気が済むまで
ある日、僕が部屋で寝ていると固定電話が鳴った。
「私、コウリンドウの前で待ってるから。来てくれないと、私・・・・」
電話の相手はそう言った。
相手が、どうするつもりなのか気になったが、その電話は公衆電話からで掛け直すことも出来ない。
僕は、仕方なく、近所にある本屋の高林堂に向かった。
その日、僕は仕事から帰ると、夕食後すぐに眠った。
別に眠ろうと思っていたわけではなく、布団の上に寝転がってテレビを見ていると、知らない間に仕事の疲れから眠ってしまっていた。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
僕は、電話のベルで目を覚ました。
そして、まだぼうっとした頭で、公衆電話と表示された電話を取った。
「はい・・・・」
「私、コウリンドウの前で待ってるから。来てくれないと、私・・・・」
それだけ言うと、電話は切れた。
「コウリンドウ? 知るかよ、そんな所」
僕は、また眠りにつこうとした。
しかし、気になってなかなか眠れなかった。
何がそんなに気になったのか。
あの電話の声。
歳は二十代前半だろうか、なかなかいい声をしていた。
そんなことより何よりも気になったのはあのしゃべり方だ。
切羽詰っていて、今にも何かをしでかしそうな、あのしゃべり方。
「来てくれないと、私・・・・」
どうするんだよ。
どうなるんだよ。
死ぬのか?
まさか・・・・。
でも、どうしようもないもんな、俺には。
コウリンドウなんて所知らないし。
公衆電話からだし。
間違い電話かけてきたのは向こうなんだ。
第一、相手を確認しろよな、そんな大事な電話するんなら。
寝よ寝よ、俺にはどうすることも出来ないんだから。
僕は、そう自分を納得させて目を閉じた。
しかし、なぜか僕の頭の中では、コウリンドウが幅を利かせていた。
コウリンドウ、コウリンドウ。
そこで僕は、日本語の表記が三種類あることに気付いた。
「高林堂 ! 知ってる」
僕は、仕方なく着替えを始めた。
時計を見ると夜の十一時。
そして、玄関に行き靴を履いたところで、一瞬立ち止まった。
待てよ、このまま待ってれば、また電話かかってくるかもしれないな。
もしかかってきたら、その時に間違いだってことを言えばいいし、もしかしたら、ちゃんと彼氏の所にかけ直してるかも。
でも、もしかかってこなかったら・・・・。
かけ直してなかったら・・・・。
僕は、ドアを開け外に出た。
僕は、車で10分の所にある高林堂の前に着いた。
高林堂は、この辺で一番大きな本屋だ。
街灯の薄明かりの下にそれらしい人影を見つけた僕は、車から降りて歩いて近づいていった。
近づくにつれ、だんだんと人影の正体がはっきりとしてきた。
歳は二十代前半だろう。
僕より少し年下に見えた。
スーツを着たOL風のおしとやかな感じの女だった。
「あの」
僕は、恐る恐る声をかけてみた。
「え?」
僕の存在にやっと気付いた彼女がこっちを向いた。
「さっき、間違い電話しませんでした?」
「え?」
彼女はまだ、よく状況が把握できていないようだった。
仕方なく僕は、
「私、高林堂の前で待ってるから。来てくれないと、私・・・・」
と、さっきの電話を再現してみせた。
「あ! ・・・ごめんなさい・・・」
彼女はやっと気付いたらしく、そう言って頭を下げた。
「わかってもらえました?」
「ええ・・・・ごめんなさい、本当に・・・それでわざわざ?」
「うん・・・・なんか、切羽詰ったような感じだったんで」
「・・・・」
「携帯は持ってないの?」
「電池切れちゃって・・・・」
「そう・・・・じゃあ、そういうことで」
と言って、僕は立ち去りかけた。
しかし、その場に立ち続け行動を起こす気配のない彼女が気になり、再び声をかけた。
「電話しなくていいの?」
「え?」
「彼氏に」
「・・・・ええ」
「あ、あの後かけ直したのか」
彼女は首を横に振った。
「じゃあ、なんで?」
「いいんです、もう」
彼女はそう言って、夜空を見上げた。
「大丈夫ですよ。死んだりしませんから」
彼女はそう言ったが、僕はどうも気になって、その場を立ち去ることが出来なかった。
何がそんなに気になったのか。
彼女が自殺するかもしれないという事。
いや、むしろそれは口実で、僕の興味は彼女自身へと移っていた。
「いいって、どういうこと?」
「え?」
「さっき言ってたでしょ」
「ああ・・・・わかってたから・・・・もう駄目だって・・・・私たち」
「じゃあなんで?」
「決めてたから。気が済むまで待とうって。あの人が来なくても、気が済むまで待とうって」
「それで、その女に付き合ってずっと待ってたのか?」
「ああ」
僕は、職場で同僚の下部と、その日何回目かのあくびをしながら、昨日の出来事について話していた。
「もの好きだな、お前も」
「しょうがないだろ、帰るに帰れなくなったんだから」
「そんなにいい女だったのか?」
「え?」
「帰るに帰れなくなるほど」
「・・・・まあな」
彼女との再会の日は、意外と早くやってきた。
その日、僕が残業を終え会社を出たのは、午後十時を回ってからだった。
彼女を見かけたのは、車を十分ほど走らせ、信号待ちをしているときだった。
彼女は、交差点を越えた先の五十m位の所に一人で立ち、道路を覗き込むようにこっちを見ていた。
たぶん、タクシーを探していたんだろう。
そこへ、彼女にとっては運良く、僕にとっては運悪く、目の前の交差点を一台のタクシーが左折をしながら通り過ぎていった。
彼女は、待ちかねていたように右手を上げた。
「止まるな、止まるな、頼む」
僕の願いどおり、タクシーは彼女の前を通り過ぎていった。
その時、ちょうど信号が青に変わった。
僕は、左に出していたウインカーを戻し、彼女の元へ車を走らせた。
彼女は戸惑っていた。
それはそうだろう。
タクシーを止めるために右手を上げたのに、そのタクシーは通り過ぎ、代わりに乗用車が止まったのだから。
僕は彼女の警戒心を取り除こうと、助手席から顔をのぞかせた。
彼女は僕に気付いたらしく、
「あっ」
と、短く声を上げた。
「良かったら、乗っていきませんか」
「気が済んだ?」
僕は、助手席の彼女に声をかけた。
「え?」
「この間」
「・・・・ええ」
「そう」
「あっ、ここで」
僕はブレーキを踏んだ。
「ありがとう」
彼女は、ドアを開け降りようとした。
しかし、
「あっ」
という僕の声で振り向いた。
「また、会えないかな」
「え?」
「今度の日曜日」
「・・・・いいですよ」
彼女は、快く返事をしてくれた。
「じゃあ十時に・・・・場所は・・・・」
僕が高林堂に着くと、彼女は、もうすでに来ていた。
僕たちは微笑みあい、どちらからともなく歩き出した。
周りには、ごく普通のカップルに映ったに違いない。
まさか、間違い電話がきっかけで知り合ったとは思いもしないだろう。
こうして、僕と彼女との付き合いが始まった。
それから二ヶ月が過ぎたある日。
僕は、仕事の帰り道で、男から声をかけられた。
男は、中学時代の友達の合田だった。
「下部から聞いたぞ」
合田と下部は同じ高校に通っていた。
「何を?」
「間違い電話の話」
「ああ・・・・」
「どうだった?」
「何が?」
「良かったか?」
「だから何がだよ」
「やったんだろ?」
「何を?」
「やってないのか?」
「だから何をだよ」
「違うのかな?」
「だから何なんだよ」
合田の話はこうだ。
ある日の夜,合田の友達の家に電話がかかってきた。
それは間違い電話で、その内容は、僕のところにかかってきたものとほとんど一緒だった。
待ち合わせ場所が駅になっていたことを除いては。
そして、合田の友達は待ち合わせ場所に行き、女に誘われるままにホテルに行った。
「何でそんな事するんだよ」
僕は合田に、反発の意を込めて言った。
「男が欲しかったんだろ」
「もしそうでも、何もわざわざそんな事しなくても、他にいくらでも方法はあるだろ。テレクラとかナンパとか」
「だろ。俺もそう思っんだよ。で、そいつに聞いてみたんだ」
「何て言ってた?」
「抵抗があるんだってよ、そういうのは。それに、どうせなら、赤の他人のことを心配してわざわざ来てくれるような、優しい人のほうがいいからって」
「・・・・」
「ただの偶然か・・・・」
「当たり前だろ、俺のところにかけてきた娘はそんな軽い女じゃねえよ。きちっとスーツ着てて、OL風で、おしとやかで」
「同じだな」
「え?」
「俺の友達の、その女に対する感想と」
「どうしたの?」
デートの帰り道で、僕は彼女に声をかけられた。
「え?」
「何か考え事?」
「いや」
そんなわけないよな・・・・。
ただの偶然だよ・・・・。
俺なんか付き合って二ヶ月になるのに、キスどころか手さえ握ってないんだぞ。
そんな彼女が・・・・そんなこと・・・・。
ただの偶然に決まってる。
彼女のアパートの前に着いた。
「じゃあ・・・・送ってくれてありがとう」
「ああ・・・・」
僕は彼女と向かい合い、じっと目を見つめて離さなかった。
そして、彼女の肩に手を置きキスをしようと顔を近づけた。
「ごめんなさい」
と言って、彼女は顔を背けた。
僕は、残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちで彼女の肩から手を離した。
「ごめんなさい」
彼女は、もう一度そう言って足早にアパートの階段を上っていった。
「どう思う?」
僕は会社の昼休み、社員食堂で昼食をとりながら下部に話しかけた。
「んー、自然だったんだろ、キスの断り方」
「ああ」
「演技してるっていうような感じは?」
「ぜんぜん」
「じゃあやっぱり、ただの偶然だろ」
「だよな、やっぱりそうだよな」
僕はほっとして昼食を食べ始めたが、
「まあ、どうしてもはっきりさせたいんなら方法はあるけどな」
という下部の言葉に箸を止めた。
ゆっくりと顔を上げると、下部は続けた。
「面通しだよ」
「面通し?」
「ああ、刑事ドラマでやってるだろ。容疑者を取調室に連れてきて、マジックミラー越しに目撃者に確認させるやつ」
「・・・・ああ」
「あれやりゃ一発だよ」
わかってるよ、そんなことは。
わかってるけど・・・・。
「わかってるよな、そんなことは。俺に言われなくてもな」
「・・・・」
「まあ、お前の好きにしろよ」
「本当にいいのか?」
喫茶店の窓際の席で、下部は僕に言った。
「ああ」
「やめるんなら今のうちだぞ」
「大丈夫だよ・・・・今のうちにはっきりさせといたほうがいいんだよ」
「そうだな・・・・そろそろ時間だな。じゃあ俺、あっちの席に移ってるから」
下部は時計を見て、少し離れた観葉植物の陰になる席へと移った。
そこには合田とその友達がいる。
僕は落ち着かなかった。
ひっきりなしにタバコを吸い、コーヒーを飲み外をのぞく。
そして、ローテーションの谷間に見る時計は、確実に約束の時間へと近づいていった。
「来なかったな」
下部が、僕の向かいに座って言った。
約束の時間を30分も過ぎていたが、まだ彼女は来ていなかった。
「携帯も鳴らなかったな」
「ああ」
電源は切っていた。
事実を知りたいような知りたくないような、そんな複雑な心境が、僕にそうさせていた。
僕はほっとして、タバコに火をつけた。
「ちゃんと言ったのか?」
「ああ」
「自然に?」
「・・・・ああ」
「何か、悟られるようなこと言ったんじゃないのか」
「・・・・」
そう言われると、だんだん自信がなくなっていく。
「今度はいつにする?」
「今度って?」
「面通しにきまってるだろ」
「ちょっと待てよ」
「今のうちに、はっきりさせといたほうがいいんだろ」
「そりゃそうだけど・・・・」
と言ってタバコを消しかけた時、それは、下部の肩越しに僕の目に飛び込んで来た。
交差点を渡ってくる彼女の姿が。
僕は考えるまもなく、慌てて店を飛び出していた。
そして、彼女の前に立ちはだかった。
「ごめんなさい、急に残業してくれって言われちゃって。電話したんだけど通じなくって・・・・」
彼女は申し訳なさそうに言った。
しかし、僕はそんな彼女の言葉には構わず、
「いいから」
と言って、彼女の腕を取り走り出した。
「どうしたの?」
必死についてくる彼女の言葉を無視して、僕は夢中で夜の街を走り続けた。
いいんだ、もう。
もう、どうでもいいんだ。
僕は走りながら、そんなことを繰り返し思っていた。
ハー、ハー、ハー。
静まり返った小さな公園に、僕と彼女の激しい息遣いだけが響いていた。
「座ろうか」
僕たちは、ベンチに並んで腰を下ろした。
僕は、さっき買った缶ジュースの一本を、黙って彼女に差し出した。
「ありがとう」
二人して一気に半分ほど飲むと、やっと少し落ち着いてきた。
「どうしたの?」
「ん」
「何かあったの?」
「いや・・・・なんか、急に走りたくなって」
「そう・・・・」
彼女は、両手で握り締めた缶ジュースに視線を落とした。
「ごめん、疲れた?」
彼女は、小さく横に首を振った。
「よっ、逃亡者」
翌日、出社すると、真っ先に下部に声をかけられた。
「悪い・・・・そんなつもりじゃなかったんだけど」
「別に謝る事はねえよ。元々お前自身の問題なんだから・・・ただ」
「ただ?」
「昼休み、コーヒーおごれよ」
「あっ」
そこで僕は、昨日、コーヒー代を払わずに店を飛び出したことに気付いた。
「同一人物だってよ」
「え!」
僕と下部は、昼休みに近くの喫茶店にいた。
「冗談だよ、俺でさえ後ろ姿しか見えなかったのに、合田たちに見えるわけないだろ」
「驚かすなよ」
「驚かすなって、それを確認する為に行ったんだろ」
「そりゃそうだけど・・・・」
「どうするんだ?」
「どうするって?」
「このまま何も知らずに、付き合っていくのか?」
「・・・・」
「まあ分かるよ、お前の気持ちも。もし本当にそうだとしたら、彼女とは別れなきゃいけない。もし本当にそうだとしても、せめて一回ぐらいはやってから別れたいってとこだろ」
「・・・・」
確かに、心のどこかに、そんな気持ちもあったのかもしれない。
そんなことはないと、完全に否定することは出来なかった。
運命の日は、唐突にやって来た。
その日の僕は外回りで忙しく、最後の得意先を後にした時には、すでに8時を回っていた。
そして、遅い夕食をどうするか考えながら、車の止めてある駐車場へ向かっていた。
そんな時だった。
彼女を見かけたのは。
気になった僕は、すぐに後を追った。
しばらく歩いた彼女は、不意に足を止めた。
そこにはコンビ二がある。
しかし、彼女が向かったのは店内ではなく、その前にある公衆電話だった。
彼女は、おもむろに電話帳を取り上げ、ゆっくりとページをめくっていく。
そして、財布から小銭を取り出し、受話器を手にした。
その光景を見ているうちに、今まで彼女と一定の距離を保っていた僕の足が、自然に動き出していた。
「私、三里駅北口で待ってるから・・・・来てくれないと私・・・」
彼女はそれだけ言うと電話を切った。
そして、振り向いたとたん、背後にいた僕と目が合い、そのままの姿勢で凍りついた。
「どこに電話したんだ?」
「・・・・」
「俺も一緒に待とうか?三里駅北口で」
「・・・・」
「俺の知り合いの所にも同じような電話がかかってきて、そいつはその女と・・・・ホテルに行った」
「・・・・」
「何で・・・・何でそんなこと・・・・」
「・・・・」
彼女はうつむいたまま、何も答えなかった。
「アパートまで送るよ」
僕はそう言って彼女を促し、駐車場に向かった。
車の運転に集中していれば、少しは冷静に、彼女の話を聞けると思ったからだ。
車内は静かだった。
彼女は、ずっとうつむいたまま黙っていた。
僕は、彼女が話し出すのをじっと待っていた。
「淋しかったの・・・・」
しばらくして不意に彼女が言った。
「・・・・」
「彼にふられて・・・・すごく淋しかった」
「だからって・・・・女の友達でも・・・・」
「その友達に取られたの、彼を・・・・一番の親友に・・・・一番好きだった彼を・・・・」
「・・・・」
「淋しくてしょうがなかった・・・・居場所がないような気がして・・・・どこに行っていいのかもわからなくて・・・・」
「・・・・」
「そんな時、あなたに間違い電話かけたの」
僕はタバコに火をつけた。
「まだ世の中には、こんな良い人もいるんだなって思った」
「・・・・」
「こんな人と、ずっと一緒に居れたらって」
「じゃあなんで、他の男と・・・・」
「精神的にはすごく満足してたの・・・・でも・・・・誰かに抱きしめて欲しかった・・・・体温を感じていたかった・・・・」
「俺じゃ駄目だったのか?」
「まだ、付き合いだして間がなかったから・・・・そんな女だって思われるのが怖かったから・・・・」
「・・・・」
「そんな軽い女だって思われて・・・・また一人になるのが、すごく怖かったの」
信号が赤になり、僕は車を止めた。
「そんな女じゃないか」
「え?」
彼女はハッとして僕を見た。
「そんな女だろ」
僕は、彼女のほうを向いて言った。
言ってしまってから、自分でもドキッとしていた。
「そうね・・・・そんな女ね・・・・」
彼女はうつむいて、淋しそうに言った。
彼女のアパートに着いた。
「ありがとう」
と言って、彼女はドアに手をかけた。
僕は一瞬、会社帰りに、初めて彼女を送ってきた日のことを思い出した。
何もかも、あの日と同じたった。
僕の着ている服も、彼女の着ている服も、彼女の言った「ありがとう」という言葉も。
ただ一つ違っていたのは、僕が「また会えるかな」と声をかけなかったことだけだった。
その日僕は、会社の帰りに下部のアパートに寄っていた。
「これ」
僕がテレビを見ていると、下部が、スーパーの買い物袋一杯のみかんを持ってきた。
「そんなに」
「ダンボールに一箱送ってきたんだよ」
「そうか、お前の田舎広島だったな」
「ああ、こんなにいらないって言ってるんだけどな」
下部は、僕の隣に座りながら続けた。
「どうなんだ、彼女とは」
「え?」
「あれから連絡とってないのか?」
「・・・・ああ」
「そうか・・・・このまま別れるのか?」
「・・・・」
僕には、答える事が出来なかった。
アパートに帰ると、僕を待っていたかのように電話が鳴り出した。
僕は、ゆっくりと受話器を取った。
「はい」
「・・・・」
相手はしばらくの間、何も言わなかった。
しかし、僕には分かっていた。
それが誰なのか。
「・・・・私・・・・分かる?」
「・・・・」
「よく電話かけてこれるなって思ってるでしょうね」
「・・・・」
「一つだけ、言っておきたいことがあって」
「・・・・」
「言っていいかな・・・・」
「・・・・」
「私・・・・」
「違います」
「・・・・え?」
「違います・・・・間違い電話です」
「・・・・」
しばらくの間、彼女は答える事が出来なかった。
しかし、やがて気を取り直し、明るい調子で話し出した。
「ごめんなさい」
「・・・・」
「私、馬鹿だから・・・・しょっちゅう間違い電話かけるんです・・・・」
「・・・・」
「馬鹿だから、私・・・・」
「・・・・」
「・・・・本当にごめんなさい」
彼女は、かすれた声で電話を切った。
それから数週間後、僕は警察に呼び出された。
そして、中年の刑事に案内され、霊安室のドアを開けた。
「お知り合いですか?」
刑事は,ベットに横たわった彼女の顔にかかっていた、白い布を取りながら僕に聞いた。
「・・・・ええ」
「昨日、交通事故でお亡くなりになったんですけど、身元が分からなくて」
「・・・・」
「それで、持ち物を調べていたら、これが」
刑事は、一通の手紙を僕に差し出した。
封筒には差出人の名前はなく、僕の名前と住所だけが書かれていた。
「それで、あなたに来ていただいたんですよ」
「・・・・他には何も?」
「ええ、財布やバックはちゃんと持ってたんですけど・・・・」
「自殺ですか?」
「いや、それはなんとも。まだ、運転手が見つかってないんで」
「・・・・」
僕は、変わり果てた彼女の顔を、ぼんやりと見ていた。
いや、変わったのは顔色だけで、顔は何事もなかったかのように、きれいなままだった。
「よっぽど好きだったんでしょうね」
「え?」
「あなたのことが」
「どうしてですか?」
「普通、誰でも持ってますよ、身元が分かるようなもの」
「・・・・」
「それが、唯一持ってたのが、その手紙だけだったから、こうしてあなたに一番最初に会えたわけで」
「・・・・」
「よっぽど好きだったんでしょう」
「・・・・死んでからでもですか?」
「え?」
「死んでからでもいいから、僕に会いたかったんでしょうか」
僕は、夜の街を歩いていた。
どこに向かっていいのかも分からないまま、ただ、歩き続けていた。
そして、歩きながら彼女の手紙を読んでいた。
〈お元気ですか。
あなたと会わなくなってから、どれくらいになるでしょう。
あなたに一つだけ言っておきたいことがあって、この手紙を書いています。
女嫌いにならないでください。
日本中、いえ、世界中探しても、私のような馬鹿な女は、私の他には一人もいません。
だから、どうか私のせいで、女嫌いにだけはならないでください。
それだけ言いたくて。
それでは、また、いつかお会いできる日が来ますように〉
僕は、いつしか高林堂の前に来ていた。
そして、傍にあった電話ボックスに入った。
僕の指は、自然と彼女の電話番号を押していた。
やがて、呼び出し音が途切れて留守番電話になり、僕は話し出した。
「俺、高林堂の前で待ってるから・・・・来てくれないと俺・・・・」
僕は、何度も何度も、繰り返し繰り返し、そう言っていた。
電話が切れた後も、震える拳で彼女の手紙を握り締めながら、何度も何度も、繰り返し繰り返し、そう言っていた。
そして、待ち続けるだろう。
この高林堂の前で。
気が済むまで、ずっと。