを見つめ続けていたそれと同じ。
あの時はただぼんやりと見つめ返すことしかできないでいたけれど、今思えば、彼はその時からずっと案じていてくれたのだろう。
「それで?どんな夢を見ていたんだ?」
「え?」
先程までの穏やかな雰囲気から一変し、カイは心なしか緊張した面持ちに変わると、僅かに身を乗り出した。
不意に近付く二人の距離と、一心にフィオナを見つめる深く美しいアメジスト色の瞳。
その吸い込まれそうな双眼と視線が重なるだけで、思わず息を呑んでしまう。
それと同時に、彼にここまで興味を持たせるほど、自分は一体何を呟いたのだろうとも思った。
(それに……あの夢を言葉で説明するとなると……)
「あの……」
「ん?」
「その、見た夢……なんですけど……」
「あぁ」
「なんて言えばいいのかな……。例えばなんですけど、カイさんはこれまで一度も行ったことのない場所や、会ったことのない人が夢に出てきたことって、ありますか?」
夢の中の情景を思い起こしながら、ゆっくりと言葉に変えていく。
そもそもあの浮世離れした夢自体、自分が作り出した幻想かもしれない。
ともすれば、過去にどこかで読んだファンタジー小説の世界を創造しただけかもしれない。
(それでも……)
あの瞬間、あの場所で、例えそれが夢の中であっても、確かに自分は懐かしいと感じた。
だから、もしも彼が少しでもその答えを知っているのなら教えて欲しい。
そう、フィオナは僅かな期待を胸に返事を待った。
「いや、俺はないかな」
けれど、その期待も虚しくカイはすぐさま返事をすると、表情を微塵も変えることなく、ゆっくりと背もたれに体重を預けた。
「そう、ですよね……。実は私も初めてで、どう説明すればいいのか……」
「けど、楽しかったんだろ?」
「え?」
続けざまに紡がれた言葉に、はっと目を見張る。
刹那、フィオナの脳裏に浮かんだのは、美しい白銀の髪と黄金色の双眼を持つ男性の姿。
「楽しい……。うぅん……幸せでした……」
それは考えるよりも先に口からこぼれ出た言葉。
彼の温かく、優しく、慈しみ溢れる抱擁に身を委ね、思い切り甘えて、これ以上ないくらい幸せなひととき。
けれど反対に、思い出せば出すほど胸が締め付けられ、どういうわけか、じわりと視界が滲み始める。
(そういえばあの時、彼にちゃんと伝えられないまま夢が終わってしまったけど……)
彼の優しさに甘え、少しばかり意地悪をしてしまったことへの後悔が、今になり押し寄せてくる。
もちろん、これはあくまで夢の話であって、現実ではない。
(なのに……)
あの時、きちんと伝えてあげればよかった。
大丈夫だよ。
私と貴方は、ずっとずっと一緒にいるよって。
「ずっと……一緒……?」
「……フィオナ?」
その時、温かな雫がゆっくりと頬を伝う。
同時に、滲む視界の先では、表情を一変させたカイが咄嗟にハンカチを取り出し、こちらに差し出す所作が映る。
「あれ……私、なんで……」
意思とは無関係に、次から次へと止めどなく溢れる涙。
決して悲しいわけでも辛いわけでもない。
ただ夢の中の彼を思った瞬間、無性に胸がいっぱいになったのだ。
「大丈夫か?」
「……うん。ごめんね急に……。今日の私、なんか変だね……」
「気にするな……。そういう日もある」
カイは優しく言葉を掛けると、差し出したハンカチで、零れ落ちる涙をそっと拭った。
繊細なガラス細工を扱うように、ふわりと優しく触れられ、フィオナは自然と笑みをほころばせる。
「またあの夢を見られたらいいなって思ったら、涙が出てきちゃった……。とてもね、幸せな夢だったから……」
気恥ずかしくて、照れ笑いをしつつも、震える声で精一杯気持ちを吐露する。
そして、もしも願いが叶うのなら、もう一度彼に会いたい。
するとカイは、やや間を置いて「そうか」と囁くと、とても柔らかな笑みを浮かべた。