婚約の条件
慌ただしい再会から一夜が明けた翌日。
時刻は十八時を迎え、西の空はすでに美しい茜色から神秘的な深藍色へ染まり終える頃。
どういうわけか、今度は息子のジークフリート直々に縁談の申し入れを受けたルーカスは、度重なる心労による疲弊を露わに、シュヴァイツァー邸のエントランスに独り佇んでいた。
あの日、縁談については保留と伝え、尚且つジークフリートの性格上、すぐさま断りの連絡を受けると踏んでいたルーカスにとって、今回の申し入れはまさに寝耳に水であった。
「……はぁ……」
先程から何度も繰り返される大きな溜息を吐きつつ、呼び鈴を鳴らす。
やがて繊細な金細工があしらわれた重厚感のある扉が開き、中から数人の護衛騎士と使用人達が現れると、皆一斉に深々と頭を下げた。
現役の頃ならともかく、今はただの日雇い傭兵だ。
ルーカスは居たたまれず、ひとまず自分も同じく騎士の敬礼をおこなうと、護衛騎士と使用人達は皆笑顔で歓喜の声を上げ、すぐさま応接間へ案内をしてくれた。
(あの人、俺のことをどういう風に伝えていたんだ……)
くすぐったいような、けれどこれから聞かされる内容への不安に拍車がかかるような。
なんとも言い難い感情を抱きつつ、ルーカスは応接間へ続く長い長い廊下を進んで行った。
(ここへ訪れるのは何年ぶりだろうか……)
応接間へ通されたルーカスは、黒い本革張りのソファにゆっくりと腰を下ろすと、懐かし気に辺りを見渡した。
久しぶりに訪れた応接間は、若干家具の配置が変わるも、部屋全体は以前と変わらずダークブラウンで統一をされ、厳粛な雰囲気が漂い、自然と背筋が伸びる。
部屋の至る所には、最高級の木材を使用し、職人が一つひとつ手作業で作り上げた装飾が美しい家具、照明、調度品の数々。
足元には上質な素材で縫われた絨毯が敷き詰められ、主人自ら職人の元へ足を運び、その素材選びから拘り抜いた一級品だそうだ。
本来であれば心地の良いソファに体を預け、朗らかに談笑とでもいきたいところだが、生憎今はそれどころではない。
ルーカスは心を落ち着かせようと大きく深呼吸をすると、己を鼓舞するため拳をぐっと握り締め、大丈夫だと心の中で呟いた。
「急に呼び出してすまんな、ルーカス。どうしても息子が早急にフィオナとの縁談を進めたいと言い始めてな」
「……まさか、女性に微塵も興味を持ち合わせていないはずのご子息から、昨日の今日で呼び出されるとは夢にも思いませんでしたよ」
ルーカスは不機嫌を露に両腕を組むと、テーブルの上に用意をされた淹れ立てのコーヒーと有名パティスリーのロールケーキには目もくれず、対面に座るシュヴァイツァー親子を鋭い眼光で見据えた。
「それで?どういう風の吹き回しですか?」
ルーカスは腕を組んだまま、ヴィクトールの隣で口を噤むジークフリートを一瞥した。
「ったく。子ども相手にそう圧をかけるな、大人気ない。先程も話した通り、息子がフィオナとの結婚を望んでいる。お前達さえ良ければ話を進めても構わないか?」
「お前達もなにも……それについてはまだ保留とお伝えしたはずですが」
「それはまぁ……そうなんだが……」
ヴィクトールは何かを言いかけ口籠ると、隣でやや緊張した面持ちで背筋を伸ばし、沈黙を貫くジークフリートを一瞥した。
「そうだ、ルーカス。お前、入れておいた息子の写真には気付いたか?」
「……は?……えぇ、まぁ……」
「それで?あの子の反応は?」
「特に何も」
表向きは努めて平静を装い、最低限の言葉で返事をする。
しかしこの時、ルーカスの脳裏を過っていたのは、頬を染めながら幸せそうに写真を見つめる娘の横顔。
誰から見てもジークフリートに好意を抱いているだろうその姿に、ルーカスの胸中は正直複雑であった。
「いいか、ルーカス」
その一瞬の迷いを感じ取るように、ヴィクトールは間髪入れず言葉を続けると、軽く目元を緩めつつ、こほんと一つ咳払いをした。
「これはお前にとっても好機なんだぞ。そう遠くない未来、どこの馬の骨か分からない男に娘が嫁いでいくよりも、私の息子と添い遂げた方がお前も安心できるとは思わないか?」
(相変わらずこの人は、人の心理を上手く利用してくる)
ルーカスがぐっと押し黙ると、ヴィクトーはにやりと口元を緩め、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「親の私が言うのもなんだが、ジークは男前で強く、頭も切れて、将来も有望!」
「……はぁ」
「まぁ、若干歳の割に達観し大人びたところはあるが、とは言え冷めているわけでなく、きちんと情には深い子だ」
「……えぇ」
「つまり何が言いたいのかと言うと」
「あのですね……」
「フィオナとジークが結婚をすれば、きっと幸せな家庭を築けるってことだ!」
「閣下」
「なんだ?お前もやっと考えを改めて……」
「少々、お静かに願えますか?」
(閣下には申し訳ないが、これ以上は時間の無駄だ)
ルーカスは容赦なくばっさりと言葉を遮ると、対面で目を丸くし、押し黙るヴィクトールを見据えた。
長年彼の側近を務めてきた故に、その性格は熟知している。
どれほど帝国の英雄と謳われ、畏怖されようが、彼もまた一人の人間であり父親。
子を思う気持ちが先立ち、逸る気持ちは理解できるが、こちらとてそれは同じ。
(それに、まずは……)
ルーカスは一呼吸置くと、先程から父親同士の話を静観し続けるジークフリートに視線を向けた。
「ジークフリート君……単刀直入に言わせてもらうが、どうしてフィオナなんだ?君は公爵家の次男で、帝国騎士団に最年少で所属し、閣下の言う通り将来も有望だ。更に令嬢達から引く手数多だとも聞いている。それなのに今まで一度も会ったことのない……ましてやまだ七歳の娘を、君はどうして選んだんだ」
貴族制度が撤廃をされた帝国と言えども、平民が公爵家から持ち掛けられた縁談を断るということは並大抵ではない。
この少年の意図は測りかねるが、もしそれを分かった上で縁談を持ちかけたのだとしたら質が悪い。
「あまりこういう事は考えたくないが……他の女性達を牽制する為に娘の名を借りようとしているのならば、辞めて頂きたい」
「それは違います!」
ジークフリートは突如声を張り上げると、沈痛な面持ちで一心にルーカスを見つめた。
しんと静まり返る応接間。
途端、先程まで意識をしていなかったホールクロックの音が、カチコチと大きく聞こえ始める。
(なんだ……。話に聞いていた印象とは、随分違うようだが……)
ルーカスは目を見張ると、心なしか潤んでみえるその黄金色の瞳を訝しげに見つめ返した。
視線の端では、息を呑むヴィクトールの気配を微かに感じる。
「……急に大声を出してしまい、申し訳ございません」
ジークフリートは消え入るような弱々しい謝罪と共に、深々と頭を下げると、やや間を置いて姿勢を正した。
「突然このようなことをお伝えしたところで、信じてもらえないかもしれませんが……。彼女が……フィオナさんが……私の探し求めていた人だからです……」
声を詰まらせながら紡がれたのは、まるで恋愛小説のような台詞。
若者故の大口だと揶揄されかねないその言葉に、大人二人は一瞬顔を見合わせる。
「……君は一体、何を……」
(どういうことだ)
ルーカスは眉を顰めると、一心に自分を見つめる黄金色の瞳と再び向き合った。
彼は今しがた、フィオナを探し求めていた人だと言った。
それは理想や好みというニュアンスではなく、まるでフィオナのことを待っていたかのような口ぶりだ。
しかしフィオナが誕生をしたのは自分が帝都を離れた後。
無論、これまでジークフリートに会わせるどころか、写真すら見せたことはない。
「君は、どこかであの子に会ったことがあるのか?」
「……いえ」
「ならば、何故そこまで……」
理解が追いつかず、訝し気に問い掛ける。
するとジークフリートはふっと目元を緩め、それはそれは穏やかな笑みを浮かべた。
「私の持てる全ての言葉を紡ぎ合わせても、きっと、この思いの丈を貴方にお伝えすることはできないでしょう……。ですがこれだけは伝えさせてください。……私はただフィオナさんの傍にいたい。生涯を共にしたい。彼女以外、何もいらない……」
「……そこまで……」
はっと目を見張り、息を呑む。
目の前の少年が漂わせる雰囲気は、とてもではないが十三歳のものとは思えない。
ヴィクトールの言う達観という言葉では、いささか違和感を覚えるほどに。
そう、まるで、成熟した大人のような。
「ベルンシュタイン卿」
「なんだ」
「貴方が騎士と結婚を望んでいないことは、既に承知しております。ですが私も、簡単に引き下がるつもりはありません」
「…………ならばどうする。退団し、別の職に就くか?君はまだ若い。今から勉学に励み、新たな職に就くと言うのなら考えてやらんこともない」
「いえ、私は退団するつもりも、彼女を諦めるつもりもありません」
「……話にならんな」
ルーカスは微かに湯気を立てるコーヒーを一口も飲むことなく、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「これ以上は時間の無駄だ。申し訳ないが、ここで失礼する」
「お待ちください、ベルンシュタイン卿っ!!」
ジークフリートの悲痛な声に胸がずきんと痛む。
しかしルーカスは押し黙るヴィクトールと視線を合わせることなく、頭だけを下げると、素早く踵を返した。
(これで良い……)
保留と伝えていた手前、断り辛い状況ではあったが、今回ジークフリートに会い確信した。
彼は想像をしていたよりも強い。
そしてこれから更に力を付けていくことだろう。
ともすれば現役の師団長すらも早々に超えるかもしれない。
(だからこそ、この縁談を認めるわけにはいかない)
帝国を守るため、常に死と隣り合わせである戦地へ赴かねばならない騎士。
そしてより強者ほど命を狙われることを、自分は誰よりも経験し、その過酷さを痛いほど理解しているつもりだ。
今こうして家族と幸せに暮らせている日々でさえ、ふと時折、幻なのではと感じてしまうほどに。
故に今回のことは決して彼に非があるわけではない。
あるとするならば、あの日、弱かった自分自身だ。
「……はぁ……。この頑固一徹が」
不意に紡がれた呆れを含んだ声。
ルーカスがはっと足を止め振り向くと、そこには腕を組み、薄ら笑いを浮かべるヴィクトールの姿があった。
「先程から黙って聞いていれば何だ、愚痴愚痴と。素直に言えばいいじゃないか。これから先、今よりも力を付けたジークは必ず戦場の最前線に配置される。そこは常に死が付きまとう過酷な現場であり、自分はそのことが心配で仕方がないのだと」
「……それは……」
心の内を見透かされ、無意識に体がかっと熱くなり、思わず言葉を詰まらせる。
するとヴィクトールは、微塵も表情を変えることなく手招きをすると、再びソファへ戻るよう促した。
「すまんな、ジーク。少し口を挟むぞ」
「……はい」
ヴィクトールから目配せをされたジークフリートは、見るからに落ち込み肩を落とすと、促されるままソファにゆっくりと腰を下ろすルーカスを不安気に見つめた。
「……なぁ、ルーカス。そろそろお前自身もその記憶の呪縛から解放され、前に進む時じゃないのか」
「前に進む?」
ヴィクトールのその言葉に眉をひそめる。
再三彼に言い続けてきたことは、自身がそうであったように、家族に悲しい思いをさせたくない。
ただそれだけだ。
けれどヴィクトールはその心の内を知ってか知らずか、話を続けた。
「いいか、人は誰だっていずれ死ぬ。それは何も戦場だけとは限らない。不慮の事故、あるいは病気で命を落とすことだってあるかもしれん」
「それは……そうかもしれませんが……」
「ならば何故、お前はマリーと結婚をした。最も過酷とされる最前線で、常に指揮を執り続けてきたお前が、何故マリーと将来を誓い合った」
「…………」
刹那、言葉を詰まらせたルーカスの脳裏によみがえったのは、マリーと初めて出会った頃の温かく愛おしい記憶。
花がほころぶような笑みを浮かべる彼女に、自分はあの日、すぐさま心を奪われた。
「ルーカス、私はな、騎士こそ愛する家族を持つべきだと考えている。現にあの日、瀕死状態のお前が命を繋ぎ止めたのは他でもない、マリーの存在があったからじゃないのか?」
「…………」
ゆっくりと、ゆっくりと、心の奥底で凍っていた想いが、溶け始める。
「それにだ、独り身の時のお前といえば、どれも我が身を振り返らない無謀な戦術ばかりで、何度肝を冷やされたことか。それが結婚した途端……なぁ?」
「……面目、ございません」
可笑しそうに声を出して笑うヴィクトールの手前、ルーカスは突如若気の至りを晒され、居たたまれなくなり、反射的に頭を下げた。
その間にもゆっくりと溶け出した想いは、溢れ出し、やがてルーカスの心を明るく照らし始める。
「なぁ、ルーカス……大切な者の存在というのは、時として枷になることもあるかもしれん。だが、それ以上に得難く尊いものを与えてくれる」
「閣下……」
「お前とマリーの縁が結ばれたように、どうか、ジークにもフィオナとの縁を結ぶ機会を与えてやってはくれんだろうか……」
これ以上断り続けることは、もう無理だと思った。
「……俺の、負けですね」
「……っ!!」
刹那、先程までの不安気だったジークフリートの表情は一変。
みるみるうちに喜色満面に瞳を輝かせると、深々と頭を下げ、やがて肩を震わせ始めた。
「あり、がとう……ござい……す……」
声を詰まらせ、ぽたりと一粒の雫がこぼれ落ち、ジークフリートの握り締めた拳を微かに濡らす。
「おいおい、男が人前で涙をみせるものじゃないぞ?」
ルーカスは目元を緩ませ軽く笑うと、その瞬間、自身の強張った体もふっと軽くなるような感覚を覚えた。
(ジークフリート君も相当緊張していたのだろうが、俺も大概だな……)
人知れず、ふっと苦笑をする。
(だが、これからが本題なのかもしれない)
「婚約についての細かい誓約書については追々で構わない。ただ、どうしても付け加えておきたい条件があるんだが、いいか?」
「はい。何でも仰ってください」
腕でぐいっと涙を拭い、姿勢を正したジークフリートの瞳は、以前のように自信に満ち溢れ、力強い光を放っていた。
(良い目をしている。彼なら、あるいは……)
「条件と言っても単純な話だ。俺の強さを超えること」
「……貴方を……。それは副団長以上、更にマスターランクになれと言う意味ですか?」
「解釈は君に任せる。だが、俺が何故その条件を課したのか、その意味を汲み取って貰えると有り難い」
ジークフリートは眉根を寄せ押し黙ると、やや間を置いて、はっとルーカスを見据えた。
「戦場で生き残る為に、ですね」
「そうだ。お前なら必ず遂げられると信じている。……それから」
「はい」
「これは俺の……いや、我々夫婦の願いでもあるんだが……。もしこれから先、君と娘が結婚を迎える日が訪れたその時は……」
「はい」
「その瞬間から君が最期を迎えるその時まで、決して娘を一人にせず、ずっと傍で支え合うと約束して欲しい。……そして、やがて君と添い遂げた人生が幸せで尊いものであったと……そう、最期に娘が笑顔で答えられるような……そんな家庭を築いて欲しい」
次第に声が震え、視界が滲み始める。
人に泣くなと言っておきながら、この様だ。
ルーカスは深く深く息を吐くと、ジークフリートに向かいゆっくりと頭を下げた。
それは二人の婚約を認めるという自分なりの肯定の意であった。
「約束します……。必ず戦場から生きて彼女の元へ帰ること。そして……最期を迎えるその時まで、私の魂は彼女と共にあることを……」
頭の上で微かに震えて聞こえた言葉。
ルーカスがゆっくりと姿勢を正すと、そこには再び深々と頭を下げるジークフリートの姿があった。
ぽたり、ぽたりと涙がこぼれ落ちるも、今度は一度も拭おうとしない。
懸命に頭を下げ続ける目の前の少年に、ルーカスの心は穏やかな温かさに包まれ、自然と目元が緩む。
やがて、対面で静かになりゆきを見守り続けていたヴィクトールにも頭を下げる。
もちろんこの先、ジークフリートに限ってはありえないだろうが、どちらかが婚約解消を望めば、この件は白紙に戻されるだろう。
しかしこの時のルーカスは、不思議とそのようなことは起こらないのでは、と思った。
無論、それはただの勘に過ぎないのだが、ジークフリートを見ていると、そう思わずにはいられなかった。