緑のコート
まずはじめに、音楽だった。
ファンファーレのような電子音が、街灯の消えた世界そこかしこから、溢れ出す。
ファンファーレのあと、暗闇の中で密かに高揚した人々の目が、チカチカ煌めくのが見えた。
次に、流暢に歌うような英語が流れてきて、
子供が手に持つ光るおもちゃが、半径0.5mを色とりどりに染める。
「さあ、魔法が始まるよ」
パレードが、やってくる。
14:50のパレード
『雑踏』という言葉を辞書で引いたら、まさに私が今いる場所のことを指すであろう。
2月、平日、午後4時。
私が呆然と突っ立っている渋谷駅ハチ公口前は、様々な格好の人で溢れている。
制服姿の高校生、なるほど学校が終わってすぐに渋谷に来たのね。
足早に交差点を渡るスーツ姿のサラリーマン、商談に遅れそうなのかしらと勝手な想像をしてしまう。
スマホに視線を落としつつも、器用に人を避けて歩く若者や、大きな荷物を背負いながら辺りの写真を撮る外国人。
やっぱり、慣れない。
この、目的が一致しない人々が、様々な場所へ向かう異様さが、いつまでたっても慣れない。
“あの場所”だったら、人混みも苦ではないんだけれど。
腕時計を見ると、待ち合わせの時間まであと二、三分。
取引先が、今日中に必要だと言う書類を届けにきたは良いが、それを持って外出するとかで、取引先に伺うのではなく駅で待ち合わせになった。
私は私で、それ渡したら直帰でいいよと言われたのでノコノコやって来たのだった。
去年のセールで買った、お気に入りの真緑のコート。
取引先の人とは会ったことがないので、メールでこのコートのことを伝えてあった。
辺りを見回しても、このコートよりも真緑のコートを着ている人は見かけない。
スマホをポケットから取り出して、取引先からのメールを確認する。
ロック画面を解除した途端、画面にメッセージがポップアップされた。
15分ほど遅れる、と言うことと、文面からでもわかるほど、焦った謝罪の言葉が並んでいる。
いいよいいよ、だって私、今日直帰だもん。
気をつけて来るよう、簡潔に返事をした瞬間、スマホを持っていない方の手に何かが触れた。
「お待たせ」
驚いて、声のする方を見る。
そこには、私の手を大事そうに握った、全く知らない少年が立っていた。
普通、そう普通なら、驚きと共に手を振りほどき、この少年から距離を取るだろう。
しかし、私にそれは出来なかった。
まず目に入ったのは、漆のように艶やかな黒髪。
次に、長い睫毛に守られた、零れ落ちそうなくらい大きな瞳。
乳白色の陶器のように滑らかな肌が、寒風のせいかほんのりとピンク色に染まっている。
鼻筋はすっきりと通り、頬よりも強く濃いピンク色の唇は、どんなグロスを塗ったらそうなるのか教えてほしいくらい魅力的だ。
そう、手を振り払えなかった理由。
それは、彼があまりにも美しかったからだ。
一瞬美少女かとも思ったが、端正な顔から下はダッフルコートに学ランを着ているので、少年でまず間違いないだろう。
身長は私と同じくらいだろうか、とにかく顔が小さいので遠近感が狂ってしまう。
見惚れてしまって時が止まったというよりかは、あまりの美しさに天使でも降りてきたのかと混乱した結果、動きが止まったのだ。
ハッとして、正常な思考を取り戻す。
「………」
「…?」
正常な思考を取り戻したはいいが、今度は言葉が出てこない。
いや、だってこの子天使かもしれない。日本語通じない可能性だってある。
ああ、そんな、小首を傾げてこっちを見ないで。
「…」
「…えっと、ナナさん、ですよね?」
「…………誰」
あなた、誰。ナナさん、もっと誰。
私の怪訝な顔と声に、少年はようやく人違いだと気付いたのか、ぱっと手を離した。
そして困ったように笑いながら、コートのフードの紐を心許なげにいじりだす。
「あっごめんなさい…人違いでした…」
「でしょうね…」
ぺこりとお辞儀をして、美少年が180度向きを変えて足早に去っていった。
天使に出会えてラッキーだったと思うべきか、ナナさんって誰だよという答えの出ない問いに思案すべきなのか、なんとも言えない感情で美少年の後ろ姿に控えめに手を振って見送った。
すると斜め後ろから声をかけられて、振り向くと取引先の人が息を切らした様子で立っている。
「すいません、遅くなってしまって…!」
「いいえ〜大丈夫ですよ〜」
絵に描いたような、平身低頭を体現するその人を宥めながら、書類を渡す。
受け取った後、これまた駆け足で去っていく後ろ姿を見送り、そういえば、と思い先ほどの美少年が去って行った方を見てみる。
「ああ、あれがナナさん…」
100mほど先の人混みの中でも、美少年は光り輝いているようで一瞬で見つかった。
そして、彼の前には美少年と手を繋ぎ、ニコニコしている女性がいる。
なるほど、緑のコートを待ち合わせの目印にしていたのね。
待ち合わせの目印があること、顔を知らなかったことを見るに、どうやら親子か近い親戚ではなさそうだった。
手の繋いだまま人混みに消えていく二人を見送って、私も直帰を楽しむことを思い出した。
それにしても、
「ナナさんのコートは、カーキ色だと思うんだけどなあ」
だって、私のコートの方が緑が鮮やかでかわいいし。
そのうち続きます




