斜陽
私は小さな印刷会社で働いている。
自分で言うのは憚る事だが、有能である。
社長自ら、「こいつを入れたらうちの会社はもっと良くなる」と称賛したほどだ。
その言葉で入社が決まった訳ではなかったが、まあ、そのような経緯もあってここで働くことになったのだ。
仕事は毎朝九時から始まる。
私の仕事は、ただひたすらに印刷をする事だ。完全分業制なので、私では印刷できない物 ――たとえば封筒や、あがった印刷物の断裁等は、他の仲間が担当している。
私の担当しているものは、主にフルカラー・オンデマンド印刷である。いわゆるレーザーカラー印刷というやつだ。名刺や広告など、印刷可能な大きさと紙厚であれば、何でもやる。もちろん、白黒の印刷も含めてだ。
昨今、広告媒体は情報へと移り変わり、紙主体のものは著しく減少している。うちのような子会社は不況にあえぐばかりだ。
それでも何とか外回りがとってきてくれる仕事のおかげで、私がクビにならない程度には営業している。
成果が報われない事もたまにはあるが、仕事内容はそれなりに満足している。
職場環境はと言えば、良くも悪くもといった所だろうか。紙の保管と精密機器関連に神経を使うので、常に適温を維持しているおかげで年中快適だ。
紙の粉が工場の中に充満していたり、オフセット印刷機の稼働音が少々うるさかったりするが、それは印刷会社とは切り離せないものなのだから仕方がない。劣悪、とまでは言わない。体に良くないのではという懸念がないではないが。
それから、社内の人間との関係だが、それは可もなく不可もなく。人付き合いはどこへ行ってもこんなものだろう。合うかそうでないかは人によりけりだ。
ここだけの話、工員の先輩とはあまり相性が良くないようだ。業務連絡をするタイミングが、どうも合わないらしい。
先日も、通りすがりの彼に「インクが切れてますよ」と知らせたら、とたんに渋い顔になった。
「うるせぇなぁ、今忙しいのに。どうせならお前がやってくれりゃいいのに」
と、私に文句を言った。
仕方がないではないか、完全独立分業制なのだから。他の人間の仕事は出来ないのだ。それがたとえ先輩の言葉であっても。私だって、出来る事ならやっている。
などと、心の中では文句を付けていたが、もちろん歯向かう訳にもいかず、私はそれを黙って聞いた。
まぁ、その一言だけで、後はしぶしぶインクを補充していたけれど。
先輩の機嫌を損ねないようにするのはなかなか難しい。けれど、私は仕事に満足していて、楽しい毎日を送っていた。
突然、その日はやってきた。
会社が急に倒産したのだ。
その時初めてわかった事だが、どうやら資金繰りは自転車操業だったようだ。社長はノンバンクにも手を付けていたらしい。
起死回生をねらって設備投資をした事も、経営を悪化させる原因になったらしい。
ともかく、私は仕事を無くしてしまったのだ。
景気が悪い、景気が悪いとそこかしこで耳にしていたが、まさかそれを実感する事になるとは夢にも思っていなかった。
だが、捨てる神あればなんとやらで、私を働かせてくれるところが見つかったのだ。
やれ就職難だ、派遣切りだ、報酬カットだなどと、誰もが明日に不安を覚えるこのご時世、ありがたい話ではないか。私は早速そこで働くことにした。
新しい仕事場は、以前と比べて環境は良くない。埃は酷いし、薄暗いし、温度管理もされていない。人も少ない。
けれど、文句など言えない。働けるだけありがたいと思わなければ。
印刷するものは、ひとつだけになった。以前なら商品名は同じでも、内容の違う印刷物を何種類も刷っていたのに、ここでは毎日同じものばかり作る。せっかくの能力が活かせない。
ああ、駄目だ駄目だ。どうも不満ばかり言ってしまう自分が情けない。
しばらく、そうして同じものばかり印刷する日が続いた。そんなある日の事だ。
いきなり見ず知らずの者達が、職場に乗り込んできた。それぞれ、組みたてる前の段ボール箱の束を持って。
私はその光景に驚愕して、「どういう事ですか、何があったんですか」と彼らに問いかけた。
しかし、それに答えてくれる者はだれ一人としていなかった。
もう、おわかりだろう。私は、警察に連行される羽目になったのだ。
あれから何日もたったが、私は未だにここを出られていない。何も悪い事はしていないのに。否、私が気付かなかっただけで、結果的には悪事に加担していたのだろう。
私の何がいけなかったのだろう。きっと不満ばかり言っていたから、罰が当たったのだ。
もっと謙虚な気持ちを持っていれば、あるいは……。
いや、もうよそう。そんな事を言っていても始まらない。
さて、この『押収品保管室』とやらで、どうすれば仕事ができるのだろう?
「次のニュースです。
本日午前十時、○○県○○市において、大規模偽造グループの摘発が行われました」