泡世縁起絵巻…ショートストーリー
京都の奥地で様々な妖しとの闘いをする秘道の少年たちの闘いと愛の物語。
昔サイトで連載していたものを短かったので、一枚にまとめました。
BL風味です。
前書き
この小説群は古いので、阿蘇芳の名前が綾鷹になっていたり(昔つけていた名前。今は阿蘇芳)
茶郷さんが綺堂さんになっていたります。
泡世の、サイトの頃に書いていた重要な小説たちです。
泡世縁起絵巻の物語を、どうぞ!
●雪渡り
寒いお休みの日は、ちょっと日帰りで温泉にでも行って、
雪見温泉にあつかん、地元ならではの郷土料理に舌鼓でも打ち、
旅先に出会った美人と仲良くなって。
そんな休日を送りたい前園さん。
…そんなうまくいくわけねーだろ、と阿矢鷹君のつっこみ。
寒いなら、寒いならではの冬の楽しみがある。
涼は阿矢鷹を待って、軒下で両手をこすり合わせている。
はぁはぁと白い息を吹きかけて。
着物からでている部分の肌が寒いのだ。
もうすぐ来るよ。
●待ちぼうけの二人
雪が枝を重く折ろうとしている。瓦の上も、塀の上も一面の雪だ。京都も雪景色だ。東京にも降った。
忙しい旅行雑誌編集の仕事の合間をぬってようやくやってこれた、秘道の世界。
遠くから、御鬼道の装束をすっぽり隠した角袖コートにマフラー姿の人影が見えた。
コートの下から覗いているふくらはぎは素足に近いのでとても寒そうだ。
「来たか、おっさん。遅え。待ったぜ」
じっと動かないで口だけ動いた。寒いから、極力動かないよう体力に気を使っているのだろう。
これから仕事だ。じろっと目がこちらに向けられる。鬼に睨まれたという気持ちだ。
なんだか楽しくなる。
「久しぶりだなぁ、阿矢鷹。寒いな」
前園は、仕事の時間になっても阿矢鷹一人で待ち合わせ場所にいたことに、
一瞬、心に冷たいものがよぎった。しかし、気のせいだと思いこもうと阿蘇芳に話しかける。
「今回は来ないのか」
阿矢鷹はなかなか答えない。
「…来ねえよ」
長い間があって、いじけたような声が返ってきた。通りに向けていた目を彼に戻す。
うつむいて雪を蹴りながら、
「こんなことざらだ。茶郷のおっさんから、涼は用があって来られないって言われれば、
こっちは詳しいことも教えられないまま一人で仕事に向かう」
「その…」
言葉につまる。
「これない理由っていうのは、そのつまり」
「前に言ったはずだぜ」
恐ろしく低い声が返ってきた。たしかに、以前、祥が兄成人にどうこうされているという話はされた。
だが信じたくはなかった。
その時も、唖然としてしまっただけで、阿矢鷹の言うことをただ、驚くまま聞いて終わってしまったのだ。
見ようともしなかった現実がまた目前にやってきて、前園は言葉も出ない。
心がどんど冷めてゆくのが分かる。
「仕事中どれだけ耐えようとしても、祥のことが気になって集中できない。
それでミスして怪我しても誰も同情してくれねえよ」
そういう世界なんだここは。言い捨てた阿矢鷹は、だがしかし諦めているような、小さな声だった。
彼らしくないな、そう思おうとして、しかし当然かと思いなおした。
誰も助けてくれないのだろうか。
若い少年の心と体が引き裂かれてゆくのをただ黙って見過ごしてゆかなければならないのだろうか。
おかしいと思った。たとえ秘道の掟がお家騒動に口をだしてはいけないということだとしても、
ここは同じ日本だ。
法律のあるこの国で、それに反する行為があるのはおかしいと頭にそんな言葉がよぎった。
「阿矢鷹、祥のお兄さんとは会えないのか?」
「やめとけよ。どういったってあの男は聞きやしないぜ」
「じゃあ、茶郷さんに話がある」
秘道の仕事を一手に引き受けている人だ。
外とのつながりがある役割を帯びているのだから、会えないということはないだろう。
言いながら、ふつふつと闘志めいた気持ちが湧いてきた。
「阿矢鷹、祥を救おう!俺たちにできることはそれしかない」
「だから無理だって」
「茶郷さんなら」
「あの人だって無理だ。大体あのおっさんは…」
「見てろ、俺一人だってやってやる。お前は、そこで指でも咥えてろ」
こんなことなら、涼のことを言うんじゃなかった…
とでもいうような顔をしている阿矢鷹を横目に、前園はなんだか元気がでてくるような気持ちだった。
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前園は元々新聞記者になりたかった。しかし、なぜか旅行雑誌の記者、編集兼ライターをやっている。新聞記者にならなかった理由は色々だ。あまり語りたくない。
今はどこも不況だ。小さい旅行雑誌なんて出ては消え、を繰り返し大手はコネがないとなかなか入るのは難しい。大学を卒業したての前園は小さな版元の旅行雑誌に、運よく編集として転がり込むことができた。
それが旅行雑誌「和旅」。(なごみたび)今はやりの新しい高級リゾートホテルや海外なんかではなく、日本全国の古い旅館や民宿ばかりを特集している、比較的高齢層を対象とした「和」を全面に押し出した旅行雑誌だ。 泊る所ばかりを特集するばかりではなく、各地の名所や名産品を写真やイラスト入りで紹介したりなんかしている。
そこでは編集としての仕事はもとより、写真から雑誌に載せる小さなイラストまでなにからなにまでやらされた。仕事は忙しく、月に三日休みがとれればいい方で、そこで体も頭もだいぶ鍛えられた。
そして気がつけばあっという間に三十代目前だ。会社の喫煙室で、くたびれた開襟シャツで徹夜明けの一服を吸っていると、ふっとこんな生活を捨てて、 もう一度、新聞記者の道を目指してみようかなと魔のさしたことを考えてしまう。元々、旅行雑誌なんかじゃなくて、新聞記者にあこがれていたのだ。
あの頃と心持ちはまったく変わっていない。持ち前の正義感と信念で、人に正しい真実を伝えていけらたらと。間違った世の中を変えられたらと。
「…困りましたね、そういうことを言われても困るんですよ」
目の前で、茶郷が渋い顔をしている。梅の香りがする。 前園と綺堂のすぐ隣に、小さな鉢に活けられて鎮座しているのだ。 二人は、畳の上に正座をして、一メートルくらいの距離で見つめあう格好で対峙している。
秘道の表玄関は京都の街中、町家の一軒にある。物も何も置いていない、がらんとした室内で、飾りといえば唯一、この梅の鉢植えだ。
「だって、おかしいでしょう?茶郷さん、ここは法治国家ですよ。目の前で、犯罪行為が行われていることが分かっているのに、誰も止められないなんて」
「前園さん、私は以前言ったはずです。秘道に関わりたいのなら、私たちの言うとおりにしてもらいましょうと。ここにはここの流儀がある」
「どうして間違ったことがまかり通るんですか」
「特別に許されているんですよ。警察にたとえ言ったところで、こちらの名前を言えば、彼らも必要以上につっこんできません」
どういう仕組かは深くわからないが、秘道の変わった体質に、ひるんではならない。
「しかし、虐待を黙って見ているわけにはいかない。私はあの子を知ってるんですから」
「下手なことをして事が余計こじれたらこちらとしても困ります。前園さん。あんまりそのことを追及なさるのならば、この世界からは出て行って貰いましょう」
事の深刻さを受け入れないばかりか、正しいことを言っているはずなのに門前払いをされるとは。二の句が告げないとはまさにこのことだ。前園は一瞬言葉を失ってから、負けるものか、と食い下がった。
「…あなたはどう思っているんですか?!知っていて、あんな少年が傷つけられているのを横目に見ていて、平気なんですか」
「確かにあの子は可哀想だと思いますが、我慢してもらうより他はない。そのうち、兄の方が飽きるまでそれを待ちましょう。大きくなって涼が男らしくなってこれば、興味も薄れましょう。それまでの辛抱です。辛抱することも、この世界では大事です」
町家を出ると、とうに夕暮れ時になっていた。雪は溶けて、石畳の通りに並んでいる柳は寒そうに揺れている。すぐ先の橋の上には阿矢鷹が欄干に腰をかけていて、両腕を組んでうつむいていた。
「…どうだった?」
「どうもなにも、あんな風に考えている人だとは思わなかったよ」
隣りまでたどり着いた前園の沈んだ声に、阿矢鷹がちらりと顔をあげて乾いた笑い声をあげた。
「駄目だったろ?ああいう人なんだ。俺だって、何回もおかしいって食いかかったもんな」
くるりと体を返して、阿矢鷹は川を見つめてつぶやいた。
「いつか殺してやる」
怖いことをつぶやいていると思ったが、止めなかった。水面に映っている柳が揺れている。
「間違ったことを言っているとは、俺は思わない。涼の苦しみは俺の苦しみだ。近いうち、俺はやってやる。嘘じゃねぇぜ。前園、そのときは止めるなよ」
元気のない顔をあげると、阿矢鷹が笑っていた。今度は乾いた笑いなんかじゃない。自信たっぷりの、いつもの頼もしい笑顔だった。ばしっと背中を叩かれて、前園はなんだかようやく少し笑えたような気がした。
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●祇園祭での逢い引き
夏祭りといえば、京都は祇園祭りだ。七月一日から一カ月間の間、さまざまな催し物が開かれている。 阿矢鷹と祥も仕事の合間をぬって、何度も遊びに来ている。なかなか二人のスケジュールが合わないことから、体のよい嘘をついて参加したこともある。いわば逢い引きだ。
山鉾巡行に始まって、神輿渡御、賑わう宵山の屏風祭、花笠巡行…華やかな祭りに目がくらんでしまうが、元は牛頭天王という、頭に角を生やした恐ろしい疫病をもたらす神の信仰が元になっている。
旅の途中の牛頭天王が、巨旦将来という裕福な男の家に一夜の宿を頼んだが、泊めてもらえず、その先にあった巨旦の弟の貧しい蘇民将来の家に泊めてもらうことができ、手厚いもてなしを受けた。そのことから、「疫病が起こったら、お前の家族は守ってやろう」と蘇民と約束して、巨旦の家族は見放されたのだった。
祇園祭りで、「蘇民将来子孫也」つまり、「私たちは蘇民の子孫」というお守りを見るたびに、自業自得、これが業かと、涼は見放された巨旦を哀れに思うが、情け容赦のない牛頭天王の怒りに身が縮む思いでもある。そして自身を振り返ってみても、得体のしれない心の鬼を倒すという仕事をしていると、自然に鬼側の気持ちにもなってしまう。
倒される側の気持ちになるというのはおかしいかもしれない。でも、人の痴情や怨念などの情念、そういう鬼。こんなものを扱っていると、自然と彼らだけが悪いばかりではない、という気持ちになることが多々あるのだ。
少し考えてみると、世の中は、正邪の判断がすごく難しいということを涼は知っていた。曖昧であやふやな境界線の上で日々を送る生活は、まるで夢の中のように不確かだ。名もつけられない不思議な気持ちになる。これが浮世か。
祇園祭りの人ごみの中、先ほどからなにか買ってやるとしつこい阿矢鷹に、祥は困っていた。
「ありがとう、阿矢鷹。でも…」
「兄貴に取り上げられるか?そんなガキみたいなことはまさかしないだろ、あの男だって。 それにどうせ荷物になることは分かってるよ。けどよ…」
阿矢鷹が口を尖がらせて、店先の八角お守りを涼に突きつける。
「たまの逢い引きなんだから、これくらい持ってろよ。俺も同じの買うから」
てのひらにころりと乗せられた木製のお守りの根付けには、「蘇民将来子孫也」と書かれている。女性向けのかわいらしい根付けお守りとは違い、渋い色合いと形をしているがこれならどこにつけても構わない。
阿矢鷹はこういうことを大事にする。涼の手に根付けを押しつけてうつむき加減なのは、少し照れているのだろう。なんだか笑いを誘うしぐさだ。今までも、こういう贈り物は何度も受けた。大切にされているなと感じる瞬間で、心がじんわりと暖かくなる。
問題は、これを兄に見つかり、取り上げられないようにしなければならないということだ。阿矢鷹との思い出のお土産を見つかって、取りあげられたことはいままでに何度もあった。
「…気にすんな。兄貴に見つかって取り上げられたら、また買えばいいことだ」
暗い顔をしている涼に、阿矢鷹が悟ったような顔をして言った。
「何度だって買えばいいだろ。こんなちっぽけなものいくらでも買えるし…何度も買い直して、あの男がうんざりして取り上げられることもなくなってこれば、こっちの勝ちだ」
阿矢鷹を見ていると、その父や母が思い浮かぶ。どちらも、優しくて立派な、礼儀正しい人で、その元で育てられた阿矢鷹の育ちの良さがよく分かる。強面な阿矢鷹だが、根は優しく、そして強い。涼はその相棒を務められていることを、誇らしく感じる。
「ありがとう、阿矢鷹」
祥は、自分が今満面の笑みを浮かべられていることを幸せに思った。
…可留羅のお誕生日に、由比牙が「これでお揃いになるだろう?」と、赤い珠の髪飾りを持ってきます。 昔、「友達の証しが欲しい」とねだった可留羅との約束を覚えていたのです。そのことに驚きと喜びを覚える可留羅…思わず抱きしめたくなるところをぐっとこらえます。
由比牙は可留羅のことを友人だと思っています。彼の報われない片想いはいつの日にか報われるのか―――――
●優等生高木君の欠点
真面目で硬派。まあ顔もよく体格も良い、おまけに成績優秀ということで比較的モテるわけですが、女の子からのお誘いは丁重にお断り…
「心に一人と決めた相手が見つかるまでは誰とも付き合わない心情」…とかなんとか考えているのか、なんだか古き良き時代の日本男児な高木君ですが、自分でも抑えられない衝動は、お酒を飲むこと。
「秘道」の面々が飲み比べをして、全員が床につっぷしていても、彼は顔を赤くしたまま飲み続けられます。いわゆる「ざる」というやつです…子供のころから、毎日、夕食の後に父親や祖父からお猪口に何杯かもらっていたのが、強くなってしまった原因かもしれませんが、いまだにその習慣は抜けず、こっそり祖父からもらったお酒を見咎めて、母親がコラーと怒ることもしばしば。
●自我を持ちはじめる鬼
鬼とは奔放な生き物だ。
人が目を離したすきに、宿主を離れることもできるらしい。
誰もいない和室で二人の雄雛と雌雛が遊んでいる。
「…私たちは滅びる運命なの?」
赤い目の少女が毬を投げる。
「人の恨みが成仏してしまえば、僕たちは消えてしまう」
向かい合ってそれを受け止めた赤い眼の少年が囁いた。
「たとえ生きていても鬼遣い(おにやらい)がやってくる」
少女がそう結んで、受け取った手毬を二人の真ん中に放り投げた。
てん、と床についた手毬は光がはじけて賽に姿を変えた。
真ん中に巨大な目玉がついていてぱちぱちとまたたきしている。
少年がそれを拾うと、また二人の真ん中に放り投げる。今度は金でできた虎の文鎮になった。
しかし、白目と黒目がさかさまになって奇妙に笑っている。
「そうだ、私たちの宝を徳の高い人間の宝と交換しましょ」
「いい考えだね。お金を持っている人のものがいい」
「そして高貴な血を持つ人のものがいい」
「清らかで綺麗な宝物をいっぱい集めれば、人間もきっと喜んで私たちを心に置いてくれる」
「わらしべ長者みたいになるといいね」
そういうと、二人の鬼は暗黒の顔に赤い眼を細めて笑った。
…可留羅のお誕生日に、由比牙が「これでお揃いになるだろう?」と、赤い珠の髪飾りを持ってきます。 昔、「友達の証しが欲しい」とねだった可留羅との約束を覚えていたのです。そのことに驚きと喜びを覚える可留羅…思わず抱きしめたくなるところをぐっとこらえます。
由比牙は可留羅のことを友人だと思っています。彼の報われない片想いはいつの日にか報われるのか―――――
(可留羅の修行場にて)
由比牙が誕生日のプレゼントに持ってきたという髪飾りは女がつけるものだ。
しかし、「小角道」の華やかな(悪く言えば派手な)正装束を身にまとった可留羅に、この髪飾りはよく似合う。
「…ばぁちゃんにもらったもんだけど、こんなの使わねぇし!」
由比牙が、己の名前を気にしていることはよく知っている。自分もそうだからだ。読みにくい上に二人といないであろう奇妙な名前に小さいことから反感とはいかないまでも「嫌だなぁ…」と思っていた。しかし、それを誉めてくれたのも、カッコいいと言ってくれたのも由比牙が最初だ。そして、彼だけでいいと思う。
可留羅は手の中の飾りを転がしてみた。
…おそらくこの珠の連なった飾りを、由比牙は自分の名前と重ねてしまったのだろう。でもきれいだ。
きっと自分より、由比牙がつけたらさぞ美しいだろう。
誕生日プレゼントに祖母からもらった髪飾りを持ってきたということは、きっと手持ちのお金がないのだろう。安物なんてプレゼントしても、意味がないと思ったのだろう。そっぽを向いた由比牙の背中が「情けねぇ、友達に贈るプレゼントの金すら用意できないなんて」と全体で不機嫌を伝えてくる。
…それでも嬉しかった。
由比牙の自分の髪飾りとこの髪飾りをつけた自分は、お揃いの姿になるのだろう。
きっと由比牙はそのつもりでこの贈り物を選んだのだ。
…昔「友達の証しが欲しい」とねだった無茶な約束を覚えていてくれたことがなによりの嬉しい。本当は、友達の証しなんかじゃなく、それ以上のものをねだりたい。
「いらねぇならさっさと捨ててくれよ!どーせ捨てるもんだ」
由比牙は強がっているが、こんな高そうなもの、おいおいと捨てられないだろう。
「ありがとう、由比牙」
女物の髪飾りをもらったというのに、思わず嬉しい声をだしてしまったが、由比牙は「…ん、そんなもんしか用意できなくて悪いな」とまんざらでもない返事を返して、その横顔は少し照れていた。
●…桜に舞う男の純情(獄ノ宮 阿蘇芳 ・ 高木 賢剛)
「秘道」の皆で会合が行われた時も、阿蘇芳だけが高木に話しかけない。視線も合わせようとしない。…去り際に、振り返りざま、肩越しに無言で睨まれた。嫌われているんだと思うと、じくりと胸が痛んだ。
家族は恐ろしいという阿蘇芳の目つきだったが、高木はそうは思わなかった。
弓なりにしなった眉の下の釣り上った目で見られると、気分が高揚した。
強い目線は強さの明かしだ。
七〇歳を超えても道場を切り盛りできる現役の、祖父も、ああいう眼をしている。
逸物だといまだに囁かれる祖父。…それに比べて孫の自分は…
羨ましい――――
だが、けしてねたんだり嫉んだりしたことはない。そんな態度もとったことはない。自分に非があるとは思えない…しかし、何故か阿蘇芳は、高木に冷たい。
そうされる心当たりは、己の心の中に見つけられなかった。
阿蘇芳が高木を一方的に嫌っているのですが、高木は仲良くなりたくて顔を見るたびに話しかけます。
しかし阿蘇芳はひどい言葉を返すばかりで、高木の純情な真心は時にずたずたに切り裂かれ悲鳴をあげます。
(たまに阿蘇芳も優しい時はあるのですが)
凄惨な仕事をしていることにより、心に深い闇を抱える阿蘇芳と違って、高木はひなたの中で育ってきたお坊ちゃま…。そんな男にいろいろととやかく言われたくないのが阿蘇芳の主張ですが、高木は根本的なところで阿蘇芳を分かってやれていないのかもしれません。
●後藤さんの素顔
阿蘇芳曰く:「黙ってれば二枚目、しゃべるとおっさん」
割と美形なのに、しゃべりだすと生活感溢れた会話とけっこうギャップのある人…
後藤も高木もそうなんですが、私、完璧な美形を作るのが苦手です。
美形でもそうでなくても、人間、ひとくせあった方が面白いと感じてしまうのです。
●学校での可留羅君
中学は珠代と同じ学校。運がいいのか、評判がいいのか(友達同士で仲がいいと同じクラスになりやすい。)
二年連続珠代と同じクラス。高校も珠代と一緒。良かったね。
「小角道」の正装束を着て街に降りたとき、 「見てー↑あの子、チョー盛ってるよねー↑」と噂された可留羅君。
どうやらギャルに目撃された模様。
●可留羅君・ファイト!
可留羅は今日も修行場だ。
最近、秘道の大人たちから、「他の子供たちにも可留羅を見習わせてやりたい」と言われるほど、真剣に修行を重ねている。
びゅっと突き出した槍は弧を描いてまたもとの位置に戻る。
それを何度も繰り返す。ひらひらと、白刃が太陽に煌いて、眩しさに目を細める。
「……」
可留羅は槍を持ち直し、動作を止めて、一呼吸ついた。
ひらりと待ってきた木の葉が岩盤の上に舞い落ちた。その上を、木漏れ日がゆらりと揺れている。
世の中は平和そうに見えて、そうではないことを可留羅は知っている。
陰の道を歩いてきた秘道は、素性も知れない得体の知れない、怪しい敵に何度も遭遇した。
気が抜けない世界だ。ここは。普通の人とは違う。だが、それだけではない。
―――追いついてやりたい。たとえ追い越すことは無理でも、一歩でも近づきたい。
闘っている時も、修行をしている時も、いつも彼の背中を思い出す。
阿蘇芳は親しい友人であるのと同時に、可留羅にとっては、憧れが入り混じった好敵手でもあった。
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●幾億の星のなかのひとつぶを選ぶような…
(阿矢鷹と涼のお話。阿矢鷹が本物の母親と再会するお話です)
祥は今、鬼退治の仕事のために、阿矢鷹と列車に乗っている。
太平洋を望む高架線を乗り越えて、風景がまた穏やかな田園風景に戻った。
しかし、反対側はまだ海の沿岸沿いで、電車と並んでカモメが空を飛ぶ。
任務に向かう電車はすいている。阿矢鷹と向かい席で、窓越しに、空高くを飛ぶカモメを見ていると、祥は、今までやってきた仕事や事件を思い出して切ない気持ちになる。
今日も依頼で、人の人生を変える。呪いを解く。悲しい運命を断ち切る。
人は、なぜこんなにも弱いのか。心に恐ろしい鬼を住まわせているのか。
(どうして僕は、まだ阿矢鷹の隣で生きていられるのだろうか)
兄、成人の折檻は日を追うごとに厳しくなっている。祥は、夜が来るのが怖い。
兄が祥に折檻をするのは夜、人が尋ねてくることの少ない戸締りをした後が多かったからだ。
「…なんか、またよけいなことを考えてるだろ」
角袖コートを着ている阿矢鷹の口元だけが動いて、祥の不安な思考をぴたりと言い当てた。
「そんなことないよ。ただ、空のカモメを見ていただけ」
「車窓から見上げる鳥は、見ていると暗い気持ちになるから、嫌だ」
「どうして?」
「なんか、人生も半分過ぎたようなお先の暗いおっさんが似合いそうな風景だろ?」
言い方が阿矢鷹らしい。椅子からずり落ちそうな悪い姿勢で涼を見つめる阿矢鷹の眼は鋭く、なぜか心を見透かされているような気持ちにさせられて、祥の心は揺れる。
いつだってそうだ。阿矢鷹の眼は祥の本当の気持ちを知っている。
そんなことあるわけがないのに、祥は、阿矢鷹の目には不思議な力があるような気がしてならない。阿矢鷹が、鬼の血を継いでいるからだろうか。
阿矢鷹は、祥の視線の先にあったカモメを見ながら、別のことを考えていた。遠い過去の話だ。
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「忌まわしい。なんと忌まわしい」
男の声は恐ろしさに震えている。
「忌まわしい子供が生まれた…狂うぞ。秘道の世界が」
その声は、獄ノ宮家の、母屋のほうから聞こえてきた。
「いくら、力がほしいからと言って、まさか本物の鬼と交わるなんて…」
しゃがれた男の声。吐き捨てるような声は、長年、獄ノ宮家の庭師をしていた五十嵐という男のものであった。
母屋のほうから、夜の静寂を割るような、赤ん坊の泣き声がする。遠くまで響き渡る長い、元気な声である。
「あの子は、遠い先、きっとこの家を不幸にする」
庭師は、獄ノ宮護丈に詰め寄って、そう言った。
穏やかな性格の護丈は五十嵐を叱らなかったが、彼は後日、家の手伝いをしている女中頭と、生まれてきた赤子、阿矢鷹を巡って大喧嘩になって、自分からこの家を去っていった。
赤子を可愛がる女中に五十嵐が、酷い言葉をかけたのが喧嘩の発端らしい。
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その時、まだ目の開かない阿矢鷹は、成長してから、そんな夢を見た。自分の記憶ではないが、たぶん、真実だろう。
鬼の血が見せるのか、秘道の不思議な力が見せるのか分からない。
忌まわしい。なんと忌まわしい。
いくら力がほしいからといって、まさか本物の鬼と交わるなんて…
あの子は遠い先、きっとこの家を不幸にする。
忘れられない、記憶に残る声。
その言葉を放った五十嵐という男はどうでもいいが、腹の立つ言葉だとは思った。
獄ノ宮護丈は阿矢鷹の義理の父親だ。
阿矢鷹は、護丈の姉と、山からやってきた本物の”鬼”との間に生まれたという複雑な生い立ちだった。
父親は、阿矢鷹の母である護丈の姉を孕ませたあと、すぐにいなくなってしまった。
護丈の姉と腹の子供を置いて、自分の住んでいた山に帰ったのだろう。
電車の中は、皐月のほどよい春の気温で眠い。
うとうととしながら視線を祥へやると、不安げな顔をしながら外を見ているから、 きっと、兄貴のことでも思い出しているのだろう。また声をかけて、旅館についたら、 仕事までには時間があるから二人でしっぽりと、あの兄貴のことなど、忘れさせてやろう。
本物の鬼である父親はもう一度出会うなど埒外だが、阿矢鷹は、本当の母親が今、どうしているのか知りたいとは思わない。
脳裏に浮かぶのは、育ててくれた、獄ノ宮春子のことばかりだ。
やさしい義理の母。そして立派な義理の父。
この二人がいるから、山へ帰った鬼の父親と、自分を残してどこかへ去った母親のことなどどうでもいい。
そう思っていた。
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京都から北上して信州でひとつ鬼退治の仕事をしてから、半日以上かけて陸奥国についた。青森のことである。
平安時代、都の勢力の及ばなかった常陸国(茨木)より上のこの東北の広大な土地は、全部がみちのく、つまり陸奥といわれて、有名な豪族が多くいてお互い合戦しあった過去がある。
青森からバスに乗り換えて、八甲田山へ向かう。
麓では温泉があちこちで噴出していて、仕事の依頼は旅館の近くの大岩という村の金持ちの家の娘が鬼に憑かれたということだった。
娘の鬼を払うその仕事は明日だった。バスを降りた阿矢鷹と祥は、とりあえず真っ暗になった夜の旅館に到着して、阿矢鷹は、珠代と前園蔵人に頼まれた「信州そば」の入った鞄を片手に自動ドアを通り抜けた。
「いやっしゃいませ。ようこそおこしくださいました」
旅館に入ると目の前に虎の琳派絵図の衝立がある。
廊下から現れた女の仲居が三人ほど並んで頭を下げて、そう声を合わせて二人を歓迎した。
内装は純和風で、古く頑丈な黒い柱が長い年月を思わせる、老舗旅館だ。
すると、奥から見るからに女将という風情の女がでてきた。藍色の着物を着ている。
「いらっしゃいまし。ご予約の二名様ですね。京都からとははるばる遠くからに…」
現れた美しい女将の声が止まった。驚愕のまなざしで阿矢鷹を見ている。
祥も目を見開いた。似ている。
誰と。
祥は隣で固まっている阿矢鷹を見上げた。
瓜二つとまではいわないが、阿矢鷹と、女将は似ていた。
つり気味の目尻やゆるやかに曲線を描く髪型。それだけではなく、少し恐い性格を匂わせる雰囲気も。
女はわなわなと唇を震わせると、ぱっと右手で口元を押さえて、奥へ逃げていった。
仲居たちが顔を見合わせて「どうしたんだろう」という顔をしたが、中のひとりが普段どおりの口調で、
「お荷物、お持ちしますね。奥へどうぞ」
という言葉をかけてきて、その場にいた全員が我に返った。
「阿矢鷹…」
部屋に案内されて、阿矢鷹と二人きりになると、祥は彼にすがり寄った。
「さっきの人…もしかしなくても、阿矢鷹の」
「ああ、たぶん、俺の血縁者だ。だが、余計なことは言わなくていい」
阿矢鷹はいつもの顔に戻っている。ぴしゃんとふすまを閉じると、すがってきた祥の肩を掴んで、早速座敷に押し倒す。
「でもいいの?阿矢鷹のお母さんでしょう?」
「いいんだ。あっちがなにも言ってこなければ、こっちもなにも言わなくて」
祥の口を奪いながら阿矢鷹は言った。襲ってくる阿矢鷹を押し戻して、祥は言い返した。
「どうして?」
「辛気臭い雰囲気になりたくないんだよ。いまさら、出会ったところで、実の母と子です。なんて、俺は嫌だ」
「そんなのどうでもいいじゃない。こんなところで出会えたなんて奇跡だよ?今何か言っておかないときっと後で後悔する」
「そんなことねえな。生まれたばかりの俺を捨ててこんなところでのんびりやってる母親なんて、俺は知らない」
「阿矢鷹…」
「そんなことより続きをしようぜ。仕事までそんなに時間もないことだしな」
ドライというか、あっさりしているというか…
でも、それが本心?
祥は阿矢鷹の腕の中で、普通の親子にはなれなかった、彼と、彼の母親の悲劇を思った。
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「阿矢鷹…!!どうしてこんなところに」
女将は裏庭まで逃げてくると、旅館の柱に身を隠して口元を押さえたままそう叫んだ。
自分とそっくりだった。一目で分かった。見紛うことなく自分の息子だろう。では、傍らにいたのは、代々、御鬼道の相棒を勤める風道の子供…?
(あの人の、子供…?)
優しかった風道の相方を思い出す。忘れることなどできない、永遠の片思い相手の、子供。
阿矢鷹がこんなところに母親を追ってきたわけがない。きっと、鬼払いの仕事で来ているのだろう。
自分が捨ててきた息子、いや、
(これは、代償なのよ。阿矢鷹)
代々鬼を退治してきた一門、御鬼道。しかし、年々その力が弱まり、本家は一族を盛り立てる力を欲していた。
そう、本物の鬼の血をほしがっていた。
そこで、選ばれたのが、阿矢鷹の本物の母親、琴音ということだった。
「―――分かりました。私が、鬼の妻となりましょう。しかし、代わりにお願いがあります」
御鬼道の世継ぎを巡って、座敷に居並ぶ、我利私欲に走る秘道の面々の横っ面をひっぱたきたい気持ちを隠しながら、琴音は顔を上げた。
(私が犠牲になればいい。でも、心までは、渡さない)
「息子を産んだら、私は御鬼道を離れます。その望みを汲んでくださるなら」
「一人にさせてください」それが、家に縛られ、本当に好きだった風道の人との恋が実らない運命の琴音の最後の願いだった。
阿矢鷹を生み、そうして、御鬼道を離れた琴音は陸奥国へ逃げ、あちこちを転々としたあげく、巡り巡って、阿矢鷹にまた出会ってしまった…。
この広い日本の中で、もう一度、自分の生んで、捨てた息子に出会うとは…。
これは、いくらくらいの確率だろう。
まるで夜空の星の中から、ひとつぶを選ぶような確率ではないだろうか。
女将は目から流れる涙を抑えることなどできなかった。
「もう一度、出会うことが運命だったのね…」
阿矢鷹。母を許して。
琴音は心の中でそう願った。
鬼退治の仕事を終え、ぼろぼろになった二人は旅館の温泉で十分英気を養った。
「お湯加減、いかがでしたか?」
と、笑顔の仲居に、
「よかったぜ」
「とてもよかったです」
と返した二人は、明くる朝、旅館をたつことになった。
祥は、ひそかに、二人がどこかで落ち合って話でもしないだろうかと願っていたが、阿矢鷹からはそんなそぶりも見かけなかった。
女将のほうも、最初に取り乱しただけで、二度、三度見かけても、もう「赤の他人です」という顔をして二人に頭を下げている。
しかし、阿矢鷹には目に見えて変化があった。
いつもより、機嫌がいい。
鬼退治の過酷で暗い仕事を終えても、心のなしか足取りも軽い。
これが、本物の母親にあった効果かと祥は心の中で喜んだ。辛い大変な仕事ばかりの日々で、この変化は嬉しい。
「お帰りですか?」
門のところで、女将が声をかけてきた。旅館を去るいままさにその時に。祥は答えた。
「ええ、もうバスが来ているので」
「あの、」
女将は傍らの阿矢鷹に手を伸ばしてそう声をかけた。
「なんだ?」
振り返った阿矢鷹の低い声は、こころなしか震えていないだろうか。
「…いえ、なんでも。その…」
煮え切らないような女将の声に、阿矢鷹は、じっと耳を澄ましているように見える。
女将はもう一度、声を振り絞るように阿矢鷹に声をかけた。
「あの、貴方は、今、幸せですか?」
なんていう質問だろう。初対面の相手になら聞かないであろう台詞だ。
もう、女将も隠せないのだ。自分が母親であることを。
切ないまなざしで阿矢鷹を見つめる琴音に、彼は普段の調子を崩さないようなそぶりで答えた。
「今が幸せかなんてどうかは、分からないな。でも、こいつがいるおかげで、俺はいつまでも元気でいられる」
こいつ、と、祥を顎で指しながら、阿矢鷹は答えた。琴音は、その答えにはっと驚いたような顔をしてから、ふっと花が開いたような笑顔を浮かべた。
「そうですか。なら、いいんです」
(私があの時代、あの人に感じていた気持ちと、同じ気持ちを抱いているのね、阿矢鷹)
歴史は繰り返す。そう、人も――――
そうして、そのまま母と子は二人、離れた。
阿矢鷹は帰りの電車でも、自宅に帰ってからも、祥に母親とのことを一言も話さなかった。
おそらく、義理の父親と母親にも話していないだろう。
阿矢鷹らしい。
寂しくなんかないのだろうか。いいや、きっとそれは嘘だ。
しかし、それより、嬉しいという気持ちが勝るのではないだろうか。
母親の居場所は分かったし、遠いがこれからすぐにでも会いにいけるのだ。
阿矢鷹は、帰ってきてからはいつもどおりで、祥は彼の母親に出会ったのは夢か幻ではなかったのではないだろうかと疑ってしまうようだった。
一度は生き別れた親子の数奇な再会。
そう、まるで、幾億の星のなかのひとつぶを選ぶような…奇跡的な再会。
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●阿蘇芳の素顔
つんとした表情。口先は軽いようで、時にどきりと動揺させるような重い言葉を平気で言う。
…阿蘇芳の性格が、つかめない。
なんとたとえようか…強いて言うなら…まるで、大人みたいだ。 まだ15歳なのに、達観してどこか諦めきっている。 そしてそんな自分をもフンと鼻でせせら笑っている…ややこしい表現だが、そんな複雑な表現が、合っているように思う。
「…なんか、子供らしい遊びとかしないのか?」
気になる。前園は隣に腰をかけている少年に声をかけた。
「子供らしい遊びってなんだよ」
真顔で見返された。阿蘇芳のくっきりした面立ちは、普通にしていても対峙すると、少し迫力がある。
「…なんていうか、めんことかべいごまとか」
思わず、いつもの軽口が口をついてしまう。
「…いつの時代の話だよ」
その言葉にまともに返事を返してくれる。阿蘇芳は終始性格の悪そうな口調で剣呑な雰囲気を漂わせていることが多いが、問いかければまともに答えてくれる。信頼されているという証拠だろうか。後藤はほっとして続けた。
「ほら、お前たちの格好だと、そういうの似合うだろ?俺は知ってる。子供のころから。やらないか?」
「…やるってこれから仕事だぜ。涼が着替え終わるまでここで待ってるってだけで…あんたも来るんだろう?」
「じゃあ仕事が終わってからだ。ここにもどっかのおもちゃ屋にでも売ってるだろうから、帰りに買ってくるぞ」
前園の本筋から離れた話は、どんどんずれていっていつものように聞きたかったことは聞けずに終わってしまうのだろう。今日も。 ―――性格だ。真剣に話したいと思っていることがあっても、なんとなく飛び出した冗談の方が話を弾ませるのが得意なのだ自分は…。 ああもううまくいかないなぁ…と心中で髪をかきむしりながら、前園は旅先で見かけた今までみたこともない形のべいごまのことを阿蘇芳に語り始めた…
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●血の匂い死の匂い
この仕事で、血を見ることはたまにしかない。阿矢鷹もあまり怪我をしたことはない。
しかし、阿矢鷹からは濃密な血の匂いがする。抱きしめられて、胸元に顔を寄せると、つんと鼻を刺すような錆びの匂いがする。―――きっとそれは、彼の体の内側から匂うのだろう。魔性の血が匂うのだ。
外は暗闇だ。月も見えない。ざぁざぁと森の唸る音だけが心にしんと響き渡る。
ほぉー…遠くで汽笛の音がする。
若草色のお湯からでる。清い肌衣に腕を通すと、なにも置いていない座敷に出た。電球はカチカチと瞬きを繰り返し今にも消えそうなほどかすかに橙色で、ほとんど闇だ。
濃い、お香が焚いてある。お風呂に入る前に用意したものだ。部屋は白く淀んでいるが、これは沈香の香りだからと胸一杯に吸い込んで、膝をつく。沈香はジンジョウゲの木を腐らせて作るのだが、 花には毒がある。美しい花には…という言葉の通りだ。これらは阿矢鷹がすべて用意したものだ。傷を負った体を休め、穢れた行為を忘れるために済ませておくようと言われていた。
「遅くなった」
玄関に、音もなく阿矢鷹が立っていた。黒い着物に袴姿。彼の父親も悪鬼降伏の時同じ服を着ている。大人用の御鬼道の正装だ。今日はいつにも増して、陰影の強い面差しをしている。
「父と寺に行っていた。悪かったな」
寺というのは、御鬼道に関わる寺のことだろうか。佛教の人々から御鬼道は嫌われているのに、つきあいのある寺もあるのか…知らなかった。違う一門である風道の涼には、相棒といえど、そこまで深く教えられていない。 返事を待たずに阿矢鷹がそばに寄って手を取ってきた。
「あいつの匂いが消えた」
くん、と匂いを嗅いで、こちらを見上げてきた。暗い眼をしていて、両目に墨でひいたような隈ができている。寺で何を教わってきたのだろう。御鬼道の教えはいつも怖い。強くて、容赦がない。 阿矢鷹の背後から、かすかな風に乗って声がする。阿蘇芳が連れてきた、僧侶の低い歌声だ。
釈迦堂の戸が開き 罪赦されし鬼が出る 地蔵菩薩を囲みいで 悦び舞いながら しゃんしゃんしゃんと鈴の音が 闇のものどもぞろぞろと…ぞろぞろと…
「…阿蘇芳」
座敷に押し倒され、強く抱きしめられる。阿矢鷹から、抹香の香りと ―――――深い白檀の香りがする。 深く吸い込むと、静謐な、死の匂いに肺が満たされる。 死を纏う阿矢鷹。鬼を倒すときはすさまじい激情を見せる阿蘇芳だが、今の馨りは不思議とよく似合う。
「…会いたかった。涼。ようやくだ。どうせあと数時間しかこうしていられないんだ。これが終われば…またあの家に戻らなきゃならない」
暗黒 黒憎魔 魔殺鬼 黒憎刻 根っ刻 黒寝刻 密刻 死刻 死を招き刻・刻・刻・刻…
彼の背中から鬼が死を刻む声が聞こえてくる。声は遠い。それに、阿矢鷹がいる。大丈夫だ。
むーみょーほーおーんーりーげーだーつーみーつーみーつーほー
悟りし聖人道迷い御手より千菩薩万観音憶釈迦湧きいずる…
…低くて暗い僧侶の読経も被さって来る。聞いたことのない、密語だろうか。
「いいだろう?祥」
抱きしめる力がさらに強くなる。
「うん。阿矢鷹、僕も…」
隙間がないほど深く抱きしめ合って、そのまましばらく動けなかった。暗いのに、ほっとするような安寧がそこにある。
ほぉー…遠くで汽笛の音がした。
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●守り神
いつのころからだろう、鬼が見えるようになった。
普通、幽霊とかお化けとか、子供のころに見えるというが、自分の場合は逆で、中学生くらいの頃から、不意に見えるようになった。
赤い眼に和服。幽霊だと思ってもいいはずなのに、なぜかそれは鬼なんだとわかった。 目が…恐ろしいからかもしれない。幽霊はもっと背筋がぞくりとするような感じではなないだろうか。目の前の存在は、恨みがましい、怒っているような憎んでいるような、情念にあふれている目だからだ。
自分の家が日本家屋であったために、和服の鬼は雰囲気にマッチしていて非常に怖い。自分の部屋で、勉強している時も、ベッドの上で雑誌を読んで音楽を聴いている時も、不意に部屋の隅に姿を現して、こちらを不気味に見つめている。 平常の時ならまだいいが、落ち込んでいる時や、気がふさいでいる時に現れると、ますますこちらの気が滅入ってくる。
一度…ノイローゼになりかけたときがあった。家族関係がうまくいっていなかった時だ。 鬼の視線を感じながら眠りにつくと、夢の中にまで鬼は現れてうなされた。
翌朝、目が覚めると、目の下に隈ができていてひどい顔をしていた。吐き気がする。なんだかむしゃくしゃしてきてなにかにやつあたりしたくなる。背後に鬼が座っているのが見えた。いらいらしてきて、その化け物をどなりつけようとした時だった。
『―――やめよ』
厳かな声だった。振り返ると、鏡の前に壮年の和服の男が立っている。
『よくない。それに関わると、お前の方が潰れる』
男は立派な体格でどことなく風格が漂っている。人でないことは確かだが、嫌な雰囲気はしない。むしろ、こちらから頭を下げたくなるような高貴な雰囲気すら漂っている。
「あの…」
『さっさと顔を洗え。顔を洗えば穢れも拭える。あまり心配させるな…』
男が深いため息をつきながら顔を覆った。まるで以前から自分を知っているような口ぶりだ。
あわてて蛇口をひねる。冷たい水に手をさらすと、目が覚めるような気持ちだ。背後に立った男はじっとこちらをうかがっているようで、すぐに消えはしなかった。ほっとするのと同時に、瞬時に彼が助けになると悟った。失いたくない。
御鬼道…という存在を知ったのは、京都の大学に入ってしばらくしてからだ。 鬼がそばにいても、彼らの手助けがいらなかったのは、その不思議な存在のおかげかもしれない。
――――もしかしたら、先祖の誰かなのだろうか。彼は、鬼に苦しめられるとたびたび現れて、よくない。ああしろこうしろ、と色々と助言をくれるのだった。
ここまで読んでくださって有り難うございます。
思い入れのある小話ばっかりで、
自分でも懐かしいです。
少しでも泡世の不思議な世界に浸って頂けたら、これ幸いでございます。