護衛騎士
フィオナとジークフリートの婚約内定から五年。
その間、ベルンシュタイン家の生活には様々な変化が訪れていた。
中でも、ルーカスが渦中のアドラー・フックス辺境伯の専属護衛として従事し始めたことが、一番の変化だろう。
辺境伯が治めるフックス領は、リヒテンヴェルト帝国と隣国≪ヴァンデルング帝国≫との国境付近に位置し、軋轢による長年国交断絶状態であった両国による紛争が起こった際には、必ずと言ってよいほど戦場と化す地域でもあった。
そしてその国境警備の全ての権限を担うアドラーは、それ故に命を狙われることが多く、常に危険と隣り合わせの日々を過ごさねばならなかった。
そのような状況下で、元帝国騎士団副団長がフェルネ村に在住していると聞きつけた彼は、自らルーカスに打診をし、専属護衛として雇ったのである。
一方、ルーカスが懸念をしていた家族の安全面においては、ジークフリートの婚約者およびその家族を護衛という名目で、シュヴァイツァーから護衛騎士が派遣されるようになっていた。
ここで言う護衛騎士とは、各家門が家長とその家族を守護する為に雇う専属騎士のことであり、中でも歴代騎士の家系であるシュヴァイツァー家の護衛騎士は、帝国騎士団に匹敵する力を保有すると言われていた。
つまり婚約内定の瞬間から、ベルンシュタイン家は帝国騎士団と同等の後ろ盾を得たことになるのだ。
余談だけれど、シュヴァイツァーの護衛騎士である彼らは、ルーカスの古くからの友人であったり、彼に憧れて騎士を目指した者達ばかりであったため、皆好意的であり、こぞってフェルネ村へ行くことを志願したらしい。
分厚いドレープカーテンを開けると、瞬く間に差し込む朝の光。
部屋中が眩い光に満たされ、目を細めると、うんと思いきり伸びをする。
ふと聞こえた微かな衣擦れの音に振り返ると、ベッドの上では、いまだ気持ち良さげに寝息を立て続ける白銀の獣の姿。
夢を見ているのか、手足をしきりに動かすその様に、自然と頬が緩む。
五年の間に随分と体は成長したものの、いつまでも甘えん坊なリルは、部屋の主と同じベッドで眠ることを好み、今でもこうして一緒に朝を迎えているのだ。
「ふわぁぁ〜……。面白過ぎて、つい夜更かししちゃった……」
今月十二歳を迎えたばかりのフィオナは、大きな欠伸をし、瞳を潤ませると、テーブルに置かれた一冊の小説に目を向けた。
昨日、突如ヴィクトールから届いたばかりの、新人作家によるデビュー作。
その表紙には、主人公である容姿端麗な青年が凛々しく長剣を構え、鋭い眼光で戦場を見据える姿が描かれている。
内容はというと、帝国が誇る騎士団の入団試験において、史上最年少で合格を果たした青年が、類い稀なるその素質で、次々と武勲を上げていくというものだ。
どこかで聞き覚えのある話と、恋愛ジャンルを好むフィオナにとっては初となる戦闘もの。
だから届いた当初は小首を傾げたけれど、美麗な表紙に惹かれて読み進めていくうちに、鬼気迫る表現と想像を掻き立てる巧みな文章力、そして繊細な心理描写にいつしか時を忘れ、気付けば一晩でこの作者のファンになっていた。
(朝ごはんを食べたら、早く続きを読もっと)
フィオナは目を爛々と輝かせ、頬を緩ませると、栞紐が挟まれた小説はそのままに、壁際の本棚へ足を進めた。
ルーカスに強請り購入をした白いアンティーク調の本棚には、中段から下段に至るまで、これまで集めた小説が所狭しと並べられており、まるで小さな書店のよう。
もちろん各々著者は違うけれど、そのどれもが恋愛小説であり、フィオナは今回送られてきた小説をどこに並べようかと悩んだ。
その時、ふと目に留まったのは、本棚の最上段に置かれた美しい細工の宝石箱。
ピンクのバラをモチーフに、金と銀の縁取りが美しいそれは、婚約者であるジークフリートから贈られたものだ。
(あ、そっか……)
小説を読み進めていくうちに、不思議と思い出さずにはいられなかった彼の存在。
今思えば、主人公である青年とジークフリートの境遇があまりにも酷似をしていたことが要因かもしれない。
「いつ、会えるんだろ……」
フィオナは人知れず呟くと、宝石箱を手に取り、そっと蓋を開いた。
それはオルゴール内臓のもので、開くと同時に美しい音色をゆったりと奏で始めた。
中には一枚のメッセージカードと、何通もの封筒が丁寧に重ねられており、差出人には全てジークフリート・シュヴァイツァーと記されたサインが記されている。
これらの手紙は婚約内定を機に届くようになり、一見して充実した婚約生活を送れているようだけれど、正直に言えば不安を抱く日も少なくない。
何故ならば、婚約内定から五年を過ぎた今でも、婚約者であるジークフリートと一度も逢えていないからだ。
それに、彼はあまり手紙が得意ではないのか、内容はいつも淡々と要点だけを書き出したものばかり。
最近では無事エキスパートランクを取得し、休む間もなくマスターランクへ向けて日々精進しているということだけが綴られていた。
もちろん、こちらから近況報告のついでにちょっとした質問を送れば、その答えはきちんと返って来る。
だからある程度、ジークフリートの人となりと言うのか、趣味嗜好というものは把握しているつもりだ。
ただ、どういうわけか彼から自分に対しての質問は、この五年の間に数えるほどしかない。
それでも途切れることなく、数か月に一度は必ず送られてくるこの手紙は、二人を繋ぐ唯一の手段であり、フィオナにとっては大切な心の拠り所であった。
(そういえば)
フィオナは手紙の一番上に置かれている、押し花で作られたメッセージカードにそっと触れた。
それは以前、手紙とは別に贈られてきた、真っ白なアングレカムの花で作られたもの。
そしてそのメッセージ欄に綴られていたのは、『早く会いたい。必ず迎えに行く。だからどうか待っていて欲しい』という一文。
嬉しさのあまり母親に見せると、それはとても穏やかな笑みを浮かべ、アングレカムの花言葉は"いつまでもあなたと一緒"、そしてもう一つは"祈り"であると教えてくれた。
(きっと、大丈夫……)
先程から流れ続ける、美しく、懐かしく、どこかもの悲しい旋律。
その音色に耳を傾けながら、フィオナは軽く吐息を漏らすと、両手を握り締め、ゆっくりと瞳を閉じた。
それはまだ見ぬ婚約者へ向けての祈り。
どうか彼が今日も無事でありますように。
そして、早く会えますように、と。
「おはよう、フィオナ。お父さんならもう出掛けたわよ」
「おはよう。えー?最近早くない?」
キッチンから顔を出したマリーに向かい、フィオナはぷくっと頬を膨らませると、「一緒に食べたかったのに」と小声で呟いた。
「お父さんは色々と忙しいの。ほら、貴方も護衛騎士の方がいらっしゃる前に、早く朝食を済ませてしまいなさい。飲み物はフルーツジュースでいい?」
「うん!あ、そういえば今日は誰が担当だっけ?」
「そうねぇ……。最近会っていないドミニクさんか、ケヴィンさん辺りかしら?確かどちらかが林檎アレルギーだったのよね?」
「あ、それ、ケヴィンさんの方。食べたら喉の奥が痒くなるんだって」
「なら今日のおやつはガトーショコラにしましょうか。フィオナも手伝ってくれる?」
「もちろん!試食なら任せてよ!」
「え?そっちなの?ふふっ」
護衛騎士が従事するようになってから始まった、二人の日課のような会話。
というのも、護衛騎士が付くからといって常に危険と隣り合わせの毎日ということもなく、大抵は母特製のスイーツを食べながら騎士達と雑談をする平和な日々であった。
フィオナは笑いながらダイニングチェアに腰を下ろすと、すでに準備をされた朝食を前に、さっそくお腹が鳴り始める。
ライ麦パン、色とりどりの野菜を使った生ハムサラダ、とろとろ半熟のスクランブルエッグ。
間を置かず、熱々のポテトポタージュと冷たいフルーツジュースが運ばれ、ついにフィオナのお腹は待ちきれないとばかりに大きな音を鳴らした。
「いただきまーす!」
「はい、どうぞ。……今日はお天気が良いし風も弱いから、先にお布団を干してから朝食の片付けをしようかしら……」
フィオナがライ麦パンにクリームチーズを塗る隣で、マリーが窓の外を眺めながら独り言のように呟やく。
ちょうどその時、玄関から来客を告げる呼び鈴が鳴り響く。
二人は互いに顔を見合わせると、同時にリビングの壁掛け時計に視線を向けた。
「護衛騎士の方かしら?いつもより少し……いえ、大分早いわね」
「むぅ、はひはひ(うん、確かに)」
口一杯にパンを頬張りながら頷くと、マリーは可笑しそうに頬を緩め、すぐさま玄関へ歩いて行った。
防犯用のドアスコープからそっと外の様子を覗き見る。
するとそこにはシュヴァイツァーの制服をぱりっと着こなし、腰にいかにも重そうなロングソードを携えた、初見の若い騎士が背筋を伸ばして立っていた。
(あら?本当に騎士の方だわ)
「今、開けますね!」
騎士をいつまでも待たせる訳にはいかないと、慌てて扉を開ける。
するとその若い騎士は、マリーが口を開くよりも早く片手を胸の前へ、もう片手を背後へ回し、深く頭を下げると、丁寧に騎士の敬礼を行った。
「初めまして、ベルンシュタイン夫人。本日から専属護衛を務めさせていただく《カイ・ルートヴィッヒ》と申します。以後お見知りおき願います」
言い終えると同時に姿勢を正したカイと名乗る騎士は、流れるような艶のある漆黒の短髪をなびかせ、アメジスト色の深紫の瞳を細めながら、マリーを穏やかな面持ちで見つめた。
端正な顔立ちと長身、騎士らしく引き締まった体躯、どれを取っても非の打ち所がない青年を前に、マリーは思わず目を見張り、言葉を詰まらせてしまった。
(なんて綺麗な青年なのかしら。それに若いわ。年齢はどう見ても十代。シュヴァイツァーにこんな若い子、いたかしら?)
「ベルンシュタイン夫人?」
「あ、ごめんなさい。よろしくね、ルートヴィッヒ卿。……それで、その、せっかく来てくれて申し訳ないんだけど、娘がまだ食事中で色々と片付けが済んでいなくて……」
マリーは背後を気にしながら遠慮気味に伝えると、カイは益々目元を緩めた。
「大丈夫ですよ。それよりも俺の方こそ早く着き過ぎてしまい、申し訳ございません。お嬢様が食事を終えるまでこのまま外で待機しておりますので、どうぞお気になさらず」
「そういうわけにもいかないわ。……あ、そういえばさっき言ってた、専属というのはどういう意味かしら?貴方はこれまでの護衛と違うの?」
「はい。これまでは騎士が交代制でしたが、今後は名の通り、俺が常にお二人の護衛を務めることになります」
「だから専属なのね。……でも、それなら尚更、貴方に負担がかからないか心配だわ。これまで通り交代制でも構わないのに……」
「お気遣いいただきありがとうございます。しかし今回の任務は婚約者であるジークフリート様直々のご命令ですので、気になさらないで下さい」
「まぁ、直々の?……って、あらやだ!こんな所で長々と立ち話をしてしまってごめんなさい!取りあえず中へ入って?あ、今日のおやつはガトーショコラなんだけど、甘いものは平気?」
「はい、特に苦手なものはございません」
「そう、良かったわ!さぁ、どうぞ」
マリーは安堵の息を漏らし、穏やかな笑みを浮かべると、そのままカイを家の中へ招き入れた。
(お母さん、遅いなぁ……)
サラダにマンダリンオレンジのドレッシングをかけ、フォークで軽く混ぜつつ、中々戻ってこないマリーに首を傾げる。
微かに声は聞こえるけれど、時間を掛けて話し込んでいる辺り、騎士ではなかったのかもしれない。
それでも朝食は早めに終わらせておいた方が良い。
フィオナは生ハムとスライス玉ねぎとトマトをフォークで一指しすると、大きな一口で頬張った。
するとやや間を置いて、次第に大きく聞こえ始めたのはマリーと男性の弾んだ声。
「フィオナ、この方は今日から新しく私達の護衛をしてくださることになった、騎士のカイ・ルートヴィッヒ卿よ。今後は彼が専属で護衛を務めてくださるそうだから、ご挨拶なさい」
「カイで構いません夫人。初めまして、フィオナ・ベルンシュタイン嬢。本日からよろしくお願いします」
リビングに立つや否や、カイはすぐさまフィオナと視線を合わせると、柔らかな笑みを浮かべ、騎士の敬礼をおこなった。
「あ、え?」
これまでの慣れ親しんだ騎士達とは、年齢も雰囲気もまるで異なる青年。
フィオナはどういうわけかフォークを持ったまま微動だにできずに、無意識に瞳だけはぱちぱちと瞬かせた。
(この人も……シュヴァイツァーの護衛騎士?)
心の中で首を傾げる間に、姿勢を正したカイと再び視線が重なる。
それは何秒の間だったのか、カイはゆっくりとフィオナの傍へ歩み寄ると、流れるような所作で目の前で片膝を突いた。
「!?」
更にカイはおもむろに皮手袋を外すと、片手を胸の前に、もう片手をそっとフィオナの前へ差し出し、優しく穏やかな笑みを浮かべた。
「フィオナ嬢……」
「!!?」
今、目の前で何が起こっているのだろう。
突如、眉目秀麗な青年に微笑まれ、手を差し出され、低く凛とした、けれどどこか柔らかい声色で名を呼ばれている。
フィオナは思わず言葉を詰まらせると、次第に早まる鼓動と熱を帯びる体に息苦しさを覚えた。
きっと今鏡を覗けば、そこには真っ赤に熟れた林檎のような自分が映ることだろう。
「フィオナ?騎士の方にいつまでも膝をつかせたままでは不敬よ。早くご挨拶なさい?」
緊張のあまり頭が真っ白になり、固まってしまったフィオナを見かねたのだろう。
母から出された助け舟によって、はっと我に返ると、握りしめたままのフォークを素早くテーブルの上に置き、大きく息を吐いた。
「フィオナ……フィオナ・ベルンシュタインです。初めまして、ルートヴィッヒ卿……」
差し出された大きな手のひらに、おずおずと自分の手を添え、たどたどしく挨拶をおこなう。
するとカイは満足気に目元を緩め、添えられた白く小さな手を優しく包み込むと、穏やかな眼差しでフィオナを見つめた。
「ベルンシュタイン嬢。もし宜しければ、今後は名前で呼んでも構わないだろうか。俺のことは気軽にカイと呼んで欲しい」
「あ、えっと……カイ、さん?じゃあ、私も、フィオナって呼んでください」
「ありがとう。よろしく、フィオナ……」
甘やかな声で、囁くように礼を述べたカイは、そのままフィオナの手をゆっくりと持ち上げると、再び流れるような美しい所作で瞳を伏せ、手の甲に優しく触れるような口付けを落とした。
「ひゃっ!」
カイの温かな感触と吐息が触れた瞬間、驚きのあまり声を上げ、その手を振り払う。
パリッ!!
『――――――っっっ!!!』
(……え?なに……?)
突如全身を駆け巡る鈍い痛み。
刹那、何者かが悲痛な声を上げながら、誰かの名を叫ぶ光景が脳裏を過る。
けれど思い返す間もなく、次第に遠のき始めるフィオナの意識。
目の前が白く霞み、全身から力が抜け、そのまま抗うことも出来ずに前方へ体が倒れ込む。
「フィオナ!!」
遠のく意識の中、母親の取り乱した声と、温かく逞しい腕に抱き締められる感覚。
(誰……?)
違和感を覚えつつも、激しく襲いくる眠気に抗うことができずに、フィオナの意識はそこでぷつりと途切れた。